前章 良いじかんがありますように 3
じかんが稲穂を育て刈り取らせた。じかんが乾かし米にした。じかんが熱を加え飯にした。じかんが口から入り体になった。
じかんが、人を作った。
限られたじかんの中で生きることを生命と云う。決まった日に死ぬことを人類と云う。
じかんは人類を赦し、ことごとくに時計を与えた。
特別な時計は人生時計と呼ばれた。
針は逆さに進む。
そして、決してもとには戻らない。
早朝より出勤した私は法服姿で車の中にいた。
異様に長い待ち時間が、私の視線をまず時計へと降ろさせた。
紫色の袋からそれを取り出すと、左の手のひらの上に乗せて、私はそっと龍頭を押し込んだ。
バネの力で、蓋がカシャンと開く。
文字盤には、十二進法の英数字が均等に打たれ、根元と先端の太さが変わらない長針と短針が、いずれも反時計回りに動いていた。
今度はカチッと音がするまで蓋を閉じ込んだ。そして懐中時計を紫色の袋に戻し、足元に置いたアルミの鞄の中に滑り込ませる。
二丁目の交差点は長い。今日は第七車線が封鎖されているせいもあって、とくにそう感じる。
窓の外へと意識を移す。
空は今日も、良い曇り日である。放射線や紫外線を阻むための防光霧が、ちゃんと機能している証拠だ。
見あげるとどうしても目に入るのが、三色の光を放つ曲がった鉄塔だ。おもむろに道路の端に佇んでいる。ずっと昔に廃止された信号機はすでに多くの地域で撤廃されたが、ここは原景保護条約のもと”妙なオブジェ”として保全されているのだ。
厚正省のトラックがたて続けに三台走っていく。運転席に人の姿はなかった。あれが渋滞の原因だ。恨もうにも、人が乗っていないので怨恨の対象が定まらない。
私は暇つぶしにトラックの中身を空想した。都市は年間で二十万人あまりの新生児をもうける。あのトラックはきっと美波区ナンバーだ。世代章のデザインがもうすぐ決まるので、絵柄を掘るために、大量の時計を技師の工場へ運んでいるに違いない。
それとも、捕えた”ゼット”でも詰め込んでいるのか……いや、そんなことは、考えるだけばかばかしい。
警察の歩行車が、巡回用の音源を流しながら通り過ぎていった。一般車に比べてかなり車高のある車両で、車輪のついた四本の足を使って滑りながら歩く姿は、誰もが子供の頃憧れるものだ。
「歩行車、最近よく見ますね」
助手席に座る男が頭を上げ、鬱陶しそうに顔をしかめて言った。
この男は、私の助手だ。後部座席にはお供え用の紫傘があるだけで、ほとんど空っぽに近かったが、助手というからには助手席に座るのがまっとうであると思う。
「なんか僕、歩行車に目をつけられているみたいなんすよ」
私は、どうしてそう思うのかと訊いた。
「勘です」
「そうか」
私は彼にオチのある面白い話など期待してはいなかったが、しばらくして彼は、
「いや、実を言うと、知り合いがアレかもしれなくて」
「アレとは?」
「ほら。アレですよ。ゼット」
助手は末尾を掠れるようにすぼめて言った。
自動車の隊列の最後尾が通り過ぎると、フロントガラスに写り込んだ赤いバツ印が、青いマルへと転ずる。信号機が廃止された現在、古い手動運転車には、信号の取り付けが義務化されている。
私はアクセルを踏み込む。
彼は、膝の上に置いた携帯端末へ視線を戻す。
「ゼットなんて迷信だ。なんというか知っているか? 被害妄想というんだ」
隣の車線に並ぶ最新式の車の列が、いっせいに均等な速度で発車する中で、私たちは少し遅れ出たため、助手が不憫そうな顔で私を見る。
「アンティークって大変っすね。買い換えればいいのに」
この車に、愛着があるように言われるのは心外だった。私は運転に集中しているふりをした。
が、実際にここからは、少々複雑な道のりになる。
自動運転専用の免許しか持たない人間には、とうてい立ち入り難い壁の迷路だ。遮断するのではなく、意図的に入りにくくさせているのだ。専用のソフトがなければ、自動運転も対応できない。
侵入を拒むのには訳があった。
目的地である場所には、人里のど真ん中にあって、人里から隔離されなくてはならない理由があった。
しばらく直進すると、フロントガラスに、実際に見えている道路と重なる透明な地図が出て、白い二重線が現れた。
厚正省の管理区域に侵入する警告だった。
本道を外れた車の速度を落とし、左折して路地に入った。
車通りが減ったのと、道幅が狭くなったのとで、あたりは一気に閑散とする。
シャッターの降りた酒屋がある角を曲がり、レンガ塀が両端を占める一通に入ると、塀の上をたくさんの猫が走っていく。割れたレンガから飛び出す松の枝をサイドミラーで折りながら進む先には十字路があり、赤い表識に白字で〈記憶の街〉と刻印されていた。
十字路は、左へ行くと十歩たらずで壁に突き当たる。盲腸のような部分だ。仕事を始めてしばらく経った頃、ここでハマってしまって、大変な目に遭った。
隣に助手が乗るようになったのは五年ほど前からだから、彼が知るところではない。
仕事上の付き合いは、気が楽でよかった。同じじかんを共有しているようで、それは人生の深くにまで入り込むことはない。
この車内にだって、携帯端末で映画を見る助手と、私とでは別々のじかんが流れている。
先ほどと同じ形式の表識に、〈第六区画〉〈二十六番地〉という表記が見え、私はその表識の真下に車を停めた。
