第2話 封書の中身
山を抜け、谷を越えた先に───小さな村があった。
ハイフェルト村。
ペイシュタット州の最西端、地図にもろくに載っていない村だ。
夜風に吹かれ、木造の屋根がきしむ音が響く。
煤けた家々の間を、リューファスは亡骸を担いだまま歩いていた。
その隣には、まだ震えの残る姉弟。
エリュシアは泣き疲れた弟を抱えたまま歩いてきた。
彼女の足取りは重く、靴の泥が乾いて白くひび割れている。
「ほら……着いたぞ。ハイフェルト村だ」
リューファスが振り返ると、エリュシアは小さく頷いた。
けれどその瞳は、焦点を結ばない。
弟の頭を撫でながら、ただ俯いていた。
「父さんが……本当に、もう……」
その言葉に、リューファスは何も返せなかった。
代わりに足を止め、深く息を吐く。
「ここで少し休め。医者は居ねぇが、薬草くらいはある」
入口の木柵を押し開け、リューファスは中へと入った。
周囲の家々から灯りが漏れ、窓辺の影が揺れる。
犬の遠吠えが一声。
それが、この村がまだ「生きている」証のように感じられる。
「リューファス! 何かあったのか?」
通りの奥から、青年が駆けてくる。
リューファスは軽く手を上げた。
「兄貴か……悪ぃ、ちょっと厄介な連中に絡まれてな。悪いが、薬庫の鍵、貸してくれ」
「いいけど……そっちの人たちは?」
「保護対象だ。余計な詮索はすんな」
青年はすぐに姿勢を正し、頷いた。
リューファスが連れているのは、見るからに「上の世界」の人間。
安易に関わってはいけない相手だということを、村の者なら誰でも察する。
薬庫に案内されたエリュシアは、ようやく弟を藁布団に寝かせた。
頬には涙の跡が残り、声は掠れていた。
リューファスは棚から包帯と瓶を取り出し、無造作に差し出す。
「とりあえずこれ使え。消毒薬だ。滅茶苦茶染みるけど効く」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。手……出せよ。擦り傷がひどい」
エリュシアがためらいながら手を差し出すと、リューファスはその傷に薬を塗った。
彼女は少し顔をしかめる。
沈黙が、狭い薬庫を満たした。
「お前……しっかり弟を守ってやったんだな」
「本当に、助けてくださって、ありがとうございました」
やっとの思いでそう言ったエリュシアに、リューファスは肩をすくめた。
「礼なんていらねぇよ。見捨てたら寝覚め悪いだけだ」
ぶっきらぼうな口調。
けれど、声の奥にはかすかな優しさが滲んでいた。
エリュシアはそんな彼を見つめ、ふと小さく微笑む。
「私は……エリュシア・ヴォルンと申します。こちらは弟のフリューゲルです。……父は、ライレンス・ヴォルンと……」
「リューファス・ゲルハルト。ペイシュタット警邏隊の下っ端だ」
名乗り終えると、リューファスは腕を組んだ。
そして、彼女の口調に眉をひそめる。
「なぁ、お前さ……そんな堅い言葉、やめろよ」
「えっ?」
「『申します』とか。ここじゃ誰もそんな喋り方してねぇ。敬語使われるとむず痒いんだよ」
エリュシアは目を瞬かせた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
胸の奥の何かが少しだけ軽くなったような気がした。
「……じゃあ、リューファス、でいい?」
「ああ。それでいい」
「……ありがとう、リューファス」
その言葉に、リューファスは一瞬だけ目を逸らした。
照れ隠しのように鼻を鳴らし、窓の外へ視線を向ける。
「夜は冷える。寝ろ。明日、すぐに……州長に報告に行く。お前の父親が託したもんも、ちゃんと届けてやる」
「……うん」
「エリュシア……お前はどうする?」
