第九章
益々仲睦まじく見えるオプシディアンとネロに、カーネリアンの苛立ちは目に見えて増していた。オプシディアンが拾ってきた少年の素性は調べれば調べる程に真っ黒で、ギベオンはそれをまだカーネリアンにすべてを話せないでいた。少年はたしかに滅ぼされた水の民の生き残りであり、族長の息子であり、先王が現国王のための許嫁として申し入れた相手ではあった。けれどマティス率いる義勇軍から離れたあとの足取りを辿れば辿るほど、後ろ暗い事実しか見えてはこない。確信には至らないが、ネロは国王を暗殺するために送り込まれた刺客だと、ギベオンは思っていた。ネロが国王の婚約者だと知る誰かの差し金で、王宮へと送り込まれてきたのだろう。それを偶然オプシディアンが見つけてしまった。オプシディアンがネロのことを探しているのは公然の秘密として目を瞑られていたものの、それは誰もが見つかるはずもないと高を括っていたからだった。
ネロの様子は毎晩、シリカから報告が上がって来ていた。彼女の報告は詳細だったが、ネロと過ごす時間が増えるうち、少々感化されてきているようには感じていた。ネロは少なくとも、オプシディアンが国王ではないと言った言葉を信じている間は、その命に危険を及ぼすことはないだろう、と繰り返すようになったのだ。その言葉の裏には、ネロも憎からずオプシディアンを想っているらしい、という意図が滲んでいた。もう少し見守って欲しい、と思わせるなにかが、あのふたりの間にはあるのだろう。
ネロの背後にある組織は、おそらくクリソベリル率いるパンデモニウムだ。かの新興国は虎視眈々とエリモスの地位を狙っていた。数年前に民族たちを次々と滅ぼして領土を拡大し、国を興してから落ち着いていた動向が、ここ最近また活発になっきたようなのだ。その時期はオプシディアンがネロを拾った頃と重なっていた。ネロが国王の首を切ることを期待しつつ、エリモスに奇襲を掛けるつもりなのかもしれない。内側に手の内の者を入り込ませておけば、幾ら魔法の城壁に護られた王宮にも攻め込むことは容易だ。
この前は王都から二日ほど馬で行った場所にある都市がパンデモニウムの奇襲に遭った。その周辺の村々も被害を被っている。元々クリソベリルは奇襲を得意とする蛮族だ。闇夜に乗じてこっそりと忍び寄り、気づいたら手の打ちようがない。今回はカーネリアンが警戒して兵を派遣していたために被害は最小に留められたが、次々と同じようなことが起こればこちらも食い止めきれないだろう。そもそも次にどこが襲われるのか、という情報が全くない。いつ王都に攻め入られてもおかしくはない状況だった。
オプシディアンはその状況を知りながらも、ネロを傍から離そうとはしなかった。なによりも護るべき国王の命を危険に晒している状況は、誰もが快く思ってはいなかった。それにオプシディアンに至っては、ネロになら殺されてもよいと思っているような節がある。国王の座に就いてからずっと、国民の前に姿を現していないからこそ、少々自覚が足りないのかも知れない。優れた能力は折り紙付きでも、王としての責任感はカーネリアンの方が勝っているような気が、ギベオンはずっとしている。カーネリアンにはある程度の権力が与えられてはいるものの、それはあくまでもオプシディアンの代理としての力でしかなかった。もしカーネリアンに彼と同様の権力が与えられていたとしたら、ネロの命はとっくに奪われていたことだろう。
真夜中過ぎの玉座の間はしんと静まり返っていた。大きな扉からは赤い絨毯が真っすぐに伸び、玉座は二段高くなったところに置かれている。太い丸柱には見事な装飾が施され、アーチを描く天井を支えていた。ほとんどの明かりが消された室内は薄暗かったが、オプシディアンがネロを拾ってきた頃から、カーネリアンは時々ひとりここで考え事をするようになった。ギベオンだけは傍にいることを許されていたので、彼が玉座で足を組んで忌々し気にしている様子をじっと隣に控えて見守る。
「陛下がなにを考えてらっしゃるのかわからない」
カーネリアンが苦々しい言葉を発して頭を抱えた。玉座に座ることを許されてはいても、彼はあくまでもオプシディアンの影であり、偽りの存在でしかない。オプシディアンは時々、戯れのようにカーネリアンの方が余程王に向いているだろうと言った。その何気ない一言がカーネリアンを苦しめていることなど、本人は知る由もないのだろう。
