第7話 ラフロイグと祈り

開店前の《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》は、まだ冷たい空気を含んでいる。

マスターの柏木誠は、店内のレコード棚に手を伸ばし、慎重に一枚を取り出した。


Frank Sinatra の “Fly Me to the Moon”。


この曲を一番最初にかける日は、決まって心がざわつく。


彼女――麻耶がこの曲を最後に歌った夜も、同じような湿った風が吹いていた。

ステージの照明が淡いブルーに包まれ、彼女の声が空気を滑るように広がっていった。

あのときのピアノの鍵盤の感触を、いまだに指先が覚えている。

そして、最後のステージの帰り道、雨に濡れた道路でヘッドライトが滲んだ光景まで。


「もう二十年か……。」


彼は小さく呟いた。

レコードに針を落とすと、柔らかなノイズとともにイントロが流れる。

少し低いトーンで Sinatra が歌い始める。


“Fly me to the moon, let me play among the stars…”


夜の星のかわりに、昼間の残光がカウンターの上で反射していた。


棚の上に置かれたグラスを磨きながら、彼は今日も考える。

なぜ自分はこの店を始めたのか。

「忘れたいのに、忘れたくないもの」が、人を動かすことがある。

このバーも、そうやって生まれた場所だ。


扉のベルが鳴った。


「こんにちは、マスター。」

現れたのは岩本信吾――元教師であり、この店の最古参の常連。


「先生、今日もお早いですね。」

「もう定年だからな。時間だけはたっぷりある。」

「いい時間の使い方です。」

「いや、ここに来るのが“授業の続き”みたいなもんだよ。」


柏木は笑って、グラスを差し出した。

「いつものバーボンで?」

「頼む。」


グラスに注ぐ音が、静かな午後の空気を満たす。


「マスター、今日は顔が曇ってるぞ。」

「わかりますか?」

「教員は、生徒の顔色を読むのが仕事だからな。」

「……昔のことを思い出してました。」


「麻耶さんのことか。」

その名前を出されても、もう心は波立たない。

ただ、静かに沈んでいくような感覚だけが残る。


「この曲を聴くと、思い出すんですよ。」

「そりゃそうだ。二人の“テーマソング”だったからな。」

「先生、覚えてたんですか。」

「忘れるわけがない。あの夜、お前が弾いたピアノは完璧だった。」


柏木は照れたように笑った。


「でも、完璧な音ってのは、寂しいもんですね。」

「どうして?」

「感情を削ぎ落とした分、音が無菌になる。

 人が泣ける音って、少し汚れてるんですよ。」


岩本は黙ってグラスを傾けた。


「汚れてる音、か。人生も同じかもしれん。」

「かもしれませんね。」


二人の会話が途切れたとき、扉のベルがカランと鳴った。

入ってきたのは宮本紗季だった。


「こんにちは、マスター。先生もいらっしゃるんですね。」

「おお、紗季くん。今日も働きすぎてないか?」

「ちょっとだけ。疲れたので、逃げてきました。」

「いい逃げ場ですよ、ここは。」


柏木は微笑み、グラスに氷を入れる。


「何にしましょう?」

「……今日は、ラフロイグを。ロックで。」

「珍しいですね。ウイスキーは苦手だと。」

「でも、この香り、好きなんです。誰かに似てる気がして。」


ラフロイグのボトルを傾けると、透明な液体が氷の上で音を立てた。

その音が、ふと20年前のジャズクラブの記憶を呼び起こす。

麻耶がステージで歌っていた夜、同じように氷の音が響いていた。


「マスターって、ジャズやってたんですよね?」

「ええ、昔は。」

「どうしてやめたんですか?」

「彼女がいなくなって、音が出なくなったんです。」

「……悲しいですね。」

「そうでもありません。

 人は、失ったものの分だけ、静けさを手に入れます。」


紗季は少しだけ笑ってグラスを傾けた。


「マスターの静けさって、心地いいです。」

「それは、年齢の副作用ですよ。」

「ふふ、いい副作用ですね。」


岩本が笑いながら言った。


「マスター、いいこと言うな。俺も歳を取るのが楽しみになってきた。」

「先生はもう十分、いい音してますよ。」


三人の笑い声が、柔らかく店に広がった。

その響きが、まるでセッションのように自然だった。


「マスター。」

紗季がふとグラスを見つめながら言った。


「音楽って、誰かのためにやるものなんですか? それとも自分のため?」


柏木は少しだけ考えてから答えた。

「最初は自分のため。でも、途中で気づくんです。

 “誰かのために弾いてる時間”の方が、音が生きてる。」


「誰かのため、か。」

紗季が小さく呟く。

彼女の視線の先には、グラスの中でゆっくりと溶ける氷。

その透明な音を聴きながら、柏木は20年前の自分を思い出していた。


――麻耶。

君の声は、今もここにある。

このカウンターで流れる音のすべてに。


時計の針が午後九時を指した。

紗季と岩本が帰り、店には再び静寂が戻る。

柏木はボトルを棚に戻し、照明を少し落とした。

Sinatra の声が、ゆっくりとフェードアウトしていく。


「Fly me to the moon, and let me play among the stars…」


彼はグラスを掲げ、誰にともなく呟いた。

「今日も、ここにいるよ。」


氷の音が、まるで返事のように小さく鳴った。

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