エリュシアは頷き、弟の寝顔を見つめた。
「私も行くわ。お父さんに何があったか……知りたいもの」
「じゃあ、早く寝ることだ。夜明け前に出るぞ」
風が窓を叩き、油灯の炎がわずかに揺れる。
その小さな光が、かすかに温もりを宿していた。
エリュシアは目を閉じ、初めて静かな息をついた。
彼女の頬に落ちた涙は、もう恐怖のものではなかった。
リューファスは薬庫を出て、夜の外気を吸い込んだ。
見上げた夜空には、雲の切れ間から星が覗いている。
「……中央のクソども。何を隠してやがる」
低く呟き、拳を握る。
刃に貫かれた男の言葉。
あの「帝国に渡してはならない」という封書。
そして、涙を流す姉弟。
それらが頭の中で絡まり、静かに熱を帯びていく。
………………
…………
……
朝霧はまだ街の上に残っていた。
石畳の上を、蹄の音が響く。
エリュシアを抱えるように、手網を握るのはリューファスである。
早朝に村を出て3時間ほど。
彼らの目の前には、古びた煉瓦造りの館がそびえている。
重厚な鉄門、金の紋章。
ペイシュタット州庁───州長の私邸でもあった。
「……ここが目的地なの?」
エリュシアが息を呑む。
緊張が声に滲んでいた。
リューファスは面倒くさそうに片手を上げ、頷く。
「ああ。文句を言われたとしても入るしかねぇ。お前の父親が託した相手なんだろ?」
そう言って、彼は扉を拳で叩いた。
何度かの沈黙のあと、重たい音とともに扉が開く。
「どなたですかな───おや、リューファスか。こんな朝っぱらから何の用だ?」
現れたのは、白髪混じりの壮年の男。
ペイシュタット州長、ハルベルト・クロイツァー。
眼鏡の奥の目が、じろりと2人を見回した。
「夜に起きた襲撃事件の報告だ。犠牲者は6名、うち1人は商人ライレンス・ヴォルン。娘と息子を保護した」
言いながら、リューファスはエリュシアに目配せする。
すると彼女は、懐から封書を取り出した。
「ライレンス……ヴォルン、だと?」
ハルベルトの眉が僅かに動いた。
「ここであいつの名を聞くとは……しかし死んだか……残念なことだ」
封書を受け取る指先が、一瞬だけ止まる。
次の瞬間、男は溜息を吐き───渋い声を漏らした。
「まぁ……事情は理解した。中に入りなさい」
そう言ってハルベルトは、2人を屋敷の中へと招き入れた。
玄関の奥には高価な絨毯が敷かれ、壁には帝国の紋章旗がかかっている。
しかしその中に、どこか淀んだ空気があった。
光は届いているのに、暗い。
そんな印象を受ける部屋だった。
応接室に通されると、ハルベルトは封書を慎重に開き、書面を広げた。
リューファスとエリュシアが並んで座る。
沈黙の中、紙をめくる音だけが響いた。
数行、読み進めた瞬間───ハルベルトの顔色が変わる。
「こ……これは……」
喉が鳴る。
指先が震えた。
「州長殿……それは……父が託したものです。父は帝都の貴族商団と取引をしていたのですが───」
「おかしい、どころではない……!」
低く唸るように言いながら、ハルベルトは紙を卓上に叩きつけた。
そこに記されていたのは、取引契約書の写本。
一見すれば、帝都の貴族商団とペイシュタット商会との共同事業契約のものだ。
だが───その裏面に、もう一枚の薄紙が貼り合わされていた。
ハルベルトは震える声で読み上げた。
「て……『提供対象:江南部の人夫5000名、魂魄抽出後、精製を実施。
エリュシアの顔から血の気が引く。
「こ、これは……!?」
「人間の魂魄……を利用した強化薬のことだ」
ハルベルトが低く唸るように言う。
「アストラ因子───禁呪によって、生きた人間の魂を抽出し、それを精製したものだ。はるか昔に使われたものだが……非人道的すぎるため、300年前に使用が禁止されたはず……! だが……近年、魔族との戦闘で帝国が異様に勝利を重ねていた理由は───これだったのか……!」