オプシディアンが新しい井戸の視察の折に助け出した少女はネロと同じく水の民の生き残りだった。そのあとオプシディアンは国王の名の元、王都で暮らす貴族たちの邸を一斉に捜索することを命じた。奴隷として売り買いされた希少民族たちの保護を目的として掲げ、結果として売買ルートを特定し、囚われていた子供たちを保護することに成功した。幼い子供たちはエトルの孤児院に引き取られ、ある程度働ける年齢の者は王宮で面倒を見ることになった。子供たちはクリソベリルによって蹂躙された地区出身の者が多く、帰るところがなかった。最善の策として働きながら教育を施し、折を見て各々の希望の道へ進めるようにすることになった。少女は特例としてオプシディアンが引き取った。ネロが初めて見つけた同郷の少女を、彼の傍に置いておきたかったのだろう。
「奴隷保護の件も、今やるべきことだったのか?パンデモニウムの脅威がすぐそこまで迫っているというのに」
「エリモスはあの程度の勢力には屈しないとお考えなのでしょう。実際、奇襲能力に長けただけの蛮族です。能力はこちらの方が上ですよ」
ギベオンは弁明したが、心の内はカーネリアンと同意見だった。攫われて売られた希少民族を保護することは、もちろん国として取り組まなければならない事案ではある。けれど今はなによりも国防を固めて、エリモスの栄華を護らなければならない。オプシディアンは聡明であることには変わりない。けれど恋という盲目は、そんな男でさえも狂わせるから厄介なのだ。
「そもそもあの男はそこまでして護る価値のある相手なのか?陛下のお命を狙うために紛れ込んだ刺客だろう?陛下のお命が奪われてしまったら、俺がここにいる意味がない」
「陛下には陛下なりのお考えがあるのでしょう。それにあの者は、カーネリアン殿のお命を狙っているのですよ。陛下ではない」
「陛下が俺への足掛かりになると踏んで傍に留まっていると?」
「その可能性が高いでしょう。シリカからの情報でも、今のところ陛下に危害を加える様子は伺えません。上手いこと丸め込めれば陛下を護る盾になるかもしれませんよ」
「丸め込む、か」
「あの少年は家族の仇を探している。それがエリモスだという情報を何者かに信じ込まされているだけに過ぎません。本当に憎むべき相手がクリソベリルだとわかれば、こちらに寝返るのも時間の問題でしょう」
「陛下の命を奪おうと敵に突っ込んでくるような男が、易々と俺たちの意見を信じると思うか?」
「陛下が引き取ったあの少女、クリソベリルに襲撃された際に攫われたそうです。彼女がネロ殿の近くにいることが有益に働くかもしれません」
「彼女の話なら信じるかもしれない、ということか」
「少なくとも我々の話よりは信憑性があるでしょうね」
「お前の意見を採用しよう。あの少女のこともシリカに監視させるように」
「御意。それと、もう一つ」
「なんだ?」
ギベオンと話して心の内が軽くなったのか、カーネリアンの表情からは険しさが和らいでいた。そしてギベオンからの提案を聴くと、その表情を更に明るくした。
「マティス殿たちを呼び戻しましょう」
◇
その男が目の前に現れたのは、お使いを終えて邸に帰る途中だった。下働きが着るようなシンプルな服を身に付けて薄汚れた顔をした青年は、昔からネロをよく知っているような気さくで、それでいてどこか胡散臭い笑みを貼り付けていた。それがヴェガだとすぐに気づけずにいたのは、今までの彼の風貌とは全く違ったからだ。
ネロは井戸の視察以来、自由に外に出ることを許されていた。外出する際は一言シリカに声を掛けなければいけないものの、それ以外の制限はない。手持無沙汰な時間を使用人たちを手伝うことで潰していたネロは、これ幸いとお使いを頼まれることが増えていた。ただでさえ忙しいのに外出しなければならないとなると、使用人たちはかなりの負担を強いられるのだそうだ。彼らと随分打ち解けていたネロは、それを快く引き受けた。外に出るたびに連絡役の姿を探したが、今のところ接触してくる者はなかった。ここ最近のネロはすっかりオプシディアンに絆されて、このまま平和な日々が続けばいいのにとさえ思い始めていた。
