前章 良いじかんがありますように 4



 予定者のエツコ・ヤエ・ナガシマは、端正な顔立ちにうっすらと乗った化粧が艶やかで、柔らかい表情に女性的な気品をたたえていた。その溢れんばかりの生命力といったら、とてもあと数時間で天寿を迎える人間とは思えない。

 どうぞお入りになって、と流れるような仕草で振り返って、二人を整然としたリビングへ通す。部屋の湿度と気温は快適なように調整されていて、さっぱりとしたシトラス系のお香もセンスが良い。

「都市追悼官、美波区支部の、ケン・サトウ・ヒョウゴです」

 助手のヒロカワも同行しています、と彼を一瞥しながら私は付け加えた。

 台所で湯のみを洗っていたエツコは、深々とお辞儀をし、名乗り、あちらは友人のリクです、と居間に置かれたソファの方を指差した。

 リクと呼ばれた男性も立ち上がって、一礼をする。

「朝からずっと待っていましたのよ」

 エツコはケトルの電源を入れ、ふわっとした微笑みを浮かべる。

「てっきり、もういらっしゃらないのかと」

 食器棚のてっぺんに積まれたブリキの缶を取ろうと手を伸ばすが、エツコの身長ではほんのわずかに届かない。つま先立ちをやめ、つま先で体を弾いて浮かせたエツコは、缶の取っ手を指先に引っ掛けて着地した。

「配置が高いですね。お取りすればよかった」

 そう言うと、エツコは照れ臭そうに微笑んで、

「私が低いのですわ。両親が、古い考えだったもので。低い身長を好んだのです」

 子供を作るとき、身長を制限する要望を出したのだそうだ。エツコは、百五十センチにギリギリ届くぐらいの身長だった。

「あの……、親に振り回されたって、思いませんか」

 助手がそう訊いた。一瞬きょとんとしたが、エツコはからからと笑って言った。

「私の世代では、よくあることでしたのよ」

 注ぎ口から水蒸気が吹き出す音が鳴った。エツコは私たちをダイニングのテーブルを囲む椅子へ座るよう促した。

「ここの冷蔵庫はなんでも揃っているんですね。砂糖とか、小倉豆とか、とくに天然のものなんかは、随分と久しぶりに見ました」

 自動調理器が主流となった現在では、砂糖と小倉豆は、『糖分』と『タンパク質』と『難消化性繊維』、そして『風味』の四つのトナーに分けられて保存されている。けれど記憶の街にある家宅の冷蔵庫の中には、世代特有の食文化も再現されていた。

 エツコは茶葉を敷いた茶こしに円を描くようにして、ケトルから湯を途切れ途切れ落とす。

「まだ、生活に慣れませんわ」

「どれくらい前からこちらに?」

 私は椅子を引いて、腰掛けた。

「二ヶ月ほど。リクと一緒に来ましたの」

 湯のみと茶菓子をお盆に乗せて来たエツコは、一旦それを二人の前に出すと、またキッチンへ戻っていった。

 そうですか、と差し障りのない相槌でつないでいる間に、私は茶菓子の味をどう褒めるか語彙を探った。

 私は祖母の出す本葛を使った羊羹の味が忘れられなかった。その食感は、突き立てた歯がしばらく沈み込むほどもっちりとしており、ねばっこい味だったが、エツコのものは水っぽく、なめらかで喉ごしが良い。もしかしたら、何か種類が違うのかもしれない。

