辺境の少年、腐敗しきった帝国を灼く───逃亡令嬢と掲げる反逆の旗

井熊蒼斗

帝国歴697年

第1話 邂逅

 帝国暦697年、春。

 風が街道の砂を巻き上げ、馬の嘶きが遠く山に響いた。


 鋼をまとった5騎の兵が、1台の馬車を護るように疾駆していた。

 馬車の幌は所々破れ、車輪には乾いた泥がこびりついている。

 そしてその中では、少女が小さな弟を抱きしめていた。


 少女の名は、エリュシア・ヴォルン。

 銀糸のような髪を結わえ、琥珀色の瞳が揺れている。

 彼女は未だ幼い弟の額に手を当てながら、御者台の男を見上げた。


「お父さん……これ……本当に旅行なの?」


 問いかけに、父親は返事をしなかった。

 深く刻まれた眉間の皺。

 その双眸は、ただただ前を見据えている。

 その背中には、商人として渡り歩いてきた男としての沈黙の気迫があった。


「……」


 エリュシアは唇を噛んだ。


 冷たい瞳の奥で、彼女は理解していたのだ。

 これは旅行なんかではない、と。


「やっぱり……お父さんは隠しているわ」


 エリュシアは誰にも聞こえぬほどの声で呟いていた。


 何かあるのは、間違いない。

 彼女の胸が冷たく締め付けられる。

 彼女は弟の手を包みながら、声を潜めて言った。


「ねぇ……怖くない?」

「ううん、ぜんぜん。だって、お父さんもお姉ちゃんもいるもん!」


 無邪気な声。

 彼は、まだ「旅行」を信じていたようだった。


 エリュシアは微笑もうとした。

 けれども、引き攣った頬がうまく笑わせてくれない。

 少しでも安心させてやろうと、弟の小さな肩を抱きしめながら心の中で強く祈る。


 ───この子だけは、絶対に守らなきゃ。


 そう思った時、風が変わった。


 乾いた土の匂いの中に、血と鉄の臭気が混ざる。

 彼女の腕の中で弟が、怯えたように小さな指を空に伸ばした。


「お姉ちゃん……音がする……山が鳴いてるみたい」


 その一言に、エリュシアの心臓が跳ねた。


 そして遠くから聞こえる金属の擦れた音。

 風の向こうから死が迫ってきている、そう彼女は確信した。


「……まずいわ」


 エリュシアが呟いた、次の瞬間。

 山の影から、黒い影が踊り出た。


「敵襲ッ!」


 護衛のひとりが叫び、馬を旋回させる。

 すると───瞬く間に街道の両側から、軽装鎧の兵たちが溢れ出した。


「なっ……!?」


 エリュシアはすぐさま、後方に目を向けた。

 途端に、彼女の心臓は早鐘のように動き出す。


 灰のマント。無機質な仮面。

 そして、息を潜めたままの殺気。

 後方にいたのは、そんな集団だった。


「くっ……囲まれた! 20は居るぞッ!」


 護衛のひとりが叫び、馬を旋回させる。

 仮面の奥から放たれる殺気に、空気が張りつめる。


「父さん! 馬車の外に襲撃者が……!」


 エリュシアは金切り声をあげる。

 すると、父親は姉弟の方へ視線を向けた。


「エリュシア、フリューゲル。落ち着け……ただの盗賊だ。すぐに終わる」


 低く掠れた声。ぎこちない笑顔が、子供たちをどうにか安心させようとする親心を感じさせる。


「だけど……私も護衛たちに加勢する。2人は……絶対に馬車から出るんじゃないよ」

「なっ……!? お父さん?」


 父は、ゆっくりと腰の短剣を抜いた。

 その姿に、エリュシアは喉の奥はひりつく。


 ───お父さんが……剣を握ってる……


 帝都では椅子にどっかりと座って商談を仕切るだけだった父が。

 いつも帳簿と契約書の間で笑っていた人が。

 今は剣を握っている。


「やっぱり……これは旅行じゃない」


 エリュシアの呟きは、風に溶けて消えた。


 馬車が止まる。

 護衛たちが剣を抜き、陣形を組んだ。

 父親を合わせても、6対20。


 どこからともなく火花が散り、空気が焼け焦げる。

 魔弾の光が飛び交い、爆風が木々を薙ぎ倒した。


 すると。


「お嬢様、伏せて!」


 護衛が叫び、馬車の前に立ちはだかる。

 次の瞬間、火のような魔弾が、地面すれすれの場所を走った。


「ひ……やぁぁぁぁぁぁっ!!」


 次の瞬間、爆風が地面を叩き、馬車が横転する。

 視界が回転し、世界が歪む。


「お姉ちゃん! 痛いっ……!」

「大丈夫よ! 離れないで!」


 転がるように地面に投げ出され、エリュシアは弟を抱きしめた。

 膝を擦りむきながら、それでも必死に立ち上がる。


 護衛が1人、灰装束の刃に貫かれるのが見えた。

 もう1人、地面に叩き伏せられる。

 魔法が直撃し、3人が同時に吹き飛んだ。


 残りはもう、父親のみ。

 希望など、どこにもなかった。


 フリューゲルが泣き叫ぶ。


「お姉ちゃん、やだ! 帰ろうよ、うちに帰ろう!」


 宥めさせようとするも、言葉は口から出てこない。


「エリュシア!! フリューゲル!!」


 遠くから聞こえる、父の声。

 彼はまだ、どうにか敵の攻撃を防いでいた。


 だが。

 その声を掻き消すように、背後で足音が迫る。


 灰装束の1人が───エリュシアに刃を振り上げたのだ。


「……っ!!」


 エリュシアは咄嗟に、簡略化した詠唱を開始する。

 体全身に魔力が走り、蒼白い魔力が渦を巻いた。


 しかし、術式が発動するよりも早く。


「死ねェッ!」


 敵の刃が閃いた。


 ───あぁ、もう……間に合わない……


 エリュシアが息を詰め、弟を庇うように目を閉じる。


 その刹那。


 ドンッ!!!