その考えが甘かったことを、ヴェガと鉢合わせて実感した。彼は恭しくネロに頭を下げると、そのまま並んで歩き出した。声を潜めて告げられた情報によれば、彼は先の奴隷解放の折にまんまと王宮内に潜り込むことに潜入したらしい。今は厨房の下働きとして、材料の調達を言い使った帰りなのだと言う。
「報告がないから随分と心配したよ。てっきり王宮内にいるんだと思っていたのに」
「砂嵐に巻き込まれたんだ。今は助けてくれた人の邸に世話になっている」
「そう。それはオプシディアン“国王陛下”のことかな?」
ヴェガが一層声を潜めた。その言葉を聴いた刹那、頭が真っ白になった。彼がなにを言っているのか、聴こえているのに理解ができない。けれどヴェガが王宮に潜り込んで探り当てた情報であるのなら、これほど信憑性があるものはなかった。彼は口先だけで生きているような男だが、重要な情報を探り当てる能力には長けている。
「なにを根拠にそんなことを、」
「おかしいと思わないか?きみが婚約者として顔を合わせた頃の王子は、間違いなくオプシディアンだった。けれどある日突然、現国王のカーネリアンの正当性が叫ばれ始めたんだ。そしてカーネリアンが即位した。僕が思うに、カーネリアンこそ国王陛下の影なのさ。僕たちみたいな不届きものから、本物を護るための、ね」
ヴェガにそう言われると、そうであるようにしか思えない。ネロは彼に家族の仇がエリモスであると吹き込まれた頃のことを思い出していた。彼の語り口で言い包められると、正しくないことでも真実のように聴こえるのだ。彼がそうやって誰かを言い包めるところを、ネロは何度も見て来た。もしかしたら自分もそうだったのかもしれない、と思ったことが何度もある。けれど今回はそんな必要はなにひとつなかった。彼はただネロに、暗殺の標的はずっとすぐ傍にいるじゃないかと、教えてくれているだけなのだ。
「オプシディアンは影なんかじゃない。昼間は王宮内の執務室で政務を行っている。きみが暮らす邸と王宮は秘密の通路で繋がっているんだ。きみは偶然にも親の仇に助けられて、その首に手が掛かるところにいたのさ。きみはそんな男にまんまと騙されて、丸腰で暮らすようになってしまった。気が少し弛み過ぎじゃないのかい?」
ヴェガの言葉に我に返ると、気づかぬうちに人気のない路地裏へと連れ込まれていた。たしかに邸へと向かって歩いていたはずだが、ネロが上の空の内にまんまと道を反れたのだろう。たしかに指摘された通り、ネロは今得物を身に付けてはいなかった。オプシディアンの邸内で危険な目に遭うことがなかったので、些か気が弛んでいたのだろう。否、気を許していたの間違いか。
ヴェガも一見丸腰に見えたが、この男の能力は底知れなかった。非力そうに見えて、威嚇してきた大柄な男を易々と素手で伸してしまったところを見たことがある。ネロも身体能力は長けた方だが、できるだけ穏便に済ませる方が得策だろう。
「きみの王子様を殺めるときだよ、ネロ。カーネリアンが義勇軍を呼び戻した。近々盛大に帰還パーティーが王宮で開かれる。もしきみがそれまでにオプシディアンの首を取れなければ、式典の日に奇襲を掛ける。貴族たちは全員王宮に集まっているし、国ごと叩き潰すには絶好の機会だと思わないか?」
「そんな、」
「きみの一族を壊滅させた憎きエリモスをきみの手で壊すんだ。国王陛下の寵愛を得ているいまのきみなら、そうすることなど簡単だろ?その綺麗な顔と身体で誑し込めばいいじゃないか」
ヴェガがネロの顎のラインを指先でなぞり上げて、口端を笑みに吊り上げた。ネロは逃れるように顔を背けると、そのまま彼を置き去りにして大通りへと戻った。ヴェガが追い掛けて来ないところを見ると、情報伝達はあれで終わりらしい。彼も何事もなかったかのように王宮へと戻って、遅れた理由をつらつらと悪びれもせずにでっち上げるのだろう。