「家が、崩れてしまって」

 ちょうどこの失敗作の羊羹のように、と言ってエツコは恥ずかしそうに、内側に陥没するように自壊した羊羹を小ぶりの銀のフォークで突いた。

「お気の毒だ」

「でも、またどうして?」

 助手がたずねた。するとエツコよりも先に、リクが口を開いた。

「燃えてしまったんです」

 それは大変だ、と私は相槌を打った。

「家主による放火だったらしいです。警察官が強引に取り調べにきましたよ。猫背で、肌を一切見せない犯人を、近くで見なかったか、って」

「かなり的を絞った質問ですね。警察も目星がついているのでしょうか」

 そうなのでしょう、とリクは何度も力なくうなずいた。

「結局その家主は、失踪してしまいました」

 私は眉間にしわを寄せて何度かうなずきながら、心のうちでは考えていた。

 この都市で『失踪する』ということが可能なのだろうか。

 ジャングルと呼ばれる場所がある。旧世代の技術で建てられ、無駄に頑丈で破壊不可能な上、耐震技術などが稚拙なため、人が住むことが困難な地域のことだ。

 ジャングルには打ちこわしの影響が及ばないため、劣化を続けている。違法集団が巣食っているという話がある。また回復では改善に至らなかった奇ビョウ患者〈ゼット〉が、ひそかに身を寄せているという噂もある。

「こうして助かったんですもの。よかったわ。私とあなた、二人がここに、ちゃんと生きているじゃない。あれだけのことがあったのに、素晴らしいことだわ」

 エツコは表情を濁すことはなかった。本当に、少しも気にしていないみたいだった。それを見てリクも、幾分か救われた表情になる。

 それからエツコは、二人の馴れ初めを楽しそうに語った。

 出会ったのは怜美区の回復センターだったそうだ。

 エツコはちょうど生活手帳の更新と、死亡予定地の届け出に行っていたところだった。

「どうせなら、楽しく死のうと思って。やり残したことがないか、あれやこれや、考えていた時でした」

 窓の外を向いて、どこか遠くへと視線を飛ばしながらそう語ったエツコを、リクは熱心に観察しているようだった。

「生活課と、回復課の、汽水域のような場所がございますでしょ。大抵は三つくらいの自販機と、固い長椅子がたくさん置かれているの。私は会計を待っていました。それでね、私がちょうどこうして、左のほうに座っていたら、右端に彼が座ってきて、一言、待ちじかん長いですね、と言ったんです。とんでもない! 私は少しも待ってなんていませんでした」

 リクは手動運転二輪の賞金レースに出て事故を起こし、重傷を負った経緯を話したそうだ。記憶喪失で、復元した脳を刺激するためのリハビリ中だった。

「おかしいでしょ。どうして手動運転なんてするの? って聞いたんですよ。そしたら、彼、言ったんです。自動運転がつまらないからだ、って。記憶喪失なのに憶えてるじゃない!」

 エツコは豊かな身振りを交え、それがリクの精一杯のアプローチだったこと、必死な男性の姿が愛おしく思えたこと、そして彼を最後の男性に決めるためにそう長いじかんを要さなかったことなどを、歌うように説明した。

「言ったんですよ。私なんてもう、大きなじかんは残されていないんだから。私なんておやめなさいって」

「すると?」

「じかんは僕らの愛に屈する、って。」

 エツコは控えめな口調でそう言った。淀みない言葉が流れ出る彼女の唇は、血でも塗ったのかと思うくらい赤く色づいている。

 重ねる手の角度を変え、足を何度か組み直すと、エツコは年端もいかない少女のように透き通った笑顔を見せる。

 それは、ある一つの不変の肉体を、およそ半世紀以上にわたって操り続けてきた人間が最後に見せる、洗練の果てにある珠玉の表情だった。彼女は自分の肉体のことを、足の爪先から表情筋の一本一本にわたってまで、熟知していた。人間が作り得る、もっとも優れた感情――〈完全な笑顔〉だった。