 それは、轟音だった。

 空から何かが落ち、土煙が爆ぜる。

 同時に───エリュシアを狙っていた灰の兵が吹き飛んだ。


「……おいおい、ずいぶん騒がしいじゃねぇか」


 低い声が、煙の中から響いた。


 煤けた革鎧と、腰に差した剣。

 土埃の中から現れたのは、エリュシアと年の変わらないような少年だった。

 黒い髪をかき上げ、片方の口角を吊り上げる。

 それは、挑発的な笑みだった。


「ここはウチの管轄だ。ここを通るには、通行証が要るんだぜ?」


 その言葉に、刺客たちがざわめく。


 エリュシアは一瞬、息を呑んだ。

 彼の背中から立ち上る、奇妙な熱。

 それは恐怖ではなく───混沌に似た、生の衝動だった。


「少なくとも……物騒な集団、お前らは持ってねぇんだろ?」


 呟かれた言葉と同時に、彼の周囲で赤い魔力が展開されていく。

 次の瞬間───エリュシアの瞳に、燃え立つ炎の反射が映った。


 ───まるで……竜が笑っているみたい。


 炎を纏った姿は少年とは思えない威圧感。

 彼は、熱気の中で高らかに名乗りを上げる。


「リューファス・ゲルハルトだ! オレの名と……『赤竜隊』の名をしっかり覚えておけ」


 名乗りと同時に、炎が爆ぜた。

 紅の閃光が街道を走る。

 そしてそのまま、仮面集団のことごとくを灼き尽くすのだった。














 ………………

 …………

 ……













 煙がようやく晴れた。

 焦げた草の匂いが鼻を刺す。

 炎の残滓が赤く揺らめく中、少年───リューファスは片手で剣を払った。

 刃先についた黒い煤が地面に落ちる。


 灰装束の刺客たちは、もはや誰1人として立っていない。

 2,3名は素早く逃げたようだが、剣も仮面も焼け落ち、残るのは炭の山だけだ。


 ───こんなド田舎に豪華な馬車……それに刺客……か。


 リューファスは短く息を吐いた。

 戦いそのものは一瞬で終わった。


 けれども───空気が、重い。


 殺気の名残と、血の匂い。

 そして、横転した馬車の陰で怯える2人の子供。

 年の離れた姉弟のようだ。


 泥と灰にまみれた白い顔。

 その下にあるのは、州内では見ることの出来ない高価な衣類。

 エリュシアと、その弟である。


「おい……2人とも。無事か?」


 声をかけると、エリュシアがびくりと肩を震わせた。

 彼女はしばらく口を開けず、ただ炎の残り火の向こうでリューファスを凝視していた。


 だが、しばらくすると。

 緊張が解けたのか、張りつめていたエリュシアの身体から一気に力が抜ける。


「あ……ありがとうございます。あなたは、警邏隊の方……ですか?」

「ああ。ペイシュタット州警邏隊のモンだ」


 リューファスが名乗ると、少女の頬がわずかに緩んでいく。


「無事か?」

「はい……少し擦り傷はありますが……大丈夫です」


 エリュシアが答える。

 リューファスが視線を横に向けると、弟がエリュシアの腕に縋りついたまま涙を零している。


「ぼくたち……助かった……んだね……?」

「ああ、もう大丈夫だ」


 短く答え、リューファスは視線を巡らせた。

 彼女の言う通り、姉弟に大きな怪我はないようだった。


「あの……助けてくれて……本当にありがとうございました……!」


 彼女が頭を下げたその背後で、生き残りが駆け寄ってくる。

 その背後で、血にまみれた男がよろめき出てくる。


「エリュシア……! フリューゲル……!」


 子供の名を呼ぶ男。

 よく見ると、弟の方に顔つきが似ている。


