影-3

ーーー


事の重大さを知らなかったというか、どこまでどう発展していくか知らなかったとかじゃなくて。

俺はそうなればいいと思っていた。

思い描いていた通りになった。

そうなるとは知らなかった、なんていうつもりはない。

怒られるようなことをしたのなら謝るけど、俺は嘘を吐いていない。だから謝らない。

だから怒られている時、人の人生を壊したのよ、と言われている時、そうしたかったからそうしたんだけど?って顔でいたら神様の影のせいになった。

そして皮肉にも自分や、誰かの人生が壊れて初めて盲目に担ぎ上げていた自分たちにも責任があると分かってくれた。

でも俺は化け物扱いをされるようになった。


教師と、両親を通報した。教師は体罰、ハラスメント相談窓口(生徒用)というところ。両親はその隣のポスターにあった電話番号に。あの日メモをした電話番号に連絡をした。平和主義を通報したのはただの思い付きだ。いたずら感覚、と叱られても正直言い返せはしない。

数日のうちに両親と俺は引き剥がされた。音声の証拠はないに等しかったけど近隣住民の中には母親の怒鳴り声を聞いた人もいて、図らずとも信憑性のある証拠になってくれた。大量の問題集も見つかり、写経の数々も発掘されて、どういう状況でこの問題を解き、どういう罰として写経をさせられていたのかを事細かに説明すればどん引いた顔で大変だったな、と慰められた。

影が理由、と言えば近いうちにその常識は変わるから、と言われた。その言葉はもう何度も聞いた。俺が俺として評価される日は近いうちに、と。でも近い、ってどのくらいの近さなの?

両親の虐待は早い段階で認められしばらくは祖父母のところで過ごしなさい、と送り届けられた。夏休み明けも事件が解決していなかったり、心に躊躇いがあるようなら学校も行かなくていいことになった。

教師の件については学校や相談窓口から派遣されてきたであろう人や教育員会とか名乗る人からヒアリングを受けた。

受験で内申をあげられないよ、と言われた。

酷いことをされているのは俺なのに仲良くしろ、と強要された。

クラスが総合の時間自由に過ごしているのに俺だけ呼び出された。

その時にいろいろ言われ気分を悪くし、早退する羽目になった。

嘘ではない。嘘じゃないから俺は堂々と通報出来た。

教師には会いたくない、と会合を拒んだ。校長や、副校長と会うために学校に行った時、隣の部屋から私はやっていません、と怒号というか。悲痛な叫び、というか。が聞こえて焦りながら校長が扉を勢いよく閉めたこともあった。付き添ってくれた祖父は学校の事をほとんど話さない俺の話を信じるしかなかった。

事実俺が傷つけられたと思い、傷つけたという認識が先生にある共通部分だけ謝ってくれたらいい、と。実際、俺の証言だけじゃ不十分だったし、あの日一日だけを切り取った通報なので退職には追い込まれていないらしい。新学期には監視がつくようになるんだとか。

退職だとか、教員免許剥奪的なことまでは望んでいないので傷と共に風化してくれたらよかった。何にせよ、俺がしたかったのは俺に不名誉を被らせた人ではなくそれを塗り広げてきた人間の顔に泥を塗る、程度の事。泥も水で洗えば落ちるようなものでいい。そんなにしつこくこびりついてほしいとは思わない。平和主義はそこまで悪い人じゃない。

影があるお前は俺たちとは仲良く出来ない、と線を引いた人間じゃなく、それをわざわざ指摘し、仲良くして観たらどう?関係ないんじゃない?と無害です、って顔をして近寄ってきた挙句、ぶち壊しにする発言をした奴を。

影があるんだからこのくらい楽勝でしょ、って。過度に期待をして、それに応えられなかったら影がいる意味がない。ひいてはお前がお前である意味がない、かのように叩きのめしてくる奴を。影がある人間がどう、だとか。そんな風潮に挑もうだなんて思ったことはなかった。誰が作り上げたかも、どうやって作り上げられたかも、きっと誰も説明できないような事柄にどこにでもいる。ちょっと影があるだけの小学生が立ち向かったところで大きな変化が得られるとは思っていなかった。

だから身の回りにいる人間を恨むしか俺に残されている術として存在しないと思った。俺の周りにいる人は影がある人に対しての偏見を創り上げたわけではなく、それを構成する柱だ。その鼻を挫いてやりたかった。俺のように偏見に悩む人が少しでも減って欲しいだなんてことは微塵も思うことなく。

