第20話症状
金縛りのように全身の筋肉が固まって、作業が完全に滞ってしまったのだ。動かない。動き続けるのは脳だけだ。
呼吸が自然と荒くなるのは、急な体の異常に対する困惑からか、それともこれも症状の一種なのか。
この間の健康診断の時は確かに異常なしと言われたはずだ。精密検査こそしていないけれど、今までも自分の不調は、ただの疲れだと思っていた。
数分後、なんとか元に戻ったけれど、さすがにやばいと私も悟った。
一旦作業用の机から離れて、紙とペンを取り出す。
書くのは退職願。ガタガタと歪む筆跡で、なんとか書き終え、封筒に包む。
翌日、私は会社に出勤し、部長に退職したいという旨を口頭で伝え、退職願を提出する。部長は驚いていたが、深くは聞き込まず、退職願を受け取った。
できれば2ヶ月以内には退職をしたい。この体の異常がいつ悪化するかがわからない以上、なるべく迅速に終わらせるのが理想的だ。
幸い、私が1人で請け負っている仕事はそこまでない。引き継ぎ自体はスムーズに終わるだろう。
病院に行って、治療しながら仕事と作曲を続ける。普通の人ならその考えに至り、実行することだろう。でも、私は違う。
私は自殺志願者だ。ずっと死にたかった。これを機に、この病気で死ねるなら、それでいい。わざわざ治す気もない。早く、終わりたい。
確かに私はいろんな人に期待され、認められた。それはすごく嬉しかったし、実際私は私を認め出していたし、期待してしまっていた。まだ見たい景色だってあるし、やってみたいこともある。でも、私はそれでも死にたかった。
だって、私はすでに、散々甘えて生きてきた。親や、周りの優しい人たちに、迷惑ばかりかけてきた。そして、そんな迷惑を尻目に、私は好きなように生きてきた。本当だったら、いじめられたっておかしくないような人種なのに、たまたま環境が良かっただけで、ここまで上り詰めてしまったんだ。
私は怖かった。これ以上甘ったれた人生を生きるのが。これ以上、人に迷惑をかけるのが。だから、これを天罰として受け入れて、きちんと最期まで苦しみ抜くのが、私のせめてもの償いなんだ。誰がそう言ったとか、神様からのお告げとかじゃなくて、私がそうしないと許せないから。
だから、私はこの症状を、放っておくことにした。
退職の手続きは思ったよりも早くに終わった。ちょうど私が持っていた作業自体がひと段落して、そこまで引き継ぎをするものもなかったのが一番大きな要因だろう。なんにせよ、変に揉めることがなくてよかった。優秀な社員でも、大変なお荷物でもない、空気のような私の人生の歩み方が、ここにきて自分自身を楽な方向へ導いてくれた。
引き継ぎが終わり、退職日までの日々は有給を消化した。
有給消化中は、ひたすらできる限りの時間を使って作業をして、アルバムを完成させた。アルバム制作のチームの人たちとの打ち合わせの時も、退職とかの話はせず、顔にも出さず、なるべく平静を装った。
家に引きこもり、作曲をするか、眠るか。そのどちらかしか行わない生活で、満足感と、虚無感が同時に襲ってきた。
これだけでも十分食べていけるだけの貯金と、収入。きちんと自分の生活の基盤を築くことができていることには満足していたけれど、1日の大半を眠るか趣味に没頭するかで消費する日々は、なんとも言えない無力感と虚無感があった。
そんな自分に対する嫌悪感がストレスとなり、病状を悪化させていく。
きっと、私はもう長くない。このまま悪化する症状を放置していれば、数年ともたないだろう。
私はスマホを取り出し、puwitterを開く。曲ができるたびに投稿の報告をするばかりのアカウントで、久々に文字だけのつぶやきを残した。
『私は、多分病気です』
『何の病気かはわかりません。病院には行っていないので』
『私は、きっとあと数年ももたない命でしょう』
『でも、死ぬその時まで、曲は作り続けます』
『最後まで、不自由な体でも、やり遂げます』
『私がこの音に包まれて死にたいと思えるような、一曲を作るまで』
『ずっと、ずっと』
『だから、まだ、ここ《SNS》にいさせてください』
そう何個にも分けて連投して、スマホを閉じる。きっといくつもの反応が来ることだろう。モリミュージックさんからも連絡が来るだろう。でも私は知らない。目を向ける気はない。
アルバムを出したばっかで、みんなが感動の言葉をひたすらつぶやいている中で、私のこの投稿は、一気に混乱を招くものになっただろう。
私の想像通り、渡邊さんから何度も電話がかかってきた。部屋に響くコール音を、何回無視したか、私にはわからない。
電話の後には何度もDMが飛んできた。心配の言葉がほとんどだろう。今は、読む気にならない。少しだけ、ヤケを起こしているから。
1人でただひたすらにギターを弾く。動かない指を、必死に動かして、演奏をする。ぎこちない動きには、やはりぎこちない音がついてくる。それに対する苛立ちを込めて、また弦を弾く。そして怒りを混ぜた濁った音が響く。何度も、何度も弾くたびに、変な音が鳴り響く。久々に、指が痛くなるまで弾いている。
痛みか、苛立ちか、絶望か。何が要因かわからない涙が、服とギターを濡らしていく。一度ギターを立てかけて、ベッドに突っ伏した。私は、もう今までのようにたくさんギターの音を入れることができない。
でも、私はどうしても、自分が納得する一曲を作る時は、あのギターの音を入れたい。
泣いて、泣いて、泣き続けた。嗚咽を漏らして、鼻水を垂らして、枕をぐちょぐちょにした。泣いている間も、筋肉は私の意思に反して突っ張っていく。
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