前章 良いじかんがありますように 5

 白い光沢のあるボディで、コの字型に曲がった機械が、小刻みに音を立てている。エツコは機械の間に二枚の布を挟んで、電気が針を上下させる力を使って、目にも留まらぬ速度でそれらを縫い付けているのだった。

 機械は木製の台座に乗っていて、背もたれのない高い椅子に座ってエツコは作業をしている。

 そろそろだ。

 時計の秒針が最後の一周に入ると、私と助手は立ち上がって、何気ない具合にエツコの背後に控えた。

 その様をリクは、ちらりと横目に盗み見る。

 私は不自然にならないようにエツコの背後に控え、隣の机に積み上がった衣服の部品に注意を向けたりする。

 何を作っているんですかと訊くと、エツコはにんまりして、パジャマよ、と嬉しそうに答える。

 時計は私の右ポケットの中でひっそりと、しかし確実に針を進めている。私は、頭の中できっちり四十五秒を数えるまでは、時計を出さぬよう決めていた。

 リクはエツコの裁縫の腕を褒めていた。今やほとんどが機械によって行われる衣服作りを、未だ人の手で紡ぐ数少ない技師のもとに弟子入りしたほどである。布に触れるエツコの手先は美しかった。

 エツコがリクのために何かを遺そうと思い立ったのは、二時間前のことだった。彼女は予定時刻を、一分一秒単位では把握していなかった。

 記憶の街の中であれば、死ぬ瞬間にどんなことをしていても許される。人生の終点で、酒池肉林に浸りたいと考える者は少なくない。家族や子供たちと何気ないひと時を過ごしたいと思う者や、眠っていたまま人生を締めくくりたいという者もいる。

 エツコは最期まで誰かの為になることを望んだ。

 そしてリクはそう望まれることを許した。

 私は時計を出し、手のかげに隠しながら開いた。

 直角を切る秒針。ちょうどその時、エツコは布と裁ちばさみが足りないことに気づき、立ち上がったのである。

 せわしなく移動すると彼女は、戸棚の引き出しから鶯色の反物を取り出し、頭ほどある大きな鉄のハサミをその上に載せる。

 エツコは今まさに生活の中にいた。出汁の良い香りに包まれながら、彼女の呼吸はじかんの一部となって、小刻みに鳴る機械の音と一緒にリズムを刻んでいる。

 そんな平凡なじかんが、静かに終わりを告げる。

 機械の前に戻ると、ふいにエツコがリクの名を呼んだ。

 リクは勢いよく立ち上がり、リモコンが地面に叩きつけられる。

 私は動揺を笑顔の下に隠す。口元を固く結び、目元は弛緩させ、表情筋を確実に操作して口元を釣り上げる。

 あのね、そういえば、言い残したことがあったわ。

 リクの表情は硬直する。

 秒針が歩く。じかんは決して立ち止まらない。

 そして死がついに、エツコの背中に触れる。

「私はあなたに出会った時から、ずっと――」

 直後、機械人形の電源を落としたように全身を脱力させたエツコの体は、そのまま垂直に崩れ落ちそうになった。

 抱いていた反物の上をハサミが滑り、落下する。

 どす、という音を伴って床に突き刺さる。

 私は必要最小限の力で、彼女の両脇に通した腕を背中側に引いた。

 じかんが歩き去り、どこかへ消える。その一瞬にだけ、人の肉体をじかんが通過する。

 ほんのわずかな瞬間に感じ得る、じかんの足音。倒れていく肉体が地面に接するまで束の間に、それは宿る。

 リクが足音を立てて走り寄った。

 助手が足から腰を支える中、私は後頭部を慎重に床に降ろした。その側でリクがうずくまると、助手を押しのけるようにして、エツコの手を掴んだ。

「うそだよ」

 大きく見開いた目は、まばたきを忘れる。

「そんなことってないですよ。何か、何か言いたいことがあったんですよね。だったら言ってください。お願いです、こんなのはあんまりだ」

 本人の意向通り、仰向けに寝かせられたエツコの表情は、完全な笑顔とは言い難く、どこか人間味を取り戻したような、心地よい不完全さがあった。

 そんな彼女の表情に影を作り、手を握る。握りしめる。

「ふざけるなよ」

 リクはエツコが安心した表情をしているのが許せなかった。

「よくも、僕をこんな目に合わせてくれたな。自分一人が、いち抜けしやがって。よくも、僕をおいていったな」

 死体には怒りと悲しみの雨が降った。

 私は自分の使命をひとときだけ忘れ、じかんの激流が、残された青年を飲み込んで溺れさせるか、あるいは飲み込まずにただ流れ去るかを観測すべきだと思った。それが彼女が望んだことに違いなかった。

「僕は、あなたの、なんだったんですか。利用したんですか。なぜ僕なんかを愛したんですか」

 問いは大気中に撒かれ、空気と混ざって薄まり消えていく。エツコは、リクが自分の手を掴んで泣き、怒りを訴えるということを、狙っていたのだろうか。

 怒りは決別を助け、決別は新たな人生を与えるからと、悲しみが怒りに転ずるようなわずかな工夫を凝らしたのだろうか。

「時計台の下で生まれたもうた命が今、大いなるじかんへの帰路につきました。じかんが稲穂を育て刈り取らせた。じかんが乾かし米にした。じかんが熱を加え飯にした。じかんが口から入り体になった。じかんに育てられた彼女は今、じかんへと還る。安らかに」

 追悼。

 手を合わせることにより、死は完成される。

 八十年間生存するという義務を終えた肉体が、市役所へ帰るときが訪れたのだ。

 私は助手に、担架を持ってくるよう命じた。こうしているうちにも組織の腐敗は進み、臓器は新鮮さを失う。

 リクはまだエツコの手を離せないでいた。自治体によって異なるとはいえ、遺体を速やかに保存車へ運び入れる義務があることを、知らないはずがなかった。

 しかしリクがそうせざるを得ないことを私はわかっていた。

 エツコは何かを伝えようとした。言葉ではなく、死ぬことで。彼女にはそんな余裕があった。

 彼女は死を、楽しんだ。

 でも死ぬことさえ、誰かとのコミュニケーションのためにあるのなら、それほどまでに相対的なものだとしたら、私たちの〈絶対〉はどこにあるのだろう。

 生も死も、もはや人の畏怖の対象ではないのだとしたら、人は何を畏れればいいのだろう。

 担架が保存車に運び込まれてもなお、リクの視線はまだ暖かさの残る床に結ばれていた。

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