「まぁ、その大変だったな」

夏休みが終わる三日前の今日俺はソフト面談している。とはいっても触れてみたかったゲームを祖母が買ってくれて、それに夢中で鼻にかかるようなんー、しか発すつもりはなく、導入の世間話じみている部分はそれでやり過ごしている。

「心は落ち着いたか?夏休みが終わったら学校はどうする?」

「休んでいいって言われたから休む」

「勉強は…心配いらないか。一人くらい、別のクラスでも仲いい友人とかはいないのか」

「六年間あの学校にいたんだよ?いるわけないでしょ。それに俺に影がいるって知らない人もいない」

奥歯をぎりり、と音が鳴るほどにかみ合わせた。その葉の隙間から絞り出すように呼吸をし、反論を続ける。

「どのクラスでもなにかは起きてきたよ。だって学年の中…いや、学校の中に俺くらい濃くて大きい影がある奴はいない。影がある人間に対しての間違った見方を俺は全部引き受けたの」

「そうか…」

ほぼ空のくせに。湯呑を啜る祖父がわざとらしかった。肩を落としている気配も伝わってくる。俺に対する失望の気持ちや、残っていた欠片さえ砕かれて失意の底にいる、というか。

学校に行かなくていい、と言ったのはアンタのくせに。

そうやってみんな学校が一番のコミュニティだと決めつける。

こんなこと聞かされるくらいならんー、とだけ答えていればよかった。なによ、その曖昧な態度、とか言われてきた弊害だろうか。まぁ、なんでもいい。クーラー代がお前がいる分余計にかかる、と思うなら図書館にでも避難する。そう言ってさえくれたらそうする。そう言ってくれるまで俺は動かない。

祖父の方はチラリとも見ようとしなかった。きっと祖父もそうしている。そんなどうしようもない孫。たかが学校、されど学校。行って、皮が剥けた行動をすればなんとかなる、とどうしてわからないのか。そう思っているんだろう。それがどれほどまで高いハードルと想像することもせずに。自分の行動に原因があるくせに軽いフラストレーションもたまっていく。俺はそれを利用する方法を知っている。

心配でも、なんでも激情に着火して、考えが及びきらない方向へ仕向ける。そうすれば平和主義のようにドカン、と地雷を踏んでしまう。

大人に対しての信頼する心が死滅した今、身内だろうと、血縁だろうと、誰であれあの電話番号の元に裁かれてしまえばいい。自分がそのトリガーでも知ったことか。

画面の中でエピソードが進んで行く。主人公の出生の秘密が明らかになったところだ。どうせさっき殺したボスの最も近い距離にいた側近が血縁って感じだろ。でもボスはそれに情けをかけるなんてことは一切なく。さっきポイントで体力を回復させておいてよかった。

「これで遊びに行けるな」

エンカウント。戦いが始まってしまった。

「学校なんか行かなくていいわい。ワシだってほとんど行っとらん。影だの、なんだの。目に見えるが、どういうものなのか誰も解明できてないじゃないか。そんなものを理由にお前のことを傷つけるような人間なんか、お前に努力を強いるような人間なんかがいる場所に行かなくていい。学校は踏み出してみたい、と思った時でいい。今は休め。そして遊べ。行きたいところに行こうじゃあないか」

ものの数秒で負けた。そりゃあ操作していないんだもの。目の前にいる白髪とひげのおじさんは今まで俺の人生のいたことがない人種だった。アルビノよりも珍しい。

「…考えてみる」

「おう。あとで飯にするぞ。あと、話してる時はゲームは置きなさい。ちゃんと目を見て話しなさい」

「…うん」

「冷房何度だ?寒くないか?二十六度で十分冷えるはずだから。お腹出して寝るなよ」

「…うん」

ふすまに背を向けたままでも祖父が遠ざかっているのが分かった。セーブして、ログアウトしたゲームを放り投げて近くのろーテーブルに置いた麦茶を手探りで探す。でも見つからないので体を起こす。布団の枕の方に置いてあるお盆の上に乗っていた。そこまで四つん這いで進み、汗をかいたコップを手取り一気の飲み干す。

「…変だ」

あまりにも変だ。

「変なの」

しぼり出した声が部屋に響く。蝉の音が耳から脳へフェードインしていく。だんだんと音量が大きくなっていく。部屋の壁に一匹ずつ張り付けられていくみたいに。

ガチガチに固まっていた心がどうにかなっていく。

この日の夜は豆鉄砲食らった鳩状態だった。目は開いているけれど何も見えていない。耳はそのまま顔の横にあるけれど何も聞こえちゃいない。噛み砕いて飲み込んでいるけれど味が分からない。祖母が心配そうに肩に触れてくるけれど熱いとか、手のしわとか何もわからない。祖父がお風呂を沸かして厳選の入浴剤を入れるけど何の匂いかパッケージを見なきゃわからない。