邸への道をふらふらと辿りながら、混乱する頭を整理することができなかった。オプシディアンアが本物の国王だと言われると、たしかに肯ける場面が幾つも浮かぶ。再会した当時の会話だって、よくよく考えてみれば苦し紛れのでっち上げのように思えてきた。それをオプシディアンに事実を突き付けたところで、きっと肯定はしないだろう。エリモス王国の国民であれば誰もが、国王はカーネリアンだと口を揃える。それがもし本当に、オプシディアンを護るための盛大な嘘であったとしても、それが真実であるかどうかは本人にしかわからない。もしオプシディアンを殺めたあとで、カーネリアンが本物だと知れたらどうする。どちらにしろ取り返しのつかない後悔に苛まれて、生きていく気力をなくすだろう。家族を奪った仇のことは今も殺してやりたいと思っている。けれどその矛先がオプシディアンであるとは、どうしても思えなかった。
「ネロっ!」
名を呼ばれて顔を上げると、オプシディアンが心配そうな面持ちで駆け寄って来た。大丈夫だったか、と肩を掴まれて、なんとも言えない気持ちが迫り上がってくる。どれほど時が経っているのか定かではなかったが、ネロが邸を出たのは昼前だったはずだ。彼は普段なら仕事で邸を開けている時間なので、ここにいるはずがない。おそらく誰かがネロが戻らないことをオプシディアンに連絡したのだろう。そしてきっと彼はやきもきしながら、邸の入り口でネロの帰りを待っていてくれたのだ。
「ふらふらしていたら迷っちゃったんだ。心配かけてごめん」
「そうか、きみが無事だったならそれでいいんだ。もう戻って来ないんじゃないかと思うと、気が気ではなかった」
そう、オプシディアンが苦笑った。そのあとに戻って来てくれてよかった、と続けると、その笑みから苦さが抜ける。花が咲くような笑みを目の当たりにして、ネロの頬を涙が伝い落ちた。オプシディアンがぎょっとして、どうかしたのかと狼狽える。その指に優しく眦を拭われて、泣いていることに気づいた。
ヴェガの話が本当であれば、オプシディアンは政務をほっぽり出してここへ来たことになる。ネロが戻らないことを気に揉んで、居ても立っても居られなかったのだろう、とその様子からわかった。一緒に過ごした間ずっと感じていたことだが、ネロは彼にとても大切にされていた。それが今手に取るようにわかって心が震えた。鼓動がときめいてうるさい。彼の傍にいると、心臓の在処がちゃんとわかるのだ。
ネロの手から抱えていた荷物が落ちた。それは針子たちに頼まれた使いの品だったから、あとで怒られるかもしれない。けれど今は腕を伸ばして、オプシディアンに縋り付く方が大事だった。縋るネロをオプシディアンが優しく抱き寄せてくれる。何事かと使用人たちが集まってくる気配がしたが、ネロは彼から離れたいとは思わなかった。オプシディアンも同じ気持ちなのか、その唇がそっとネロの瞼へと落ちる。柔らかな唇に涙を掬い取られると、その擽ったさに笑みが零れた。
「もう何処にも行かないから、」
「ああ、俺の傍にいてくれ」
その言葉に、ネロは心から肯いた。こんなに自分を大切にしてくれる人が、憎き仇であるはずがない。ヴェガに言い包められて塞がれていた目が、ようやく開いたような気がしていた。オプシディアンは絶対に違うと、ネロの本能が告げていた。
義勇軍がカーネリアンによって呼び戻されたという話は、オプシディアンの邸の使用人たちの耳に届いていた。ネロは事前にヴェガから聴いて知っていたものの、オプシディアンからそれを告げられたときも、初めて聴いたようなふりをして話を合わせた。オプシディアンの正体を知った今、ヴェガからの話を思い返せば思い返すほど、おかしな部分ばかり目についた。そもそも、エリモスには民族たちを滅ぼしても得るものがなにもない。ヴェガは民族たちの反乱をエリモスが恐れていたなどと嘯いていたが、冷静に考えれば大国の軍事力を持ってすれば脅威でもなんでもないことくらい、冷静になればよくわかった。すべてが間違っていたとは思いたくなかったが、あのときヴェガに唆されたのが運の尽きだろう。今更悔いても遅いけれど、ネロが持つパンデモニウムの情報をオプシディアンに伝えて、いざというときにその命の盾になれれば許してもらえるだろうか。
そう思ってはいるものの、なかなかネロはオプシディアンに事実を告げる勇気を持てずにいた。ネロの素性の調べくらいは大体ついているだろうけれど、自らオプシディアンを殺すために来た、だなんて口が裂けても言えない。彼に嫌われたくない、という気持ちが後ろめたさを上回っていた。暗躍していた頃に綽名されていた冷酷無慈悲、なんてものは、オプシディアンを前にすると形無しだ。
