影-2

ーーー


淡々と告げられたニュース。いつものように鏡の前で憂いた後、朝食を食べていた。耳が寂しいなと思ってテレビを点けたらそのニュース。キャスターはたまに原稿を読むために顔を落としながら、ほとんどの時間は正面を向いて情報を伝えている。

ただそれだけ。ただそれだけでしかないはずなのに、俺が箸で掴んでいたウインナーを落としたのはその内容に心が酷く強い感情を覚えているからだった。内心、心は躍っていた。隠す必要はないのに体の内側、心で情緒を激しく感じていた。

俺の成し遂げてきたことは本当に実力だったんだ。

きっと実力で、積み重ねた努力でここまで上り詰めんたんだ!

天性じゃなかったんだ!

誰かに暴かれてしまうかもしれない、と怯えることなく生きていてよかったんだ!

日の下を避けて歩くような生き方をする必要はなかったんだ!

今まで理不尽だと思っていたけれど声を上げてこなかったことが一気に頭の中に流れ込んできた。これも嫌だった、あれも嫌だった。本当は言い返したかった。本当はどうして俺が、って言いたかった。過去に受けてきた不当な扱い、不必要な我慢、的外れな自己評価。

それが不当であった、と。それが不必要であった、と。それが的外れであった、と。そう確信できるだけのことを信頼、信用の元成り立っている人たちが発表した。信じてもいい。きっと信じて大丈夫。テレビはメディアの中でも正確性が問われる媒体だ。

誰かを非難するように扇動しているとも取れる記事やら、トピックはあるもののそこに間違いがあろうものなら個人のクリエイターが間違えた情報を流すよりもはるかに叩かれる。記事によってはとんでもない波紋を呼ぶこともある。

それに神様の影がある人はとても虐げられている環境にいる、と散々言ってきた。テレビやネット、この世界を生きる人たちは全体的に影がある人に同情的だ。もちろん天性じゃないんだね、という言葉をオブラートに包んだ結果の批判が裏側にくっ付いている暴力的な本音ではある。

全員がセンシティブな本音を言うことを避けているからクリエイターにどうせ神様の影があるんでしょ、と言えばそういうコメントをした奴が叩かれる世の中になったのだ。間違いがあってはいけない場所で、間違いがあっては相当な信頼を失う話題。

俺はこれを信じていい。胸を張ってこの先、ファンの前に立っていい。会ってみたいからファンと触れ合うイベントを作ったっていい。情報が漏れ出て、俺に神様の影があることを誰かが誰かにリークしてしまうことを恐れなくていい。活動の幅は広がり、俺はもっと承認欲求を満たすことが出来て、今までの不遇も笑ってネタに出来るような幸せな道を歩める。

今からでも遅くない。輝かし未来のために、何の用事もないけれど外へ出よう。顔を公表しよう。面倒くさいモザイクの編集作業とオサラバしよう。本当は嫌だった何かと離れることが出来る。

それを考えた瞬間。それを行った結果、未来を想像した瞬間。強く心臓が波打つ。一気に瞳孔が開く。一気に体中の汗腺が開く。

自分にとって都合のいい情報を前にして、それを飲み込もうとする時に起こる拒絶反応だ。正しいネットリテラシーではあるがそれが今は邪魔でしょうがない。嫌いなものを頑張って飲み込もうとする時に全身に鳥肌が立つような感覚。

信じたい情報を信じるからこの世にフェイクニュースは生まれる。

それに不安を煽られたことは一度や二度ではない。嘘を流す奴は巧妙だ。タダ、とか。危険!、とか。人間の潜在意識に基づいた言葉を巧み操り、心理を利用する。

信じたいでしょ?ホラ、みたいな意図がここにないとは言い切れない。神様の影の研究は国規模で行われている。それに国が息を吹きかければテレビ局だってそれを流そう、とか少しは揺れてしまうんじゃないだろうか。

頭を振って、心の中では頷いて、もう次のニュースへ行ったのにまだ点いているテレビはうるさいほどの存在感。

フェイクじゃない。嘘じゃない。これは全部本物。だって国が支援するくらい大きな研究で、国の機関が支援している団体が行った研究で、国民全員がその動向を見守っていると言ってもいい。強大なものはその影で人を欺く。それも分かっている。その上で、フェイクじゃない。

ただハンドメイドか、AI生成かはもう見分けがつかないほど技術は進歩した。その進歩した技術では影の真相を暴くことも、図られた真相を公表することも容易いだろう。


もし、これが、そう、だったら?