五感が麻痺しているようだった。呼吸が出来るだけの水中のようだった。その感覚は恐ろしくも、美しく俺を動かした。この日、俺は寝ずに考えた。寝ずに、は嘘だけど。行きたい場所、したいこと。学校に行かない理由、中学校はどうするのか。今までの事、これからの事。

考え方を知らなかった。こうやりなさい。こう在りなさい。と言われてきたから。考えることを放棄していた。考えるってこんなにも体力のいることだったのか、と翌朝目が覚めた時、知恵熱を出していて倒れて気づいた。

「まぁまぁ、こんな熱を出すなんて、夏の終わりに夏風邪かしらねぇ…おかゆなら食べられそう?」

「うん…」

「はいはい。じゃあすぐ作ってくるからね」

この家には冷えピタがない。目論まれていないレトロが好きだった。

「どうだ。しんどいか?」

祖母が部屋から消えて数分もしないうちに祖父がやってきた。ふすまを開けて、祖父が動いて動かされた空気の空間に仏間の線香の匂いが入ってくる。

風邪ではないから声は出る。喋り出したら泣いてしまいそうで声は出したくなかった。

「腹出して寝たのか?クーラーの温度下げろって言ったろ。ガタきたんでねぇの?外にでも出ねぇから体力はそりゃあ落ちるさ。薬局まで行ってくる。なんか欲しいものあ…」

「考えたんだ」

「ほう?なにを?」

話を遮ったことに文句を挟むこともなく聞き返してくれた。

「俺の事。なにがしたいだろう、って」

「そんで」

「分からなかった。何も出てこなかった。それが、悲しかった」

「変われるぞ。人は」

「かもしれない。でも、俺の底の方にはずっと嫌な俺があり続けるじゃない」

「かもしれない。いつか、消えるかもしれない」

祖父の声は真面目だった。行きたい場所に行こう、と俺に話した時のようなおおざっぱな雰囲気はなかった。

急に熱に浮かれている俺の目を大きな手が覆った。冷たくて、しわが刻み込まれていて、ところどころタコか、ただの年季か。固い部分がある手だった。

「ごめんなぁ…あんな、バカな娘育てちまって。謝ってどうにかなるとは思わねぇ。俺たちのことも恨んでくれていい。でもな、お前が向き合ってくれていること、心から嬉しく思ってる」

「向き合わなきゃ、いけないんだろうね。俺は被害者なのに努力しなきゃいけない」

「悲しくもな」

しばらくの間ずっと目を覆われて、小刻みに動かされた。撫でているつもりなのだろうか。母さんは一人っ子で、祖父母にとっては俺が唯一の孫だ。それなのに勉強を理由に見せに来なかったから撫で方だってそりゃあ知らないだろう。撫でていた娘はもう撫でてやる必要もないくらいに育ったんだから。

記憶もないくらいの頃には撫でられたこともあったんだろうけど、覚えているうちには少なくともなかった。だから撫でるとも言えない不器用な手でもとても心地よく感じた。

濡らされたタオルや氷枕よりもはるかに俺の熱を癒してくれた。

「ってことは考え過ぎで、知恵熱出したのか。お前」

「そうだけど…」

「わっはっは!若いうちは何してても死なねぇから存分に悩め。紐なしでバンジーしたっていい」

「それは暴論でしょ…」

「そうかもな。わっはっは!」

絶対今作り終えたわけではなさそうなタイミングで祖母がおかゆを運んできてくれた。それを食べて朝も昼も夜も関係なく寝通した。考え過ぎた脳みそはオーバーヒートさせて、愛で冷却するのが一番いい。愛、って言葉を俺が使うようになるとは思ってなかったな。

翌日、昨日よりはすっきりしている頭で縁側に座っていた。直射日光は厳しいが、クーラーが聞いた部屋と隣り合っているから暑くはない。

この近くのことをほとんど何も知らないから外に出ようと思っていたがどこか調子が戻りきらない感じがした。それはあっさりと見抜かれているらしく先手を打つようにどこにも行かない方がいい、と言われた。