オプシディアンは相変わらず、昼間は仕事で邸を開けていた。最近は忙しいのか夕食の場にも姿を見せない。朝食を取る間だけがネロが彼と顔を合わせる唯一の時間となっていた。パンデモニウムの動きが俄かに物騒になってくるのに合わせて、政務も増えるのだろう。
「今日も遅くなりそうだから一緒に夕飯は取れそうにない」
「忙しいんだね」
「義勇軍が騎士団に回帰することになったんだ。そのための式典準備に駆り出されることになった」
「そう。マティスたち元気そう?」
「ああ、相変わらずだ。気になるか?」
オプシディアンにそう問われて、ネロは少しだけと苦笑った。自分勝手に消えたネロが彼らのことを気に掛ける資格などないとはわかっていても、健在でいてくれるかどうかは気になっていた。相変わらずであるのなら、それに越したことはない。彼らは王宮に滞在しているというから、そのうち顔を合わせることもあるだろう。ネロには合わせる顔など、持ち合わせてはいないけれど。
「ネロのことを心配していた。ここにいると伝えてあるから、逢いに来るんじゃないか?」
「きっと来ないよ。俺は勝手に消えたんだし」
「きみのことを探していたのは俺だけではないよ。特にアステラは、きみのことを酷く心配していた。きみがどこでなにをしていても、無事に生きていてくれただけで充分だ」
「そういうものかな」
「ああ。それに、嫌でも顔を合わせることになる。きみは俺のパートナーとして式典に参加するんだ」
驚いてその顔を凝視すると、オプシディアンが楽しみだろうと柔らかな笑みを浮かべた。ネロが上手く反応できずにいると、徐々に不安がその表情に滲んでいく。行きたくないか?と問われて、思わず首を振った。彼がネロを正式な婚約者として扱ってくれていることはうれしい。けれどその式典はクリソベリル率いるパンデモニウムの軍に攻め込まれる運命にある。ネロが彼の首を取ることなどできないのだから、それは半ば強制的に決まっているようなものだ。そんな場所にオプシディアンをいさせるわけにはいかない。
それなのに、ネロは情報を告げようと口を開くたびに、声が喉の奥で詰まってしまう。オプシディアンに言えないのなら、誰か信頼の足る、騎士団を動かす力を持つ人物に接触するしかない。つい先程までどの面を下げて、と思っていたけれど、これでネロはもう逃げられなくなった。彼に言えないのなら、マティスやアステラに情報を伝えるしかない。それがいちばん確実で安全な方法だ。
「そう言ってもらえてうれしいよ。でも、大勢がいる場所に出席して大丈夫なのかなって」
「なにを懸念している?」
「前にディルが陛下の影だって教えてくれたことが気になって。正体がバレたらいけないんじゃない?」
「ああ、カーネリアンは出席しない。だからネロが心配することはなにもないよ」
それはオプシディアンが国王として臨むからだろうか、とは口が裂けても訊くことはできなかった。彼にそう言われると、それ以上は食い下がれない。彼がカーネリアンを名前で呼んだことも、なんだか少し引っ掛かった。まるでもう、ネロに自分が国王であることを隠す必要がなくなったとでも言うようだ。自分に後ろ暗いところがあるから、疑心暗鬼になっているだけだろうか。エリモス側はパンデモニウムの動きに気づいていて、式典自体がおびき寄せる罠だとしたらどうだろう。国王に襲い掛かろうとしたネロをその場で捉える計画なのだとしたら、
「ネロ、顔色が悪いな。どこか具合でも悪いのか?」
オプシディアンの手がネロの頬に伸びた。そっと触れられると、その指が慈しむように撫でてくるのが擽ったい。たったそれだけなのに、心が震えて泣きそうになった。ネロの仮説が当たっていたとしても、彼がそれに加担するはずがない、と思いたかった。これがすべて演技だったら、きっと心が壊れてしまうだろう。
「大丈夫。いきなり式典に出席しろって言われたから、緊張してきちゃったのかな」
「そうか。針子たちに式典の衣装を誂えるように頼んであるんだ。気分転換に彼女たちとお喋りするのはどうだろう?」
「楽しそうだね。あとで顔を出すよ」
「そうするといい」