リューファスが眉をひそめた。
「つまり、帝国は……人を、薬の材料にしてたってことかよ」
「しかも───公にだ」
ハルベルトの声が掠れる。
書面の隅には、帝都魔術省と軍需局、そして皇帝の印章が並んでいた。
「───そんな馬鹿な!」
エリュシアが立ち上がる。
声が震えている。
「父は、こんなものを見てしまったから……!」
「だから……刺客を放たれた」
リューファスの声には、怒りというよりも冷たさがあった。
彼は拳を握る。
生者から魂を奪って繁栄を続ける国。
その現実に、血が沸騰するような音が胸の奥で鳴った。
「……州長、『正義の人』だったんだろ? 昔は中央の官吏だったみたいだが───帝国の汚れを糾弾してこんなド田舎に飛ばされたって」
その言葉に、空気が凍りつく。
ハルベルトはゆっくりと椅子に背を預け、苦い笑みを漏らした。
「正義か……懐かしい言葉だな」
彼は目を細め、そして続けた。
「私も若い頃は、そうだったな。だが、帝国は『正しい者』を許さない国だ。汚濁に手を突っ込まねば……生きていけん」
「……見て見ぬふりをするのか」
ルーファスの声は、ひどく震えていた。
「私は……この州を守る責務がある。中央に楯突けば、この地は見捨てられる。飢えも、略奪も、すぐそこにやってくるのだよ」
「だったらこの書類はどうすんだよ……!? 帝国の非道さを知っておきながら……無かったことにするのか!?」
リューファスの声は低く、だが確実に怒りを孕んでいた。
かつて汚濁を糾弾した人間が、今やこんな言動をするなんて。
ハルベルトは俯き、何も言わない。
沈黙。
外で、鳥が一声鳴いた。
その沈黙を裂くように、リューファスは吐き捨てる。
「人の魂まで燃料にして、それでも平和だの秩序だのって言うのか!? ふざけんなよ!」
「リューファス……!」
エリュシアが息を呑む。
だが彼は構わず続けた。
「腐った国で、クソみたいな奴らがのうのうと生きて、繁栄のために人間が殺される───この書類が証明してるのは、それだけだろ!」
拳が震える。
爪の跡が掌に食い込んだ。
ハルベルトは黙ってその姿を見ていた。
そして、静かに呟いた。
「……君のような若者が怒らねば、この国は変わらんのだ」
リューファスは何も言わずに立ち尽くす。
ハルベルトは静かに視線を上げ、彼を見据えた。
ゆっくりと椅子を立ち、封書を両手で包み込む。
「けれど、君なら……できるかもしれん」
リューファスの目が細くなる。
「この封書は、君が預かれ。私はもう……何もできん。だが、君の怒りが火を灯すなら───燃やせ。帝国を」
リューファスは数秒、無言でそれを見つめた。
そして、ゆっくりと受け取る。
「……いいのかよ。これ、帝国に見つかったら、あんた首どころじゃ済まねぇぞ」
「もう、守るものは少ない。若い者の背を押すくらいは許されるだろう」
その言葉に、リューファスは息を呑んだ。
老いた男の瞳の奥には、消えかけた炎がまだ確かに灯っているかのように感じられる。
「あんた、本当はまだ折れてねぇんだな」
「折れてなどいない。ただ、もう……歩けなくなっただけだよ」
ハルベルトは苦笑し、背もたれに沈む。
リューファスは黙って一礼し、踵を返した。
扉の向こう、光の中へと歩き出すその背に、ハルベルトが静かに呟く。
「行け、リューファス。この国に、もう一度『痛み』を思い出させてやれ」
その声は、若き日を捨てた男の、最後の祈りだった。
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