「お父さん……!」


 エリュシアが肩を抱き、必死に呼びかける。

 しかし、すでに男の瞳は焦点を失っていた。


「心配するな。大した傷じゃ、ない……」


 そう言いつつも、胸元から、真紅の血が溢れている。


 苦しげに息を吐きながら、ライレンスはかすかに笑った。

 だが、リューファスはその様子を見て即座に悟る。


 ───これは、助からねぇ……


「「お父さん……!!」」


 姉弟の咽び泣くような声が、街道に木霊する。


「しっかりして!」

「……もう、いい。2人が……生きていれば……」


 風に掻き消されそうなほど掠れた声。

 男は震える手で、懐から封書を取り出した。


「これを……ペイシュタットの州長へ……渡してくれ……」

「州長に……?」

「この封書を……帝国に渡しては……ならない」


 男の声のひとつひとつが、重く沈む。


「あいつなら……きっと……私の代わりに……皆を救ってくれる」


 エリュシアは、黙って頷いていた。

 父親の瞳に、死の影が宿っていくのを見ながら。


「お父さん! 行かないで……!」


 エリュシアの声が震える。

 涙が頬を伝い、泥に落ちる。

 弟も泣きじゃくりながら、姉の袖を掴んでいた。

 父親は2人の頬に手を伸ばし───そして、微かに微笑んだ。


「エリュシア……お前は……母さんに、似ているな……フリューゲルは……いつか……私みたいに……なるのだろうか……」


 その言葉が、彼の最後だった。

 力の抜けた手が、地面に落ちる。

 静かな音が、風の中に消えた。


「「お父さんっ!!」」


 姉弟が叫ぶ。


 エリュシアは泣きながら、書簡を胸に抱きしめた。

 リューファスは、ライレンスの託した書簡に目をやった。

 封蝋に刻まれた紋章は、確かに帝国の中央のもの。

 だが、その紙切れの存在よりも、泣きじゃくる姉弟の方がよほど胸を締めつける。


「……行こう。父親の願いはオレが果たす」


 リューファスはいつの間にか、口にしていた。

 言葉が勝手に口をついた。

 誰に命じられたわけでもない。

 けれど、心の奥ではもうとっくに決まっていた。


 ───オレは、いつか帝国をぶっ壊す。


 帝国の腐臭は、小さい頃から嗅ぎ慣れている。

 「秩序」とか「忠義」とか、聞こえのいい言葉で全部誤魔化して、裏では飢えた民を踏みつけている。


 ───父さんはそんな連中の下で正義を信じ続けたけど───結局、誰も救えてねぇ。


 赤竜を殺した英雄の息子。


 立派な肩書きの裏にあるのは、泥と血と、どうしようもない現実だ。

 帝国の栄光なんて、初めから信じていない。


 ───けど。目の前で父親が、子供の目の前で死んだ。帝国が殺したんだ。命より帳簿が重い、この国が。


 その瞬間、彼の心のどこかが決壊した。


 ───ああ、やっぱり。この国は、燃やさなきゃダメだ。


「……ありがとう……ございます」


 エリュシアの声は震えていた。

 けれど、その瞳の奥には───確かな意志が灯っていた。


 リューファスは短く頷く。

 赤く沈む夕陽が、帝国の旗よりも紅く見えた。


 ───見ろよ、帝国。お前らの作った秩序の外で……燃え尽きる瞬間まで、オレがきっちり見届けてやる。


 辺境の少年警邏と、逃亡令嬢の物語は───今、始まりを告げたのだった。





_____________________


本日8:10に第2話「封書の中身」を投稿します!

よろしくお願いいたします!

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