オプシディアンが安堵するように笑んで席を立った。ネロに行ってくると挨拶をしてから、侍従が開けた扉を潜って出て行く。その背を見送りながら、これからの行動を頭の中で組み立てた。まずはどうにかして、マティスたちと接触を図りたい。オプシディアンは玄関から出て行く気配がないから、おそらくはこの邸のどこからか、王宮へ続く秘密の通路があるのだろう。けれどそれを使って王宮内へ忍び込むのは得策ではない。万が一見つかりでもしたら、ネロへの疑惑が高まるばかりだ。
いつ式典が行われるのかは、針子たちが教えてくれた。朝食を終えて部屋に現れたネロを捕まえると、オプシディアンの伴侶として式典に出席するのだろうと、意気揚々と口々に捲し立てられる。その様子に圧倒されていると、部屋の隅にジルがいることに気づいた。彼女は体調が回復したあと、ここで針子たちの仕事を手伝っていた。集落にいた頃も手先が器用で、よく女たちと一緒に男たちの服を誂えていたことを思い出す。特に細やかな刺繍が得意で、少女たちに強請られては華やかな模様や想い人の名前を服に縫い付けてやっていた。
「さてさて、時間がありませんから早速作業に取り掛からなくては。ディル様のお隣に立つのですもの、飛び切りの衣装でないと」
針子のひとりがそう言って、ネロに布を宛がった。式典に出席する衣装のデザインはおおよそ決まっているというが、どう華美に着飾るかがそれぞれの家の針子の腕の見せ所らしい。オプシディアンが着る衣装もネロと揃いで誂えるのだという。こんなデザインはどうでしょう、ともうひとりがデザインを描き溜めた帳面を開いた。そこには何着もの煌びやかな衣装が、色とりどりに描かれている。そこに描かれているすべてが、式典に出席する際の衣装案なのだと言われた。どれもこれも、華やかな女性が着たら似合いのデザインばかりだ。彼女たちはネロをオプシディアンに似合う“女性”に仕立て上げようとでもしているのだろうか。
「俺は女性ではないけど、大丈夫かな」
「大丈夫とは?」
「その、幾ら婚約者とは言え男だし、その、変な風に見られたりしないかなって」
「大丈夫ですわ。ネロ様にお似合いの衣装をわたくしたちが腕によりをかけて仕立てますもの。これはたまたま女性用に見えるだけですわ。あらぬ誤解を与えてしまったようね」
「これはあくまでもデザイン案に過ぎません。これを参考にその人に合わせて仕立てるのです。視線が気になるのでしたら、ヴェールを合わせるのはいかがかしら。まるで西国のドレスみたいで素敵じゃない?」
「あら、ネロ様はお顔が見えた方がいいわよ。こんなにお美しいんですもの。ディル様も見せびらかしたいに決まっているわ」
口々にネロを擁護してくれる彼女たちを見て、つい笑みを零してしまった。そんなネロの様子に顔を見合わせた彼女たちが、柔らかな声で自信をお持ちくださいと言ってくれる。
「式典の衣装の発注はディル様自らお出でになられたのですよ。ネロ様にお似合いの衣装を誂えるようにとおっしゃって」
「あんなにうれしそうなディル様は初めて見ましたわ。ネロ様をお披露目できるのを楽しみにしてらっしゃいますよ。変な虫が付く心配もしなくて済むようになりますしね」
「変な虫、って?」
「ネロ様はお美しいから、邪な目で見ている輩も大勢いるのですよ。特にほら、ディル様と井戸の視察に出られたことがあったでしょう?あのあと、街中でネロ様の美貌が噂になっておりましたもの」
「そうなの?」
「ええ。あの方はディル様のご婚約者の方だと、役人が触れ回ったと言う話ですもの。ネロ様がわたしたちのお使いに出て戻って来なかったときの、気の揉みようと言ったら」
「それを言ってはダメよ。ディル様はネロ様のこと本当に大切に想ってらっしゃるのだもの」
そこまで言われると、オプシディアンの気持ちは疑う余地もなさそうだった。彼に想われる資格などないとわかってはいるからこそ、胸の奥が痛んだ。過去に犯した過ちを抱えたまま、何事もない顔をしてここいる自分が後ろめたい。
ふと視線を感じて顔を上げると、ジルが刺繍の手を止めてこちらを微笑まし気に眺めていた。彼女とはあの日以降初めて顔を合わせるが、あのときと比べると大分健康そうに見える。針子たちから解放されると、ネロは彼女の作業台に近付いて行った。ジルは隣に座ったネロを見て、懐かしそうにその双眸を細める。かつてはもう少し色濃かったはずの片目は、今や辛うじて青く見える程度だ。
「ここでの生活にはもう慣れた?」