そんなはずはない。分かっていても、手放しで何かを信じられるほど神様に支えられてきた人生ではない。神様なんてこの世にいない、と思うに十分だった。背中のコイツらは神様なんかじゃない。ただの、演歌歌手の足元の煙幕的なものだ。演出の一環でしかない。俺という人生の演出。

ちょっといいことがあっただけで神様の影のせいにされたりした。その瞬間だけ神が外れているのだって見えているはずなのに。奴らは自分勝手だ。勝手にいなくなるし、いて欲しくない時にもいてくれてしまう。粗探しがしたい奴らの餌食になったことだってあった。

Bangに対しても、俺と言う一人の人間に対しても、神様の影があることの大変さを知らない人から冷たい視線を、敵意を、嫉妬を。信じるって言葉ほど大層ではないが全身全霊ではないだけの純粋な信を置いている人から受けたこともある。

そろそろ信じたいものを信じてもいい頃合いじゃないか?人生。

今日という日を生きている俺の思考回路を創り上げてきたのはその偏見を武器に無礼な物言いをする奴らが現実とやらを見せてくれたからだ。その現実を元に判断する。だから今、俺が信じたいと思うものは信じていいもの、のはず。現実というものを見た気になるから騙される。見た気になっているわけじゃない。俺は。

ちゃんと見てきた。ちゃんと不当だった。ちゃんと不必要だった。ちゃんと的外れだった。情報を扱う仕事をしている以上、嘘でないように。隠し事はあっても全てが真実であるようにしなければいけない。だから人前に出なかった。でも規模は大きくした。バレないようにわざわざ超田舎まで行った。ファンの中でアイドルがアイドルとして在れるように。


ピコン

箸から自分の汗が滴るほど手汗をかいて焦点の合っていない目でテレビにのめり込んでいたらしい。非現実的な音が俺を現実世界に引っ張り込んでくれた。

スマホのロック画面には《ばんぐちゃーん、ニュース見たー?》と表示されていた。

「なんだ、リジーか…」

顎からは今にも床に垂れそうなほど汗が集まり水滴となっていた。その緊張を自覚させたメッセージに返信する。

『どのニュース?』

すぐに既読がついて、返信がきた。

《有名俳優の不倫》

《俺ちゃんがきょーみあるのそのくらいじゃん?》

《おかたい情勢とかきょーみねーしー》


返信の隙を与えないような速度。フリック入力の速さが化け物級に早いんだった。リジーのどうでもいい情報を思い出して気が緩む。尿道まで緩んで、チビりそうだ。

リジーとはマニアックなファンが多く、それに支えられているファッションブランドの長であり、デザイナー。外部から頼まれてデザインしたりすることもあるんだとか。店舗をいつか持つのが夢だと言っている。ポップアップストアを開催すればいつも千客万来の大繁盛。その夢も遠くないね、といつも言い合っている。

絵も上手なので絵師としても活動している。ミュージックビデオのイラストを担当したり、この度どこかのグループの専属絵師にもなったんだとか。リジーという名前で両方活動しているが絵師としてのリジーの方が有名だ。ちなみに神様の影はない。

『だよな』

『ちょっとだけ見たよ』

《相手の女は全然応援もしてなかったけど俳優の方はさ、映画とか結構好きだったからちょーショック(涙)》

『ショックに見えないけど』

『どっちかってったら女優の方が俺は見てたから残念かも』

《マジでえ?胸はデカいよねえええ》

《グラビアでも食っていけるべ》

《転向してくれないかなーーー騒動が一通り落ち着いた時》

『スタイルがいいのは認める。顔はタイプじゃねぇ』

《ばんぐちゃんの好みとか知らないしーーー》

どうでもいいやり取りをしている間にニュースはまた別の速報に切り替わっていた。

どこかで誰かが死んだらしい。都内らしい。犯人はもうすでに捕まっているらしい。自分の名誉にかかわらなければそれでいい。俺のこのクズ人間具合を隠せているのはいくら関連がなくても神様のおかげかも知れない。

リジーは俺に神様の影があることを知っている。それを知っていても気にしている素振りはなく付き合ってくれている。

本人曰く、

「俺はお前の人柄が好きだ!」

だそう。今までの安心がこれからも続いていくとは限らない。もし神様の影が関わっていることを研究委員会が再び真実として発表し始めたらリジーは俺から離れて行ってしまうかもしれない。今まではただ関係するかどうか分からない。要するに関係していないかもしれない。だから人は嫌わないを選んでいた。

でもいつの日か。明日か、それよりも先か。関係している、と断言された時。人は堂々と嫌えるじゃないか。関係しているのならば、自分が手にするはずだったかもしれない栄誉をアイツはたかが運で奪っていきやがった、と。

気にしすぎると、ハゲるかな。

《これから撮影?》

『まぁ、そんなとこかな』

《ひゅ~スターは違うね!長くなってもめんどいしラリー終わるね》

可愛らしいスタンプが送られてきて終わった。

適当なところで会話を終わっても気まずくならなかったり、気にすることがないのがリジーの良いところ。

「撮影、はじめっか…」

仕事、というか動画を撮影して編集してという作業は楽しい。自分が好きな時に出来るから。毎日どこかに出社しなければいけない、通勤しなければいけない。人と触れ合うことが苦手でもないがそのストレスはBangには少ない。何もかもが家で完結してしまうから。

事務所に所属してはいるもののメールや、電話で次の動画の企画、その撮影場所、許可を方々に求める際の担当や役割分担を決めたりするだけでいいから本当に会うことは少ない。ほぼない、と言ってもいい。人と合って話す回数は今のところ人生でコンビニの店員が一番多いんじゃないだろうか。虚しい人生ですこと。本当に。