ぼーっとして何も考えていないでいると外に面しているとが叩かれる音が下。外で作業をしていた祖父だった。

「どうしたの?」

開けて答えると、

「茶ぁ持って来てくれ。暑くて死んじまう」

「すぐ持ってくるよ」

「冷蔵庫にペットボトルが冷えてっから」

「はぁい」

キッチンで昼の準備が、それとも婦人会に持って行く用なのか、何か作業をしている祖母を見つける。冷蔵庫を開いて麦茶麦茶、それもペットボトルの麦茶、と探していると後ろから声がした。

「何を探しているんだい?」

「麦茶、おじいちゃんに頼まれたから」

「ペットボトルのやつなら小さい方の冷蔵庫見てご覧」

製氷機もないような小さいタイプの冷蔵庫の扉を開けると言われた通りのものが入っていた。

「ありがと」

「はいはーい」

戻って同じドアから声をかけようとした。

「来るな!」

その大きな声に体が反射で言うことを聞く。ぴしゃんとドアが閉められて何が起こっているのかを理解出来ずにいる。どうやら祖父は誰かと話しているらしい。そしてその誰かと俺を引き合わせたくないらしい。

障子だと透けてしまうから別の部屋に移動してカーテンで室内が隠されて見えないようになっている部屋へ移動した。

「…くん、いるんですよね?是非お話を聞かせてもらいたいんですけど」

「話すことなど何もない。あの子を心配しているというのに落ち着く暇さえ与えてやれんのか。まるで心配じゃなく、貴社が利益のために行動しているようにしか思えないのだが」

「そうお見えになるかもしれません。でも彼の心を吐き出して、彼自身このことを頭の中で整理したり、それを世に公表して同じ状況で悩み苦しむ、同年代だけでなく。間違いを犯しかけている親まで。多くの方の救いになることも事実です。それが狙いというのも嘘ではありません」

「被害者なのにどうして努力をしなければいけない」

昨日、俺が言った言葉だった。いい言葉と思ってくれているのがむずかゆくて、どこか気恥ずかしかった。

「影があるという理由だけで差別されるのはおかしい話です。カメラを用いる仕事として。情報媒体として、それをどう表現していいものか、と日々悩み心を痛めております。もし私たちにそれが出来ていたら、と考えない日はありません。こういう事案を一つひとつ言葉にして、事実を伝えること。関わりがあるか、ないかはさておいた話、偏見に苦しめられている人がいることを広めるのはこの時代の記者として義務だと考えております」

「大層な心構えだと思う。しかしそれとあの子の心に踏み入っていい理由にはならない。あの子はまだまだ子供だ。面白おかしく広まっても困る。今は迷いながら、今後の事だけを考えていていい場所に置くことが私としては最善だと思っている」

「素晴らしい、その向き合い方を記事にしたいんですが」

「ダメだ」

話の内容から察するに訪ねてきているのはどこかの記者らしい。俺が起こした事件、というか事故というか。そうなり得てしまったものを記事にしたいらしい。

真正面から来ても俺は断っていた。受けたくもない。そんなもの。そんなことをすれば両親に対しての一縷の望みさえ消えてしまう。いつかまた一緒に暮らせるかもしれない。その時は影がある俺、影のない俺。なにも気にしなくていい。ただの俺、としてみてくれるかもしれない。

今この瞬間にも両親は何か学んでいて、それは俺と一緒に暮らせるようになるために努力だ、と考えることで精神を保っているのに。

このことが表に出たら両親は世間に袋叩きにされてしまう。学校だって特定されてしまうかもしれない。平和主義も糾弾に遭うかもしれない。そこまでは望んでいない程度の罰の波紋が広がってしまう。クーラーを点けていない部屋の中はじりじりと蒸してくるせいろのようで汗が顎から滴った。今後起こるかもしれないことを想像すると背中が冷えて、汗がどのように背中を伝うかがありありと分かった。

まるで背中を眺めているようだ。それは違う、ということも並べ立て親は子供の呪縛から。子は親という呪縛から解き放たれることは出来ないじゃないですか、なんてことを述べている。違う。違う。叫び出して、全部聞いてたぞってぶっ飛ばしてやりたい。外側から言うのは簡単なんだよ。やっぱりいつだって。

あられもないことを口に出してしまわないように頬を握るほどに強く掴んで口を塞いだ。何の悪しき証拠も抑えさせないように。

「なんにせよ、話すことはない。もう来ないでくれ。次に来たら警察を呼ぶ」

「では今日はこのくらいで」

「二度と来るなよ」

そう追い返した祖父。安心したやら、バレていたやら。熱中症も手助けをして俺はその部屋に倒れた。次に目を覚ました時にはひんやりと涼しい居間の並べられた座布団の上だった。