「ええ、とてもよくしてもらっている。ありがとう、ネロ。助けてくれたお礼を言い忘れていたわよね」
「俺はなにもしてないよ。全部ディルのお陰」
「ディル様にもお礼を言わないとね。彼、あなたの婚約者なんでしょう?いつからなの?」
数年ぶりの彼女は相変わらず、ネロのことを知りたがった。少し気が強くて、いつもネロのことを心配していたことを思い出したら、鼻の奥がツンとする。もしあの日あんなことがなかったら、今もネロは他の民たちと共に彼女と毎日を過ごしていただろうか。繰り返される同じ毎日を少し退屈に感じていたあの頃は、それが幸福であることに気づかなかった。
「先代の王様がそう決めたんだよ。だから義勇軍に助け出されたときに、婚約者だって引き合わされた。それからずっと逢ってなかったんだけど、砂漠を旅しているときに砂嵐に遭って、助けてくれたのが偶々ディルだったんだ」
「すごい、運命みたい!よかったね、ネロ。あなたがここでしあわせに生きていてくれたことが、わたしたちにとってはとんでもない希望よ。族長さまたちも浮かばれるわ」
ジルがそう言って少し泣きそうになってくれたことが、ネロの後ろめたさを突いた。誤魔化すように苦笑うと、胸が更に苦しくなった。オプシディアンや邸の皆だけではなく、彼女まで欺いていることがネロを苛んだ。その罪はオプシディアンを護り抜いたあとで初めて、消えるのだと思う。文字通り命を懸けて護り抜いたあとで、だ。
「ジル、きみはあの日水脈を探ろうとしていただろ?いつからわからなくなった?」
そう話をそらすとジルが狼狽えた。それから手にしていた布と針をテーブルに置くと、膝に戻した両手をぎゅっと握り締めた。それが微かに震えている。
「わからなくなったんじゃない。わたしは能力が発現しなかったの。それであいつに、わたしを買ったあのくそみたいな貴族のことよ。無駄金を払わされたって随分と酷い仕打ちをされたわ。あの日は王宮側にいいところを見せようとして、わたしを無理矢理能力者に仕立てようとしたの」
「でも、能力者の印は現れているのに、」
「どうしてなのかは、もうわからないわよね。長老様が生きていたら教えてくれたかもしれないけど、ネロに比べたら大分薄い色だし、見間違えたのかもしれないわ。なんとなくならわかるかもしれない、ってがんばったけど、全然だめね。あの日はネロがいてくれて助かったわ。それに今は晴れて自由の身にしてもらったしね」
「他の仲間のことは、」
「わからないわ。あの日、わたしたちの村を滅ぼしたあいつらは、能力を持つ者だけを生かして連れて行ったの。たくさんの子供たちや若者がいたけど、年長者たちは切り捨てられた。その中にネロがいなかったから心配していたのよ。生きていてくれることを願うしかなかった。わたしたちはどこかの町に連れて行かれて、そこでそれぞれの買い手に引き渡された。他の民族の子供もいたみたいだったけど、暗くてよくわからなかったわ。それっきり、皆とは逢っていない。王都にいた子たちはもしかしたらわたしみたいに助けてもらえたかもしれないけど、買い手が全員エリモスの民ってわけではなさそうだったし」
「つらいことを思い出させてごめん。皆殺されたのだとばかり思っていたから、探そうなんて思わなくて、」
「あなたのせいじゃないわ、ネロ。それにわたしは少なくとも生きているし、皆もどこかで生き延びていることを祈りましょうよ。わたしたちが生きている限り、水の民は絶えないわ。それにネロがいるしね。それ、族長さまの腕環でしょう?」
気を取り直したらしいジルが、ネロの腕環を指し示した。オプシディアンに貰ってから肌身離さず着けているそれは、見れば見る程たしかに父が着けていた腕環にそっくりだった。ジルがそう言うのなら、本当にそうなのかもしれない。
「露店で見つけて、ディルが買ってくれたんだ。似ているなって思っていたんだけど、やっぱりそうなのかな?」
「そうよ、間違いないわ。てっきりあいつらに奪われて、失われてしまったのかと思っていた」
「あのさ、ジル。変なこと訊くんだけど」
「なぁに?」
「あいつらの正体って知ってる?俺、ずっと仇を討ちたいと思っていて」
もしかしたらジルは本当の敵の正体を見ているのかもしれない、と思った。名前がわからなくとも、その風貌で王国軍なのかそうでないのかくらいの見極めはつくだろう。ネロの言葉にジルは面食らったように口を噤んだが、しばらく考えたのちに慎重に言葉を選ぶようにして口を開いた。