「こんにちはBangです!今日やっていく企画は、チョコレート溶かして実寸大アニメキャラ、頭部切断死体型を作ってみたー!体ごと作るとそれを食べるってなった時に鼻血で死にそうになる未来が見えるので頭だけなんですけれど許してください。好評だったら頭より下も作るかも。この前僕の某SNSでね、投票してもらったと思うんですよ~あ、フォロワー数200万人ありがとうございます~」

この喋り方も、表情の作り方も決して偽りではない。素だ。完全なる素。俺の素の純度100%。普段は一人の空間でケラケラ笑っていたらただの変人だから表情が死んでいるだけ。笑っていると集中できるものも集中できなくなるからそうしないだけ。カメラをいい印象を持ってもらうべき有機物、と認識しているだけ。

無理やり明るく振舞っているわけじゃない。無理やり笑顔を作っているわけじゃない。無理やりバレないようにスマイルで覆い隠しているわけじゃない。バレたい何かを持っているのをバレないようにしているわけじゃない。

「俺さ、アニメとか、漫画読まないんだけどまぁ、いくつかの漫画のキャラの中の推し、とも言えないくらいではあるけど好きなキャラクターがいるので…めっちゃ、にわかです。ごめんなさいー。どの作品においても、どのキャラも。そんなに詳しくは知らないけど、まぁ、好きかな、っていうのをいくつか挙げて、その中から皆様に選んでいただきまして、作っていこうかな、思っております。ってかさ、俺はどうやって作るつもりでいるのだろうね」

これはかなりの本音。なぜか家に3Dプリンターがあるからそれを使って型を作ればいいか。どうして家にあるのかは記憶にない。酔った勢いでポチった気がする。けれど記憶にはない。

「人の頭部の大体の大きささえも分からないんだけど。このキャラちゃんは身長が一体いくつなの?164センチ!?めっちゃ平均だね。平均?平均?もっと小さい?大きい?分かんないけど。検索履歴が物騒になりそうだな」

笑いながら物騒なことを調べていく。

上手い回答は見つからなかったので大体で進めていく。メジャーを引っ張り出してきて、自分の頭を縦横で測ってみたりもした。もちろんモザイクだらけになる予定だ。何にせよ、こういう所を流せば、律義に再現しようとしてる尊い!で埋まっていくんだろうな。

カットしよう。

「Bangはね、3Dプリンターを操れる子なのでそれで型を作り流し込み、色を付けるというなのピカソもびっくりの芸術作品を生み出すのが今日のお品書きとなっております」

カットするシーンもカメラは回しておく。後で早送りにすればいい話だから。型紙に必要な数字を打ち込んでいく。プリンターで樹皮が絞り出されていくところはタイムラプスにすると面白い。こういうシーンは人気なので絶対に撮り忘れのないようにしておく。

「髪の毛に関してはどっかで見たラップかなんかにチョコをしゃっしゃってやって曲げて固めるとか、そういうことをすればいいと踏んでいるーのーで…クオリティには一気に期待が出来なくなりましたね。皆さん。適当大魔王の癖が出ましたよ!鼻の生成は海外で似たようなことやってるチャンネルの方を参考にしつつ、って感じで進めていきますか!」

しばらく休憩タイム。

自分に対する評価や、感想が随時更新されるSNSを周回する。アンチコメントを見てもそう見えているんですね、としか思わないから特に心が揺れ動かされることはない。アンチをしないで、という人の神経も、アンチをする人の神経も俺は分からない。俺はきっと分かれない。分かることが出来ている未来が全く見えない。

クーラーをつけているはずなのに汗ばんできて、手の平や指の関節の湿り気がスマホカバーに移る。地味に怠い。白いカバーを選ばなかったのはいつか黄ばみそうだから。そういうカバーを使っていると物持ちがいい、モノを大切にするの偉い、なんだろうな、きっと。

子守唄を爆音でかけていたら眠れるのかどうかチャレンジでも次は撮影するか。眠れるわけないだろ。睡眠導入の音も大量に集めよう、と音源を探す。その他にはどんな動画を撮影しよう。ショート動画でビールの宣伝、これいいな。

メールを確認する。マネージャーが絞った案件をさらに俺が捌く。ほとんど会ったこともないのによく俺にここまで尽くしてくれるな、とマネージャーには日々感謝をしている。

スマホの上でしか人との関わりがないせいで。たまに一人でいすぎるせいで。『自分なにやってるんだろう』みたいなマインドになることがある。深夜に暗い部屋でよくわからない撮影をしている時とか特に。きっと子守唄爆音動画でも思うんだろうな。過去は受け継がれるジェンガ、とかなり多くの人が知っているジェンガを受け継いでしまったものでその動画を虚しく一人で撮影している時に思ったっけ。