「急ごう。〈予定者〉が待ってる」
私はアルミの鞄を取った。ヘッドレストに手をついて段差を降りようとしたが、丸く加工された鞄の角がドアの下部にガンとぶつかり、そういえば、この車が厚正省の備品で、来月あたりに車検に出さねばならないということを、ぼんやりと思い出す。
「持ちましょうか?」
助手が言った。善意の言葉だとわかっていた。しかし余計なお世話だった。無言を貫いたことに、抗議の意味が微塵もなかったかと言われたら、それは嘘になる。
鍵をかけた車からだいぶ離れても、叫ぶようなモーター音が聞こえ続けていた。この車は〈保存車〉で、巨大な冷凍庫を背負っているがために、常に燃料を燃やしている。
この美波区ナンバーの保存車は、私がちょうど就労する際に貸与されたものだった。つまり二十年の付き合いになる。すでに人生の四分の一を共にしてしまったのだ。そう考えると愛着が湧かぬでもなかった。
まっすぐ進んでいるはずが中央線よりほんのわずかだけ右にずれるところや、かなり強引に体重をかけないとシートを倒すことができないところなど、車の小さな癖のようなものを、私は全て把握していた。
「イの十一は、ここですね」
私たちは立ち止まり、建物を見上げる。
六角形の部品が敷き詰められた木造の壁があり、屋根は鱗のような形をした独特な煉瓦で敷き詰められた三階建てだった。
「生々しくて、なんだか気色が悪いですね」
助手は首の後ろを掻きながら言った。
「〈生命建築〉は嫌いか」
「僕はこんなところには住めそうもありません」
光合成をするツル植物が南側の壁を埋め尽くしていて、屋上にある澱粉燃料のタンクとつながっていた。背の低い梅の木が群生する共用の庭には、オーバーオールを着せられた庭師人形が、錆びた手に剪定ばさみを持ったまま、電源を切られ眠っていた。
八十年前からおよそ二十年間、一世を風靡した〈生命建築〉は、新しくもあり、古くもあった。
流行は循環する。そして時流は、常に機械化の道を辿った。しかし機械化はある時点で行き詰まり、市場に広がる製品は、金属的なガジェットから、生物由来の道具へと置き換わった。
流行はきっかり八十年単位で繰り返されている。そして人々はその現象を〈八十年打ちこわし〉と呼ぶ。
世間は機械装飾の絶頂期だ。街には自動人形が接客をする飲食店が溢れ、辞書に書かれた自動車はその名の通り自動運転する車のことを意味している。
しかしもうじき、八十年打ちこわしが来る。
教育機関は一転して、機械化の弊害と生物資源の尊さを語るようになり、企業はバイオ産業へ遷移するためのキャンペーンを始める。
八十年打ちこわしは、いわば祭りである。季節を失い、遺国との交流を失った現代人が、何とかしてじかんの流れを可視化しようと試みているのだ。
そうやって都市は真新しさを保ち続けてきた。
木造の階段を二十段ほど登ったところで、私は不可解な感覚に足を止めた。息をするのに少し抵抗があり、体が手すりの方へ吸い寄せられるのである。
どうしたんですか、と助手が背後で不思議そうに言った。
「まさか、アレルギー喘息ですか」
立ち止まっている私の横へ助手が数段登って来て、顔色を伺った。私は自分の両手に目を落として考えた。
「去年の定期検診では何も出なかった。慢性ビョウの類だろうか」
煙草も興奮薬も吸っていなかった。先天的なビョウ原因子も、警告されたことは一度もない。
「車検が必要なのはケンさんかもしれませんね」
助手はおどけて笑って、先に上がっていった。
そのうちに動悸はなかったことのように身を潜め、私の足はまた順調に階段を登り始める。
三〇二号室の格子窓からは、蛍電球の淡緑色の光と、掃除機をかける音が漏れている。
私は戸の前で止まって、鞄を置いて両手を自由にすると、頬を平手で数回叩いて表情を引き締め、法服の帯を正して言った。
「七十九歳と三百五十日の人間は、同じ人間ではない。彼らの行いには一切疑問を持たず、しかし、興味は示すのだ」
わかってます、と助手はうなずく。
「見た目は同じでも、中身は違う。頭でわかっているが、心ではわかっていない。死は、彼らのものではない。誰のものだね」
「都市とその未来のものです」
「そうだ。我々の体は、都市の所有物。我々は都市から体を間借りし、〈精神という人間〉を育てている。生と死の囁きは、判断を曇らせる。だからこそ私たちは生と死のどちらにも属してはならない。どちらの肩を持ってもいけない。それが追悼官だ」
私は静けさに抱かれた街を見渡した。
私たちはあくまで境界線だ。
予定者が望んだわけではなく、予定遺族に頼まれたわけでもなく、彼の人生時計が二十四時間を切ったからここへ来た。
死を見届け、遺体を保存車に運び、そして臓器が新鮮なうちにセンターに届ける。それから人生時計の記名を消し、止まったじかんをリセットして市役所へと返納する。
死ぬために必要なことすべてをやる。
私は乾いてきた口を、無理やり出した唾を飲み込んで潤した。
「丁寧に死を作ろう」
助手が首を縦に振った。私は鞄を持ち上げ、血管の浮き上がった手を握り込んで、戸に何度か打ち付けた。
「良いじかんがありますように」
私がそう言うと、助手も同じ台詞を繰り返した。
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