前章 良いじかんがありますように 6

 今日は他に二件の追悼があった。私たちは一旦記憶の街を出て静香区へと向かい、在宅での追悼を終えると、二つ目の遺体を運び込み、仕事にひと段落をつかせた。最後の仕事のために、記憶の街へ戻る途中で寄った環状線沿いの総合料理店に入店した。

 その料理店は、人の手で作る料理を唄っていて、確かにどの料理も手が込んでいて美味かったが、逆にその「人の手」を介する感染症への危惧からか、子連れはほとんど見られなかった。

 私はいつもの席が空いているかどうか、接客の人形が来る前に背伸びをして確かめると、並んで置かれて壁のようになった観葉植物の隙間から空席が確認できて、ほっとする。

 『いつもの席』が重要だった。じかんは同じ場所に蓄積されていくものだと思う。

「ケンさん、この店好きっすよね」

 シートに腰を下ろすが早いか、助手がそう言った。

「まともな料理を出す数少ない店だからな」

「今時、そんなこと言ってるのケンさんくらいっすよ。そうじゃなくて……」

 助手は何か言い加えようとしたが、やめたらしい。

 足音が近づいてきて、私は襟を正すような気持ちになった。鉄の関節ではなく、生身の人間が接客に来るのだ。

 美しい女性が、専用の装束を身にまとって、伝票を構えていた。私は、プラスチックのカバーがされた紙のメニューを顔の前で開き、横目で彼女を何度か盗み見る。読むことに集中していないから、頼むのはいつもだいたい同じものになる。

「じゃあ、自家製手ごねハンバーグのランチを」

「いつもそれっすね。僕は、これを」

 助手は、人の手にこだわった料理店で、分子調理器を使った冷菜を頼んだ。遠回しに来たくなかったと言っているのだろうか。

「僕は、手ごねってのが無理なんすよ。手でこねるっていう、パフォーマンス? そういうの、いらないと思うんすよね」

「君の世代の人間はみんなそうなのか?」

「僕の世代は、自動調理器でも、分子別のトナーにするか、混合トナーにするかで、迷っているぐらいなんです。しかも、混合トナーにする人のほうがずっと多い」

「俺には想像もつかんな……」

 実際のところ、手ごねという表現は現在でこそ意味を成すが、自動調理器がなかった時代は、何と比較して手ごねという表現に魅力を感じたのだろう。手でこねないとしたら、他にどうハンバーグを作るというのか。

「お待たせしました、自家製手ごねハンバーグランチと……」

 給仕人がワゴンを引いてきて、格納された皿を私と助手の目の前に置いた。

 その仕草は、完璧だった。給仕人としてもそうだが、人間としてもそうだ。エツコのように、計算された理知的な動きではなく、溢れ出る品性が物語るような、精神のレベルにまで還元された動きだ。

 私は、彼女の所作を目にするとなぜだか心が安らいだ。彼女は、じかんと調和していた。

「ご注文は以上になりますが、よろしいでしょうか」

 私は伏せ目がちに、お礼を言う。

 去っていく女性の背中を見ている時間が、どうやら長すぎたようだ。低温調理された肉と野菜のペレットをナイフで切りながら、助手が言った。

「好きなんすか?」

 私はその言葉が嫌いだった。

 好き、という言葉は、自由生殖における中心教義(ドグマ)だ。人を好きになることは、都市から大いに奨励されている。『明るいまち作り』とか、『人の親は人の子』とか言いながら、結局、都市議会が人口管理機構に払う経費を削減するためにやっているにすぎない。

「なんで僕を睨むんですか」

「お前だけを見ていれば、変な疑いもかけられまいと思ってな」

「怖いですよケンさん」

 私は助手の目をしばらく見つめてから、刃の波打ったナイフで肉をひと思いに断つように言った。

「知り合いなんだ。彼女は」

 助手の目つきが変わった。口角が上がり、前のめりになってうんうんと相槌を打った。

「だったら話しかけましょうよ」

「相手は俺に気づいていない」

「なおさら、話しかけたほうがサプライズにもなりますし」

「しかし、まだ仕事が残って……」

「あの、すみません!」

 助手は手を挙げて叫んだ。彼女とそれとなく視線を交わし、ここへ来るように無言で誘導した。大した男だ。

 彼女は白にチャコールのエプロンをしていて、丸いブリキのお盆と可憐な笑顔を携えて向かってくる。二十年前、十五年制学校を卒業した時から、見た目は何も変わらないのに、大きな成長を遂げたことがわかる。ヒトの給仕人などという恐ろしく倍率の高い職につくくらいである。

 私は顔を伏せる。周りに心配をかけない程度に、下を向く。思考の混乱が直視を拒んだ。

 一人でいることが、攻めでもあり、守りでもあると思っていた。いつからそう思うようになったかは覚えていない。ただ、この世にあらざる化け物を見たあの日から、私は心のどこかで、他人に対する恐怖を持っている。他人はいつ化け物に豹変してもおかしくない、と思っている。それに、どんな心清き聖人であったとしても、最後は死別という怪物の片棒を担ぐことになる。愛する人との別離を好んで貪る人など、この世のどこにいようか。

 同級生は、そういう意味で言ったら、奇跡のような相手なのである。本来、十五年制学校の同窓生は、卒業したらさいご、二度と会うことはない。秘密裏に行われる同窓会は存在するが、出身校を知られることは、究極の個人情報である生年月日を知られることに等しいので、ほとんど全ての親はそれを回避しようと試みる。その結果、この都市で、多くの学生は、セイジンした瞬間に、縁もゆかりもない別の区へと飛ばされることになった。