何となく古参と呼ばれている五組のソロ、グループまちまちのクリエイターたちがいる。俺も何故か、その中に入っていて一番最初にそのジェンガを買い、元は普通だったのにそこに遊び心を持たせ一つひとつに黒歴史、初キスの年齢、その味、やら。彫っていった。お手製のラブジェンガみたいなものだ。それを国内最古参のクリエイターが引退するときに引き継いだ。そして二年ほど経った後、引き継いだグループクリエイターもメンバーが結婚願望があったメンバー全員が結婚して、子供が生まれて、安定を求めた。そして事業を展開し、動画業界からは退いた。そして俺に渡ってきた。これ俺も引退しろ、的な流れ?と未だに思っている。

その動画の時はキツかった。引退したグループクリエイターがビールやら、お菓子やら色々くれて、鍋に出来そうなものをセレクトしたうえで闇鍋、とタイトルをつけ食べながらなかなかにセンシティブな質問もあるジェンガを進めていった。崩れても罰ゲームをし合える相手もいないし、虚しいだけの時間だった。

「何思い出してるんだか…」

子供のころから一人を好む性格ではあったけれど、友達が欲しくないわけじゃない。むしろめちゃくちゃ欲していた気がする。矛盾みたいだけれど一人でいた方が楽だから望むけど、そこには可もなく、不可もない。可を求めるのは人として当たり前の感情の気もする。神様の影のせいで敬遠されてきた経験も理由の1つ。

出来れば一人にはなりたくない。でも一人の方が楽だから。その天秤は傾くことを知らない。どこまでも水平を保つ。

まだウィーンと機械の動作音を響かせながら型を作ってくれているプリンターくんに謝りたい。別のキャラの方が作りたくなってきちゃった。天邪鬼こそ、人間の本質ってことでいいかな???

明日の昼頃に完成する予定の型。それも右側。人間にはありえないシンメトリーに妥協して、右側、左側とただ反転させてもう一度同じだけの時間をかけて型を作成する。その間にも撮影の予定を入れているため何気に暇じゃない。

ふと思い立って俺は腰かけていたソファから足を動かす。

「どこにやったっけ…」

受け継がれるジェンガを俺は探していた。なくしたなんて言ったら世間に袋叩きだ。それは流石に許されないだろう。あの動画の苦い思い出で、でなんとなく愛おしさも思い出してきた。こいつに渡そうって思ってもらえたのは嬉しかったし、引退しちゃうのか、と寂しさもあった。


五組の中で神様の影があったのは俺だけ。でも他の四組は何も言わずに俺を受け入れてくれていた。俺に引き継がせたグループクリエイターは短編ストーリーを大量に作っている映像系だった。編集技術も高く、CGを用いて、短編なだけで映画レベルでしょ、ってくらいの作品も大量に作り上げていた。新事業というのも映画や企業のプロモーションビデオなど制作を本格的に行うようになるだけでほとんど変わらず、変わったのはプラットフォームだけだった。

企画系の他四組とはまるで毛色が違っていて、俺も一視聴者として楽しんでいた。年齢の差もあり、弟的な感覚で可愛がってもらっていて、子供を抱っこさせてもらったこともあった。

神様の影で怖がらせちゃってごめんね、と何度謝ったことか。苦くもあるが、ちゃんと楽しかった。

手で撫でると毛が逆立って色が変わるカーペットの上にブロックを出した。初代がわざわざ業者に頼んで刻み込んだコマンドたち。受け継いでいく俺たちのキャラクターが清純派とか、下ネタ言わない系なんか関係なしに、ぶっこんだ質問が大量にある。目につくものの中にいくつも確認できる。

そのうちのひとつを手に取ってみる。

「『もし何人でも、誰でも、もうすでに死んでいる人でも罪に問われることなく一度だけ殺せます。誰を殺しますか?』って…ブラックぅー…」

これを俺はあの時、答えただろうか。記憶がない。全て答えてはいない。時間的にもそうだったし、何より鍋にチョコを入れてしまったみたいで体調がよくなかった。あれは相当ひどい味だった。

「俺は誰を殺すかなぁ…」

不当な扱いをしてきた奴?理不尽なことを言ってきた奴?何人でも、っていうところがミソだな。俺以外の全てを殺すか?それはしたくない。

考えたって答えが出なさそうだったので俺は別のブロックを拾い上げた。『1000年生きられる薬があったら飲みますか?(答えた後下↓を見て)』

「いや…千年は長いな。それは嫌かも」

矢印の方の側面を見た。

『次の日食まで400年だったら?(答えた後右→を見て)』

「それでも」

右の短く、狭い側面を見た。


『100年生きられる薬だったら?(答えた後右→を見て)』

「それは飲みたいかも」


『俺も』


その二文字だけが書かれていた。

本当に?