「わたくしは幸せです」

 リクが大きな音を立てて立ち上がり、机の横を通り過ぎた。カウンターの上に乗った財布を取った。エツコがどうしたのと訊くと、リクは、確認があるでしょう、と答えた。

「せっかく話が出たので、死亡計画書の確認だけやっておきましょうか」

 死亡計画書は、担当追悼官と予定者の二人で行うものなので、助手も部屋を出ていく。

 ドアが閉まる音がしてから数呼吸開けて、エツコが言った。

「すみませんね」

 その旨を問い返すと、彼女は、

「彼、怒っているんです。私が正確な年齢を伝えていなかったばっかりに。彼は、その、来月だと思っていたようで」

 エツコはうつむき、重ねた両手を強く握り合った。そして、幸せのために彼を利用していることはわかっています、と呟いた。

「私は罪深いですか」

 顔を上げてエツコはたずねてきた。

 脳裏に、一人の女の顔がよぎる。哀れな女性。それをすぐにかき消して、死はあなただけのものですよ、とエツコの目をしっかり見ながら言った。

 私は鞄を開け、茶封筒に入った死亡計画書を取り出した。

 左上に名前、性別、誕生日、簡単なプロフィールが書かれ、右上には今日の日付と予定時刻が書かれている。その下には、様々なチェック欄が設けられている。

「では、確認していきますよ」

 エツコは深々とうなずいた。

「家族への連絡は、不要」

 ここで必要と答えた人間は、さらに何親等までの連絡を希望するか、選択することができた。もっとも、死期は家族と過ごすのが普通、という時代ではないので、あくまで慣例を奉っているに過ぎない。

 エツコは、はいとうなずく。

「付添人の指定は、あり」

 もう一度うなずく。

 親族以外の人間を同席させる場合に、審査が必要になる。エツコはリクの審査を事前に通していた。

「付添人への死亡時刻の明言は、なし」

「はい」

「死亡前の各種サービスは……、ええ、すべて不要」

「はい」

「財産は付添人に六割、生活基金に四割を寄付」

「はい」

「その際の対応税率は二十九%ですが、これはよろしいですね?」

 エツコははい、はいと言って何度も首を縦にふった。

 最後の項目に達すると、

「死亡時の見守りは、必要。寝ながらではなく、家事をしながら、と書いてありますが、仮に立ちながらの作業の最中、倒れたとします。前から支えますか、それとも後ろから支えますか」

「後ろから支えてください。そして、ゆっくりと、そのまま床に寝かせてください。そうしたら私、笑っていますわ。最後に私の顔を見せてやりたいのです」

「それは、なぜですか」

「まだ年の少ない彼に、確かに一人を幸せにできたことを、わかってもらうためです。彼のこの後の人生にも関わりますから」

 この女性は、自らの死を教科書にでもするつもりなのか。

 それはあまりにも傲慢ではないのか。

 そんな職務に反する考えを、私は速やかに胃の奥へと飲み込んだ。わかりました、という一言のみを吐き出して、書類をしまった。

 人が死ぬときには、済ませておかなければならない様々な法的手続きがあった。死後、解剖をスムーズに行うために、市役所へ回復の記録などが詰まった生活手帳の返納が必要だし、遺品の整理と、その処分方法を申告する義務もある。死亡計画書の提出や、予定地の決定もその一つだ。

 それらの膨大な仕事を終えて、人は記憶の街を訪れている。

 ただ、死の雰囲気を味わうために。

 いよいよね、と言って、エツコは両手を天を突くように掲げて、全体を伸ばした。ふっくらとした腕が照明の光を受けてみずみずしく輝く。

「もう一つ、やるべきことが」

 私は鞄を開けて紫色の袋を取り出し、結びを解いた。手のひらに収まる大きさの懐中時計で、蓋には一面に広がる花火と、花弁がたくさん付いた植物が彫られている。エツコが生きた時代、〈花火とキンモクセイの世代〉の世代章だ。

 まるで抉り出された自分の心臓を見るように、エツコはしばらく言葉を失った。

「それが、私の……」

 これは元来エツコのものだった。しかしエツコは現在までこの時計を見たことがなかった。

 人生時計はヒトが出産所でへその緒を切った瞬間にネジを巻かれ、それからほぼ八十年間、時間にして七十万時間と少しの間、市役所の倉庫で眠り続ける。そして〈予定日〉の五日前に、ただ一つの理由のために倉庫から出され、追悼官の手に委ねられる。