 学校を卒業するまでが、年齢を自由に言い合える世界だった。年齢を自由に言い合える関係だったから、今思えば、自然と信頼感が生まれていた。彼ら、彼女らとだけは、同じじかんを吸って吐いていたと、根拠をもって言える。

 再会は運命なのだろうか。

 伏せた視界に、白いコックシューズのつま先が入り込んだので、私は無鉄砲にも顔を上げた。

 天井のシャンデリアをちょうど頭の後ろに貼り付けたような画角で、眩しかった。

「どうなさいました?」

 彼女が言った。私は、一瞬ためらったあと、

「久しぶり、だな」

 と、恐る恐る続けた。

「二十年ぶりか。いや、具体的な数字は口に出さないほうがいいよな。すまん」

 彼女との思い出が鮮明に蘇ってくる。私は飼育部の部長で、彼女は剣術部と兼部していた。機械に強く、学校に初めて電子制御の水槽が導入された時は、飼っていた膨大な数のウーパールーパーを移し替える作業を「少しでも日差しの少ないじかんに」と夜通し手伝ってもらったり、私が彼女の地区大会に応援に行ったこともあった。

 別の人間になるために封じていた記憶が、溢れ出すようだった。

「えっと……」

 彼女は口ごもっている。

 私は彼女との関係を言語化できなかった。友達だったのだろうか。それともただの同級生だったのだろうか。

 あの頃の自分はどんなことでも合理的に考えようとしていて、自分だけの振り子時計を探すことに必死で、他人になど考えが回っていなかった。

 それは今と何も変わらないのかもしれない。。

 やがて、彼女は明瞭とした声で言った。

「どなた、ですか?」

 私は内心あっけらかんとしてしまったが、焦燥を隠すために相手のスタンスがどこにあるかを必死で探った。

「ケンだよ、ケン・サトウ。同じヒョウゴ組だろ?」

「ええと……」

 女性は表情を硬直させる。私の体の隅々にまで視線を這わせたあと、か細い声で、

「ご兄弟か、何か……ですか?」

 と苦しそうに、潰した笑顔をして言った。

「違う、本人だ。同じ飼育部だったじゃないか。増えすぎたウーパールーパーを唐揚げにして食べようなどと残虐なことを言ったのは、ジンとタツヤだ」

 私が言うと、彼女は眉をひそめたり、首を傾げたりしながら、時折うなずいて、うん、そうよね、と口に出して呟いた。

 凝視する時間が長くなるにつれ、首を振る回数も増えていって、やがて彼女は言った。

「ケン、あなたなのね」

 私は首を縦に振ったが、どこか裏切られたような気がして、忘れてくれていていいよ、と嫌味っぽく言って顔をそらした。

 しばらく間を開けて、彼女は本当に申し訳なさそうな顔をして、

「ごめんなさいね。私の思っているケンと……なんだか……別人のような気がして」

 人は変わる。そういう生き物だ。内面と所作、そして、地位と服装は、人のじかんが歩むたびに、景色のように移ろう。

 二十年前、四分の一の日を迎えたばかりの私には、今の安定した生活は想像できなかった。

「髪型もそんなに変わっていないと思うが」

「もしかして、すごく……」

 彼女は、お盆を正面に抱えたまま背中を折り曲げ、私の顔に影を作った。逆光の中でもなお燦然と輝く二つの瞳が、沈むように覗き込んでくる。

「疲れてる?」

 そういえば、今朝の寝起きも最悪だった。私は、胸の底に潜む不安に目を背けるように、苦笑いを浮かべた。

 入店を知らせる鈴が鳴ると、彼女は慌ただしい調子で、ごめん、お客さんが来ちゃったから、と言って足早に去っていった。

「打ちこわしが起こったら、店はああいうヒトの店員で溢れるんですかね」

 助手が、遠い目をして言った。

「僕はいまの社会が心地よいので、変わるのが嫌です」

「変わらなければ、滞ってしまうんだ」

「とっくに滞ってますよ。『紅葉』もなければ『雪』も降らないくせに、『季節』なんてものを無理に作って。見知らぬ郷土の郷土料理を食べ、放送局が囃し立てるだけの『世代』に居所を求め。〈花火とキンモクセイの世代〉って何ですか。キンモクセイなんて今時どこに咲いてるんですか」

 助手はまくし立てるように言った。

「空っぽなんですよ僕らは。それをどこかでわかりながら、そうじゃないように振る舞うことに必死だ。だったらいっそ、何一つ変わらない、諦めた世界のほうがよかった」

 現代人は、あらゆるものを作っている。

 数百年前に失われたといわれる季節と、国という制度。それに変わるものを、人々は作り出してきた。なぜ制度が消滅したかを知るものはいない。だが、歴史のいつの時点かで、人類に大きな〈変化〉があったことは想像に難くない。

 ないものは、作り出す。食物の原料となる分子。伝統に変わる新たな慣例。擬似的なふるさと。生と死さえも。

「――なんて、言ってもつまらないっすよね。考えすぎても疲れちゃいますよ」

 そう言って助手は乾いた笑みで顔を覆ったのち、ケンさんみたいに、と付け加えた。

 私はさりげなく頬や額を触ってみたりもしたが、助手に、気にしていることを悟られるのを恐れて、やめた。

 結局、彼女に連絡先を訊くことはなかった。

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