どっちと答えると思っているだろう。初代がこの質問に答えていた動画はあっただろうか。そりゃああるはずだ。探そう。スマホを知りのポケットから取り出す。

「あった」

[【初代】ジェンガ刻印]

シンプルなタイトルの人だったな。それなのにサムネイルはとんでもなく騒がしい。ブレていようが、なんだろうが動画の激しさを伝えるためにいいだろ、だなんて言ってスタイルを曲げなかった。災害の時には何千万も寄付をして、トラックを課したり、撮影場所の倉庫を解放したり。まさに聖人だった。

ワイルドにぶっ飛んでいた。

「あ、これだ。これ」


『「1000年生きられる薬があったら飲みますか?」ってことなんだけど、まぁ、俺は飲まないかな!うん。だって千年は長くない?その間、知り合いとかは死んじゃう訳でさ。それはかなり悲しそうだから俺はやだ。飲まない。明日死ぬよ、って言われたとしても千年も生きたくはない。それで、これがわぁーお…「初めて彼氏or彼女が出来た年齢」は、ということで・・・』


え?

答えてない。

どうして?

答えているはずなのに、答えていない。まるで刻印がないかのように。


じゃあ二代目の方?

と思って動画を全て見たけど答えていない。両方の動画を注意深く見てみたけれどわざと手で隠しているようには見受けられなかったし、そもそも刻印がないように見えた。でもこれは初代、二代目、そして俺。仲介を挟んで渡した時はない。これを託す、みたいなタイミングはいつも職業病で手にくっついたカメラのRECボタンは押されている。

そしてこの家に入る人なんかいないし、いたとしてマンションの点検とか、水回りが壊れた、とかのタイミングだけ。住み始めて全部思い出せる程度の回数だ。

誰がこれに手を加えたのか。

ピーピーと炊飯器や、風呂のようなエンタメ性のない電子音が響く。どのくらいその場に蹲って、ブロックを注意深く観察しながら他にもないか、と探したり、誰がやったのだろう、と考えを巡らせたりしていたのか分からなかった。一瞬完成を知らせる音が、何の完成を知らせるものだったのか思い出せないくらいに集中して考え込んでた。

簡単な話。約束を取り付けて会って聞けばいい。引退した後、各々仕事に追われているらしいが昔のよしみで少しくらいは時間を作ってくれるだろう。それがダメならメッセージでもいい。

いや、メッセージはやめよう。見られていたら怖いし。傍受とか出来るんでしょ?知らんけど。でも会うのも面倒くさい。影がある人に対しての印象が変わっていたら。

いつからか尋ねないことに慣れていた。俺をどう思っているの?ってことも、いいと思っているか悪いと思っているかを気にしても、その理由を知ろうとはしなかった。都合悪い返事が返ってくるのが怖いからだ。

ファンしかいない。アンチは常に矛盾と共に在るから俺はそこを叩くことが出来る。いつだって俺は有利な場所にいた。自分から関わりを持とうとしたことなんてなかった。

ブロックをカーペットにほうり投げた。端っこの方、少し盛り上がっているところに跳ねてフローリングに当たり、音が鳴った。不快だ。

部屋を移動して、プリンターを操作するためにパネルを確認する。完成したモデルを取り外してください、と表示が出ているのでそれに従う。自動で次の型を作るようにしていたので再び規則的な動作音が聞こえてくる。

だから疑問が出てきてほしくなかった。だから疑問がなさそうな場所を選んだ。疑問を持たずに生きていけそうな仕事を選んだ。趣味が根幹なら俺という一人の人間を軸に生きていいよね、って。

ずっとそうだった。ずっとそうしてきた。

そうしたかったからではないけれど。


・・・


「息子さんのお絵描きが建設現場のパネルに飾られることになったんですよー」

どうして俺の絵が?

どうして他の子じゃなかったの?

嬉しそうに親に話す先生の方を見て俺はそれしか思えなかった。どうして自分だったんだろう。どうして自分じゃなきゃいけなかったんだろう。俺じゃなきゃいけない理由もないけど、何となくなんだろうけど。

答えを見つけて、それでいいよ、って次へ進んだ。

親に手を引かれて帰る途中、いつもの恨み事が耳を突く。

「影があるからなのにね」

「実力じゃないのにね」

「アンタが選ばれて、他の子が可哀想」

「あの子の絵はもっと色遣いが…」

かと思えば。

「こんなので満足しちゃダメなんだからね」

「影があろうがなかろうが認めてもらうために全部に秀でていなきゃダメなの」

「影がある人間はそれが義務なの」

「アンタなら出来るでしょ」

可と思えば。

「影があるのに出来損ないって突然変異なんじゃないの?」

「動物園の方が住み心地がいいでしょうね」


「どうしてアンタなのかしらね」

「パパとママの子供なのにどうして実力じゃないの?」

そのオンパレード。

出来ていた方ではあったと思う。それは神様の影が影響を俺に与えないとして。ただそれが親の求める水準に達していなかっただけ。俺の両親は影を持たない人だった。だからどの程度できるのかがわからないのだ。だから目測を誤っただけで過剰期待の認識はなかっただろう。

ただ神様の影は翼を持たない人間が空を制するのに飛行機以外の方法を使える、というわけじゃない。翼は結局のところ持っていないのだ。空を生身で飛ぶことは出来ない。終わらない、と分かれば俺はいつも笑顔を作った。