・・・


結局俺のことは地元紙の隅っこの方にちょろっと記事になっただけで終わった。詳しい取材を受けることも終ぞなく、事実だけを淡々と並べたどこにでもありふれた記事になった。教師とのことはほとんど書かれていなかったような気がする。影を理由に子供を虐待した親、というだけ。その偏見による的はずれな行動によって子供の心が止まないことを祈るばかりだ、的な言葉で締めくくられていたっけな。

なんでもいいけど。

どうして思い出したのだろう。どうして俺はそれを思い出して今、こんなにもやるせない。心の中が空っぽとも思える。色であらわすならば黒のような胸を抱えているのだろう。

都内を一望できる高層マンション。セレブな家族が住むような場所に一人暮らしはやっぱりやるせない。膝を抱えて、誰しもが持っている弱さと黒さを感じ直した。

この部屋は小学校の図書室のような板張りのフローリングになっている。寝っ転がるとひんやりするから夏場はこの部屋に布団を持って来て眠っている。逆に冬場は寒々しいが床暖房もあるし、こじんまりした部屋が故にストーブを置けば一瞬で温まるから重宝している。式全てで愛してる。

その部屋は瞑想室と呼んでいる。仏教の苦行のように邪念を振り払う、みたいな。座禅のように煩悩とおさらば、みたいなことはなく。心頭滅却すれば火もまた涼し、なんてないくらいに夏は人工物で冷やしている。

事故物件ではないとのことだったがもし事故物件だったなら何かが起こったのは確実にこの瞑想室だ。この部屋に入ると行き場のない感情が言語化されようと言語野を刺激してくる。(脳のどの分野が考えを言葉にするために働いているのか分からないから言語野が刺激されていることにする。)

ふいつも考えるのはとBangをやめたくなるタイミングのこと。別に何も手助けはしていない。この感情はただ腹減ったな、と同じくらい基礎代謝的に俺の体内に存在してくる。誰が俺で、俺は誰で、誰かは俺で、それは違くて。なんて一生答えが出てくることがないことを悩む。それが生きることだ、とどこかの誰かは言っていた。誰かさえ思い出せない。

薄情な関わり方をしてきた結果の殺風景、独り暮らしの豪邸。過去のことをほじくり返して、あの時出会った誰かを信じていたら変わっていたかもしれない、なんて思う。唐突だが結婚したい。リモートで。結婚後の生活もリモートでお願いしたい。

素の自分を見せることを何よりも恐れているのは俺で、その俺を作り出したのはこの世間様だ。それだけは忘れてもらいたくはない。

「はぁ、結婚してぇ」

顔見知りしかいないようなパーティーへ行く度に、もういい年齢なんだし、結婚とか考えていないの?と聞かれる。考えていない訳はないが、考えていないです、と答えている。今はまだ仕事が一番楽しいし、仕事以外のことを考えたくはない、ともっともらしい理由で。

結婚はそりゃあしてみたい。可愛いお嫁さんをもらって、幸せにしますって言葉だって嘘じゃない相手を見つけたい。でも俺を選ぶような人か、とどうしても思ってしまう。結婚はしたいんだけど、俺を選ぶような人は何処か裏があると疑ってしまう。俺はどうしたって結婚には向いていないんだ。それを誰よりもよく分かっているから俺は誰も傷つけないように今は考えていません、と答えるのに徹しているだけだ。

結婚は、してみたい。その気持ちは嘘じゃない。高身長、高学歴、高収入が結婚しやすいように、影がない人の方が結婚しやすいのだ。お宅の旦那さん、運でそこの地位なのね、なんて評価を得続けるのだ。もし俺と結婚したら。

影がある人間と結婚した人間に待っているのはそういう心無い冷たく、蔑みのこもった目線と嫉妬やらなにやらの感情の混ぜ合わさった言葉なのだ。本当に好きな人にそんな運命を背負わせたいと思うだろうか。まともな思考回路をしていたらそうは思わない。俺よりもブサイクでも、俺よりも低学歴でも、俺よりも低収入でも、影がない人と幸せになってくれ、と祈ることだろう。

お金が間にあってくれてもいいけど、俺はそんなんじゃ救われない。まだそれに納得できない。自分の影を捨てられる方法を探し続けている。この前の国からの影は実力に関係ありません、の発表を信じたい。でもこの世に浸透するまでに時間がかかりすぎる。そのころには俺はもう立派におじいちゃんだ。

「なぁんだ、誰も俺を助けてくれないじゃないか」

俺はカメラに手を伸ばしていた。


ーーー

続く

ーーーー

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