 その役割とは、ヒトが死ぬ時間帯を、追悼官に正確に教えることに他ならない。

 ヒトの呼吸と同時に進む人生時計の針音は、ネジを巻かれた当時は生を刻む音だった。しかし今この瞬間、蓋の中からわずかに漏れ出る針の音は、確かに死がヒトを呼ぶ声であった。

 触れても? とエツコは控えめにたずねる。私は、もちろんと言って時計を差し出した。長く美しい指が、震えながら竜頭を押し込むと、カシャンと音を立てて蓋が開いた。

 蓋の裏側には、エツコ・ヤエ/year3007.8.16と刻まれている。

 エツコは顔をしかめながら、たどたどしい言葉で言った。

「人生時計なんてものがあることを、忘れて過ごしていましたわ。でも本当にあったんですね。本当に死ぬんですね」

 悲しみのそぶりを見せることはなく、死ぬんですね、死ぬんですねと、繰り返し呟いた。悲しさを抑えているようではなく、いまだ心の底に埋まって姿を現さない悲しさを、どう発掘すべきか模索しているようだった。

「はい、死にます」

 私は落ち着いて、はっきりとそう断定した。言い切ることが、追悼官のつとめだった。

 大きな文字盤の5と7の付近に、二桁と三桁の小窓があり、それぞれ01と001となっている。人生時計の数字は常に減っていくばかりで、ストップボタンもリセットボタンもない。針は今も、反時計方向に動くことを決してやめたりしない。

「本当にあっているんですよね、この時計」

 エツコは疑念の矛先を時計に向けた。

 蓋を閉めて裏を向けてみたり、耳元に近づけて音を聴いてみたり、再び蓋を開けて裏に刻まれた自分の名前を凝視したり。

「いえ。馬鹿げた考えでした。じかんは、絶対よね」

 そう言って申し訳なさそうにした。

 私は別段信心深いとは思わないので、エツコの、じかんの絶対性を疑いたくなる気持ちも、わからないでもなかった。

 けれど、同調もできなかった。

 仕事柄そうしているという以上に、死に近づく人間の、じかんへの不信感を助長するのは、得策とは言えないからだ。

「じかんは絶対です」

「わたくしは、恵まれていましたよね」

 エツコ・ヤエ・ナガシマの経歴には、七回の結婚と、五回の出産を行なったとある。紛れもなく、誰かとじかんを分かち合って生きてきた人間だ。八十年というじかんをもうじき使い切るというのに、その目は生命の輝きに満ちていて、その容貌は彼女が二十歳だった頃よりも洗練されてはるかに美しい。

「あなたは、恵まれていましたよ」

 エツコの頬に、一滴の水が伝う。

 彼女は自分の目元から溢れる水分が不思議でならなかった。

 その雫を指先で掬って、穏やかに微笑む。

 涙が流れたことに、どこか安心しているようにも見えた。

 今日、当たり前のように生きていて、明日にはその当たり前が消えている。

 法医学的な事実だけが知識として頭の中に根ざし、その反面、死はそれそのものとして、都市のどこにも転がってはいない。

 死ぬのよね、そうよね、と言い聞かせるようにエツコは何度もつぶやいた。その度に私は、それが自分に向けられた問いでないと知っていても、大丈夫ですよ、と答え続けた。


 私は、人が生と死を交換する場に立ちあう境界線。

 追悼官とは、たったそれだけのために存在する舞台装置だ。

 古典には、様々な死神が登場する。飢餓の死神、戦争の死神、ビョウ気の死神――死はかつて、この星にあふれていた。人類は彼らとの闘いに必死だった。しかしいざ、彼らを世界から駆逐すると、今度は死というものの姿が捉えられなくなった。

 誰かが死を教えなければならない。

 それは追悼官の役目だ。

 死を、死自身に教えられることは多大な苦痛と屈辱を伴う。追悼官が代弁することで、我々はやっといにしえの悲劇の領域を、脱することができるのだ。


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