第5話 泡の向こうの孤独

土曜日の夕方。

園庭の片隅で、子どもたちが最後の砂山を壊していた。

藤井千沙は、小さな手に靴下を履かせながら「また月曜日ね」と笑う。

それは習慣のような言葉であり、祈りでもある。

元気でいてほしい。

でも、本音を言えば――少し休みたい。


32歳。保育士7年目。


毎日、笑顔と声を張り上げて、誰かの泣き声と向き合う。

「先生、だっこ」「先生、見て」「先生、こぼれた」――

一日が終わるころには、自分の名前よりも“先生”という呼び名が染みついている。

帰りの電車ではスマホを開く気力もなく、いつも車窓に映る自分の顔が、少し他人みたいに見えた。


駅を降り、家までの道を少し遠回りする。

その途中にあるのが、バー《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》。


最初に来たのは去年の秋。


失恋の夜、涙を拭きながらふらっと入った。

その夜の一杯が、今でも彼女の心を静かに支えている。


ドアを押すと、カランとベルが鳴った。

暖かい灯り。磨かれた木のカウンター。

スピーカーから流れるのは、Ben E. King の “Stand by Me”。

心の奥を撫でるような低音が、今日の疲れをそっと包み込む。


「こんばんは、千沙ちゃん。」

マスターの柏木が、穏やかな笑みを向けた。


「こんばんは。今日も、バーボンソーダでお願いします。」

「かしこまりました。」


氷がカランと鳴り、琥珀色の液体が注がれる。

シュワ、とソーダの泡が立ちのぼる。

その音だけで、少し呼吸が整う。


「仕事は順調ですか?」

「順調……なんでしょうね。」

「順調なのに、ため息が出る?」

「子どもたちは可愛いです。ほんとに。でも――

 “誰かのため”ばかり考えてると、たまに自分が空っぽになるんです。」


マスターはグラスを磨きながら頷いた。


「優しい人の宿命ですね。

 でも、空っぽになったときこそ、何かを受け取れる状態でもある。」

「……受け取るの、苦手なんです。」

「なぜ?」

「悪いなって思ってしまうんです。

 手を伸ばすと、誰かのを奪うような気がして。」


マスターは少しだけ笑って、カウンター越しに言った。


「“奪う”と“分け合う”は、似てるようで違うんですよ。」

「違うんですか?」

「分け合うのは、お互いが減らない。」


その言葉に、千沙は少しだけ目を細めた。

ソーダの泡が静かに弾けて消える。


ふと、ドアが開く音がした。


「こんばんは。」


入ってきたのは、佐伯健太だった。

黒のパーカーにデニム、首にはカメラ。

フリーのWebデザイナーで、千沙の元恋人だ。

別れてから一年。

偶然を装いながら、彼は何度かこの店で顔を合わせていた。


「……久しぶり。」

「うん。元気そうだね。」

「まあね。」

「健太くんも、いつもの?」

マスターが聞くと、彼は笑って頷いた。

「クラフトビール、お願いします。」


泡の立つ音が、二人のあいだを曖昧に繋ぐ。

千沙はバーボンソーダのグラスを手に取り、氷をゆっくり回した。


「どう?仕事。」

「まぁまぁ。案件は多いけど、気分で波がある。」

「昔からだね。夜型だったし。」

「そっちこそ、変わってないね。」

「私?変わったよ。人のために笑うの、上手くなった。」


健太は一瞬、言葉を失った。

その目が、何かを言いかけてやめる。

彼はいつもそうだ。言葉の手前で立ち止まる。

千沙はそれをわかっていて、追いかけない。


「……あの時、ごめん。」

「何のこと?」

「SNSで、あんなこと言ったの。

 “重たい彼女でした”とか。」

「そんなの、昔の話でしょ。」

「違うんだ。あれ、自己防衛だったんだ。」

「うん、わかってる。私も、気づいてた。」


二人の間に沈黙が落ちた。

マスターが小さくため息をつき、音量を少し下げる。

代わりにグラスの中の氷が溶ける音が、静かに響いた。


「ねぇ、千沙ちゃん。」

健太が、少しだけ身を乗り出した。


「もう一度、会えないかな。」

「……私ね、人から頼まれると断れないの。」

「それは、俺のこと?」

「ううん、誰にでも。」


その言葉は優しいようで、切なかった。

彼女の優しさは、愛情でもあり、呪いでもあった。

人を助けるほど、自分を後回しにしてしまう。


マスターが静かに言葉を落とした。


「優しさは、水に似てます。

 器がないと、どこに流れていくかわからない。」


「器……」と千沙が呟く。


「つまり、自分を満たす器を持たないと、他人を満たせないんです。」


千沙は少しだけ笑った。


「じゃあ、私もマスターのグラスみたいに、底の深い器にならなきゃ。」

「ええ。まずは、氷が溶けても薄まらない心から。」


そのとき、健太が静かに立ち上がった。


「帰るよ。……また来るかも。」

「うん。」


彼は会計を済ませ、軽く手を振って出ていった。

ドアのベルが鳴り、夜風が少しだけ吹き込む。


「優しい人って、不器用ですよね。」

「不器用でいいんです。

 器用に生きる人は、ドラマにならない。」

「……マスター、うまいこと言う。」

「プロですから。」


千沙は笑って、グラスの底を見つめた。

泡が消え、琥珀色の光が静かに沈んでいく。

彼女は小さく息をついて言った。


「私、約束しました。“誰かのために笑うのをやめない”って。

 でも今度は、ちゃんと“自分のためにも笑う”って、足します。」


マスターがうれしそうに頷く。

「いい追加です。人生の配合は、ちょっとずつ変えればいい。」


外では、風が少し強くなった。

千沙はマフラーを巻き直して立ち上がる。


「ごちそうさまでした。」

「おやすみなさい。次は“笑いに来る”だけでいいですよ。」

「はい。」


ドアを押すと、夜の冷気が頬を撫でた。

空には雲が流れ、街灯の光が揺れている。

耳の奥で、まだ “Stand by Me” が流れていた。


――誰かの隣に立てるように。

でも今夜だけは、自分の隣に立ってあげよう。


千沙は、深く息を吸い込んで歩き出した。

ソーダの泡のように、少しだけ心が軽くなっていた。

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