「えへっ」

そうすれば諦めてくれる。呆れてくれる。飽きてくれる。言っても無駄ね、と。何を言おうとこのガキは理解が出来ない。自分の子供じゃないからその仕打ちが出来たんだ。きっと、奴らは。だから諦めて、呆れて、飽きて、口を閉ざした。それ以上は言わなかった。決して傷つけそうだ、なんて思っちゃいない。傷つけているとも気づけないのだから。

ただその戦法が使えたのは幼稚園までだった。小学校に入れば許されなかった。

「なによ、この点数…」

「ごめんなさい。百点じゃなくてごめんなさい」

「影があるのにどうして百点じゃないの?その影はなんなの?飾りなの?」

怒鳴る母親を前にしてこの影がないと俺を俺だと認識してもらえないの?と疑問を抱いた。それを悪い波長の母親にぶつけるだけの勇気もなくただ黙って、正座をして、肩を掴まれながら、体を揺らされながら、目の前に突き付けるテスト用紙の九十六から目を逸らすしかなかった。

テストで百点以外を取れば飯抜き。学期末、よくできました以下がひとつでもあれば長期休み中の外出禁止。寝ている時間以外は勉強、精神統一のために写経。そして細筆の技能を太筆に生かし、書道を習わせ最低でも入賞。金賞以外はクソ。

罰は日常茶飯事だった。外側から見たら虐待だった。でも虐待なんて言葉をテレビでも、どんな情報媒体でも俺に見せるほど親は甘くはなかった。正当な教育。出来て当然、秀でていて然るべき、そういう立場に在って真っ当。だからそう在るための教育でしかなかった。しかしそれら全ては俺にとっては悪影響だった。

「今日は新しい塾の見学に行くわよ。だから早く帰って来なさい。寄り道なんて絶対するんじゃないわよ」

同じ内容の注意の数だけ子どおは信頼されていないと思う気がする。何度も聞いたよ、耳にタコが出来ちゃうよ。それって本来存在しないはずの言葉なのかもしれない、と思った。

「はい、母さん」

自分の心を覆い隠し、本音は言えず、本音がどれかも分からなくなるほどに人格は歪められていった。怒られないようにするために最低限の水準。外側から見れば『天才』と称されるほどの成績を収めることに徹していた。まるでロボットのようだった。

「あの塾はダメね。個人の対策がまるでなってないわ。集団クラスはやっぱアンタには向いていないのよ」

見学から帰って来てあぁ、またこの檻に入れられるのか、と日々過ごしていて違いを嫌う母のために片付けられない空間に違いを見出そうと見回す。

コードがズタズタに引き裂かれ、差し込むためのプラグには南京錠が嵌められている。というかそもそもテレビの画面は割れている。タブレットや、パソコンは親がいるところでしか使えない。それも全て通信講座の教材を見たりするためだけでしかない。娯楽をそこで見ることなど出来るはずもなかった。

「最近、学校はどうだ」

仕事でたまにしか会えない父の質問はいつもこうだ。心配しているというより、父親面を出来ていないんじゃないか、の体裁を気にしているようにしか見えない。

「まぁ、なんとかって感じ?」

「この子、前にテストで九十七点なんて取ったのよ。あのケアレスミスはどうしようもないわ。塾の模試で志望校が安全圏に入ったんだけどね、もうワンランクあげないか、って。当たり前に挑戦するわよねぇ?ね?」

父がいるところで俺に断らせることはしない。断ろうものなら烈火のごとく怒り狂う。尋ねられて、なんとか、って言葉の通り同級生との関係が少しでもうまくいっていればよかったのだろうが。何の方面におけるよい、なのか分からないが少なくともここまで機械的にはならなかったと思う。何をやらせても一等は俺。賞を取るのは俺。主役を勝ち取るのは俺。先生に頼られているのは俺。

生まれて十年も生きていない、十年とちょっとしか生きていないような子供がそんな俺を見てどう思うか。邪魔、としか思えないだろう。邪魔、というか目障り、か。すごい、や、尊敬、はもうちょっと先で抱くものだ。

算数の時間、早く終わって先生の確認ももらえた人は周りの席で分かっていない子に教えましょうね。

あ、ちょっと、あの子に教えてくれる?

そう言われて席へ行けば、分かりやすく俺を避けた。後ろを向いて彼、彼女にとっての友人と話し始めた。なぁ、おい、これ分かるー?とか言って。分かるよ、と解放を説明する。それが合理的じゃない、手間の多い方法だと分かっていても口を出さない。これ以上嫌われることは避けたい。

教える必要なかったね、ごめんね。余計な口出しだったよね、と言ったってもう遅い。

テストの点を落とせば命が危ないし、かといって落とさなかったら落とさなかったで目の敵にされ続ける。そんな中、盛大に打たれる広告に張り付けられている『自分らしさ』を発揮するためにはどうすればいいのか。

孤独を選ぶしかなかった。

当然情緒は育たない。パンが喋るアニメを病院かどこかのキッズエリアで見て、どうして喋るの?と親に聞くほど。その時のことは小学校六年生になった今でも覚えている。

「ねぇ、空気読まないと嫌われちゃうよ。もっと」

帰り際、急に俺にそう話しかけてきた奴がいた。同じクラスの最近一軍になった奴だった。同じ学校で六年間は一緒にいたはずなのに名前が名字しか出てこない。

帰りの会が終わって俺はいつも図書館に寄って帰る。クラスメイトと、同級生と鉢合わせたくないから時間を少し潰して帰っている。今日も例に漏れていない日。ここ昇降口には誰もいない。

