第6話 フィルター越しの現実
芦屋川沿いの夜は、どこか人工的に静かだった。
人も車も少なく、街灯の下を通るたびにスマホの画面がぼんやりと光を反射する。
佐伯健太は、片手に持ったスマホでインスタグラムのフィードをスクロールした。
新しい投稿に「いいね」がつくたび、数字が小さく跳ね上がる。
#芦屋カフェ
#デザインのある暮らし
#自分らしく
完璧な構図、明るいトーン。
だが、撮ったのはすべて――自分ひとりの時間だった。
「誰かに見せるために、生きてる気がする。」
思わず声に出して笑った。
少しだけ苦く、少しだけ寂しい笑い。
歩くうちに、あの小さな看板が見えてきた。
《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》。
気づけば、ここに来る頻度が増えていた。
現実に飽きると、この店の灯りが恋しくなる。
ドアを押すと、カランとベルが鳴る。
BGMは Elton John の “Your Song”。
優しいピアノの旋律が、誰かの心を包み込むように流れていた。
「こんばんは、健太くん。」
マスターが穏やかな笑顔を向けた。
「こんばんは。クラフトビール、お願いします。」
「今日はIPAにしますか?」
「それで。」
泡の立つ音が、静かに響く。
琥珀色の液体が注がれ、香りが広がる。
ホップの苦味と、柑橘のような香り。
まるで、現実の苦さにほんの少しだけ甘さを混ぜたような味だった。
「今夜は、スマホじゃなくてグラスを見てますね。」
マスターが笑いながら言う。
「え?……ああ、たまには現実も悪くないです。」
「それ、いい言葉ですね。」
健太はグラスを傾け、泡を見つめた。
先日、元恋人の藤井千沙に会った。
あの柔らかい笑顔、変わらない声。
何も言わずに許すような目。
彼女の優しさは、いつだって自分を居心地悪くさせた。
「SNSって、怖いですよね。」
不意に口から言葉が出た。
「怖い?」
「本当の自分を、ちょっとずつ削る感じです。
“いいね”が減ると、自分が小さくなった気がして。
でも、やめられない。」
「麻薬のようですね。」
「そうかもしれません。」
マスターは軽く頷いて、静かに言った。
「人は、自分を見てくれる誰かがいないと、不安になる生き物です。
でも、見られすぎても、息ができなくなる。」
「ちょうどいい距離、ですか。」
「ええ。光に近づきすぎると、影が濃くなるでしょう?」
健太は黙って頷いた。
画面の中の自分は、明るく、自由で、楽しそうだった。
でもその写真を撮った瞬間、いつも心は空っぽだった。
“リア充”なんて言葉が流行った頃、自分もその渦中にいた。
羨ましがられることでしか、存在を確認できなかった。
「本当はね、誰かに“いいね”されたいんじゃないんです。」
健太は小さく笑った。
「誰かに、“大丈夫”って言われたいだけなんですよ。」
マスターが微笑んだ。
「じゃあ、今言いましょうか?」
「え?」
「大丈夫ですよ、健太くん。」
その言葉に、思わず息が止まった。
冗談みたいな口調だったけれど、なぜか胸に響いた。
そのとき、店の扉が開いた。
入ってきたのは、井上真理。
白いシャツの袖を軽くまくり、仕事帰りのようだった。
「こんばんは。」
「こんばんは。……あれ、健太くん?」
「どうも。」
彼は少し照れたように笑い、グラスを傾けた。
「お二人はお知り合い?」とマスター。
「ええ、以前少し。真理さんの撮影をしたことがあって。」
「そうそう、あの病院のポスター。」
「はい。……あれ、けっこう評判よかったんです。」
マスターが静かに二人を見つめる。
「健太くん、写真も撮るんですね。」
「ええ。カメラの方が、現実をうまく隠せるから。」
「隠す?」
「レンズを通すと、悲しいものも綺麗に見えるんです。
自分の感情まで、フィルターをかけられる。」
真理は、少し微笑んだ。
「でも、撮る人の優しさが写る写真って、私は好きですよ。」
「優しさ……か。」
グラスを見つめる。
泡が消えるたびに、何かが自分の中から抜けていく気がした。
マスターが静かに言葉を落とす。
「レンズって、心の鏡みたいなものですよ。
焦点が外れたら、世界もぼやける。」
「……僕、最近ずっとピントが合ってない気がします。」
「じゃあ、少し距離を変えてみることです。
人も写真も、近づきすぎると見えなくなる。」
真理がうなずいた。
「焦って撮ると、だいたいブレますもんね。」
「確かに。」
健太は小さく笑った。
その笑顔は、いつもの投稿用の笑顔とは違っていた。
時計を見ると、もう23時を過ぎている。
「そろそろ帰ります。」
「今夜は歩きますか?」とマスター。
「ええ。スマホを見ない夜にしたいので。」
「いい選択ですね。」
外に出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。
川沿いの道を歩く。
ポケットの中のスマホが震えたけれど、取り出さなかった。
空には雲の隙間から月が見えている。
その光が、街のガラスに反射して揺れていた。
――現実の方が、案外きれいかもしれない。
健太はポケットに手を突っ込み、口笛を吹いた。
“Your Song” のメロディが、夜風の中でかすかに響く。
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