名前が分からない。名字もぼんやりとしたクラスメイトは黒くてところどころ凹んでいるランドセルを右肩にかけて、短い腕をポケットに突っ込んでもう一度。


「空気読まないと」

と言った。

「別に。労を費やしても仲良くなりたい人たちじゃないし」

「その考え方だからだよ」

「話聞いてた?そもそも仲良くなりたいって思ってないから努力した行動をしないだけ。要するに君たちに止めてほしいとも願ってないってこと」

向き直って答えた。頭の位置は同じくらい。背の順でアイツの方がちょっとだけ後ろだったかな、ってくらい。あぁ、思い出した。蓮、だ。下の名前は確か。通主蓮(つうずれん)だ。

「僕たちは仲良くしようとしてあげてるのに、君が全く応えないから続くんだよ。君は仲良くしたくないかもしれないけど、僕たちは仲良くしたい。平和主義の教師に言ったって喧嘩両成敗になるだけだよ」

「大人も頼りにしてないけど…」

話が見えてこない。

「僕、お父さんが影の研究してるんだよ。見えなくなるわけじゃないけど、薄めることは出来るかもしれないって。その為に君にとっては空気を読む、って行動をする必要があるんだよ」

「わざと悪い成績を取るってこ?」

「そう」

「ソースは?」

「え?」

僕のその返事が予想していなかったものだったらしく間抜けな声を出していた。

「あ、ソースって言っても分かんないか。エビデンス、証拠。出典って意味の方が近いかな。何を元にして?俺がそれを信じてやらなきゃいけない理由はどこにあるの?というか俺、影をなくしたいとも言ってなくない?想像で救世主気取りなのきもいから止めて欲しいんだけど」

「影がなきゃ君は普通だったじゃないか」

「俺は影が実力に関係してると思わない」

「自分とって都合がいいからだ!」

「そうかもしれないね。でもそれを信じない君は、自分にとって都合がいいから信じていないんじゃないの?違う?」

リンゴのように顔を真っ赤にして起こった通主に微笑む。こうやって卑劣な情緒しか俺は育ててやれなかった。純粋に育ったものなんかどこにもない。ただの嬉しい。ただの悲しい。ただの喜び。ただの怒り。『ただの』が枕詞につくような感情を俺は知らない。

突き飛ばされて下駄箱に背中が当たる。ランドセルが衝撃を吸収してくれて体に被害はなかった。でもどこか痛いところがあった。それが不確実な。都合のいいものを都合のいいものと判断し、それをそのまま飲み込むことは都合が悪いこと、と判断することが出来る場所。心、なのかもしれないと思った。

胸のあたりがチクりと痛んだので今日の心は胸、ということにして胸に触れた。そのまま家に帰って、勉強漬けの時間を過ごした。いつ終わるのか分からない地獄にもう終わってくれ、と願うこともしていなかった。頭のどこかで終わらせられると分かっていた。死ねばよかったのだ。ただ、それだけだったのに俺はそうしなかった。死ぬ、という言葉が俺の中では次元の違う話に思えていたから。


「ねぇ、ちょっといい?」

平和主義と呼んでいる担任が俺に声をかけてきた。

「はい?」

総合という名の自由時間。読書をしたり、うるさいよ、と数分に一回注意されながらもはしゃいでいる奴らやら、まちまちの過ごし方をしていた。俺は塾の宿題を片付けていた。そして呼ばれて廊下に出ていった。

一瞬天使が通ったみたいな空気になるのは好きじゃない。先生が起こり出しそうな時とか、面白いものが見れるぞ、って内心のワクワクを隠している音は聞こえてくる。静まり返ったというより、露呈の騒音が酷い。

扉をきっちりと締めて先生は大して低くもない身長の俺が見下す形になるように膝をついて俺の方を見上げた。

「先生ね、見てて思ったんだけど、クラスの子たちと上手くいってるかな、って」

「上手く行ってないように見えてるんですか?」

「君には、はっきり言わないとだね。ごめんね。うん、上手く行ってないように見えるし、君ばかりがひどいことをされているように見えてる」

「何でそう思うんですか?どうして急に今日なんですか?」

話しずらそうに目線を一度落として、よし、決めた、と言うように顔を上げて俺の目を見てきた。名演技だ。

「昨日見たんだ。放課後通主さんと下駄箱で話してるの。話す、というか言い争ってるの。先生ね、神様の影があってもなくてもみんながみんな、みんならしくしていいと思うの」

反吐が出そうだ。

こういうことを言ってくる人間は全て信用しない、と決めている。

まだ何かしゃべっている。でも頭には全く入ってこない。

「自分らしくとか、言うと難しいし、なんとなくそれさえも息苦しいじゃない?でもね、君は偽っているように…」

「ご心配ありがとうございます。されてること、仕打ちがひどいとは思ってないです。俺は仲良くしたいわけじゃないし、卒業したらどうせ関わりもなくなるし、自分の時間が邪魔されてるほどじゃないので。神様の影があってもなくても俺は俺で、それを貫いているから一人なんです」

これ以上踏み込んでくるなという線引きだけど分かるかな。分からないかな。精一杯の笑顔は強がりとでも思われたことだろうか。

「中学受験をするんだよね」

「はい、そうですけど」

それが何の関係があるのだろう、と思って俺はそう返事をしただけだった。不思議そうな顔をしていたんだろう。薄く笑ってこういうことだよ、と説明を始めてくれた。

「成績はとっても優秀で心配ありませんって書けるけど、人とあんまりかかわらないっていうのは内申に書かなきゃいけないの。生活態度っていう枠で」

「あ、俺内申が必要な所行く予定ないから大丈夫です」

「そっか。小学校は中学校の練習の場所なんだよ。だからね、たくさん関わって失敗した方がいいと思うの。もちろん、赤よくしたくないって気持ちも君の考え方で感じ方だから自由なんだけどね」

「仲良くして欲しいんですか?結局俺にどうして欲しいんですか?」

「怒らないで、ごめんね。気に障ることを言っちゃってたらごめんね」

「謝らなくていいです。先生は知らないですよね。影があるってだけで両親からすごい期待を背負わされて、同級生も大した努力もしないでいいよなってバックグラウンドなんか何も気にしちゃくれない。関係ないって知ってるのは俺だけ。周りは信じてくれないんですよ。だから関わらないを選んだだけ。それって何かおかしいですか?知らない人が外側から喚くのってめちゃくちゃ簡単じゃないですか。好き勝手言わないでくれます?」

明確に悪意と共に発言した初めての時だったかもしれない。

傷つけようと思った。

死んで欲しいと思った。

消えてほしいと思った。

誰も俺のことを救えない。誰も俺のことを助けられない。神様の影には触れない。取り外すことも出来ない。実力だ、って信じてくれない。たまにいなくなっているのを見ているくせに都合が悪いからと信じてくれない。

嫌でも完成形を丸くしなきゃいけない立場に立っている人はそんなことお構いなしに平和になろうよ、だとか言ってくる。貴方が平和を乱しているんだよ、と。影がある人だって自分を実力だと信じられるように生まれてくる。でも信じさせてくれないのは周りが騒ぎ立てるからだ。

悪意をぶつけ、自分に対して抱くはずのなかった疑念を増幅させてくるからだ。

目の前でしゃがみ込んでいる教師の困り眉が忘れられない。それを見下ろしている俺は恍惚とした表情を浮かべていたことだろう。

「今日、早退していいですか…」

「そう、ね」

引き止めないお前は無能な教師だ。教員免許を持っただけの有機的マニュアル生命体だ。


先に教室に入ってぐちゃぐちゃになっている教材をランドセルに乱暴に放り込み教室を出た。さようなら、も。また明日、も。一つとして聞こえてはこなかった。そりゃあそうだ。あの教室の中で俺は影と同じレベルの存在感。空気でしかないんだから。

『なんか煙たくねー?モヤモヤしてんだけどー』

『えー、目が霞んでるだけじゃねぇのー?ってマジじゃん』

『”空気”見えるんだけど。こわ』

『ってか触れるんだけど。この”空気”』

六年間使ってきただけじゃない消耗が見えるランドセル。肩の紐は力を込めて引っ張れば千切れてしまいそうだ。このまま家に帰ろうにもどうして、と言われるに違いない。上手い嘘が思いつかない。でも学校を休んででも勉強しなさい、とか言われるほどだし体調が悪くて、と一言言いながらも問題集を開けば納得はしてくれるだろう。

言えには帰りたい。でももう勉強したくはない。今日だけ。今日だけでいい。

遠くもない教室から下駄箱までの距離。歩きなれた校舎内。降りる分には苦労しない階段。彷徨いたくてもそうはいかない。

深夜に父が消し忘れたかなにかで目にした街ブラロケでこの廊下を走り回ってましたね、なんて言いいながらタレントが学校って通い慣れていた当時思ってたかどうかは分からないけどずっと自分にとっては秘密基地です、と感慨深そうに校舎内を闊歩していたシーンを思い出す。いつかそう思える日が来るのかな。

その時って両親はどうしているのだろう。眠っているのかな。結局鬼の居ぬ間に洗濯、みたいに隙を突きながら楽しむ生き方しかないのだろうか。俺には。この日々に終わりがないと絶望する今、俺は虐待を受けている、となるのだろうか。

掲示板に張り出されているポスターの前で足を止める。

「虐待、ねぇ…」

校舎内での使用が禁止されているのは知っている。でも俺は気にしなかった。検索機能が破綻している制限だけが鬼のようにつけられているスマホを掲示板にかざした。そして俺は下駄箱へ歩みを進めた。


真夏、炎天下、夏休み前の暴挙。


ーーー

続く

ーーー

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