「よくは見えなかったけど、クリソベリルって名前は何度も聴いたわ。なんだかよく聞き取れない言葉が多かったから、もしかしたら別の地域の言葉だったのかもしれない」
「それが王国軍だった、ということはない?」
少し離れたところで談笑しながら仕事を進める針子たちに聴こえないように声を落とすと、ジルがネロの言葉を一蹴した。絶対にないわ、と言われると、安堵の息が漏れる。
「あんな粗野な装備の男たちが王国軍だなんて絶対にない。それに風貌もエリモスの民とは少し違ったわ。わたしも裏で手を引いていたのがエリモスだって噂を聴いたことはあるけど、あんな粗悪な奴らと王国が手を組む必要性はないと思う。わたしたちを滅ぼす利点もないしね。それに、わざわざ滅ぼす民の跡継ぎをディル様の婚約者にはしないんじゃない?」
「たしかに」
ジルの言葉は確実な信憑性を持ってネロの心に響いた。彼女は仇討ちなんてしなくていいと思う、と静かに笑って、刺繍の続きを再開させた。
「ネロの気持ちもわかるよ。わたしも最初はあいつらが憎くて仕方がなかったから。でも、死んでしまった人たちは戻らないし、クリソベリルを殺したところで胸の内は晴れないと思うの。そのあとも生きて行かなきゃいけないでしょ?だったらネロは全部忘れて、ディル様としあわせになった方がいいと思う。そうしてくれた方が、皆浮かばれるわ」
「でも、」
もうすべてが遅いのだと言うことは口にできなかった。ネロはエリモスを滅ぼさんとするクリソベリルの片棒を担いでいたし、オプシディアンに触れてもらえるような清廉潔白な身ではない。けれどそれをわざわざジルに告げる必要性はないだろう。どうせ一週間後に控えた式典のあと、すべてが終わって新たに始まるのだ。そしてそこで、ネロがオプシディアンの隣にいることは、きっとない。
「これね、ディル様の衣装に刺繍しているの。教えてあげるから、ネロもやってみない?」
「俺が?」
「そう。きっとディル様もお喜びになるわ」
そう言われると満更でもなくて、ネロは言われるがままジルに刺繍の仕方を教わることにした。練習用の布と針と糸を貸りると、彼女が言うとおりに布に針を刺していく。最初は簡単な模様からの練習だったのに、ネロのそれはなかなか上手くいかなかった。ちまちまとした細かい作業に慣れるまで苦労したし、ひと針間違えるとすぐに模様がガタついてしまう。これを毎日やっているのだ、と思うと、作ってもらった衣装の有難味が違ってきた。たしかにこんな苦労をしたと知れば、贈られた方もうれしいだろう。
いつの間にか夢中になっていたネロは、シリカの声で我に返った。いつの間にか部屋に入って来ていた彼女は、来客だと言ってネロを応接間へと連れだした。ネロは布をジルに返すと、またあとで来ると約束してシリカについて行った。向かう間中シリカは口を噤んで相手を明かそうとはしなかったが、ネロに逢いに来る客などたかが知れている。そして部屋の中で静かに佇むアステラを見たとき、酷い安堵感を憶えた。
シリカはふたりを引き合わせると、頭を下げて部屋を出て行った。アステラはあの頃となんら変わらなかったが、その表情は少し硬くなったように思える。ネロが勝手に行方を晦ましたことを考えれば当然だろう。どこでなにをしていたか定かではないうえ、オプシディアンの傍に婚約者という肩書で当たり前のように過ごしているのだ。カーネリアンが彼らを呼び戻したのだって、パンデモニウムの脅威に加えて、ネロを牽制するためだとわかっていた。だからアステラはネロに逢いに来た、というよりは、オプシディアンに危害を加えていないか探りに来た、と言った方が正しいかもしれない。
どう切り出そうか、と思案するネロに、アステラが怺え切れなくなったように笑みを零した。大丈夫だよ、とあの頃と同じ柔らかな声で言われると、張り詰めていた気持ちが解けるのがわかる。近づいてきた彼が、おかえりと言ってそっと抱き締めてくれた。その優しいぬくもりに、つい縋り付いて泣きたくなった。
「ネロ、元気そうでよかった」
「アステラも。心配掛けてごめんなさいっ、」
そう謝る声が涙に滲んだ。アステラは震えるネロの背を優しく撫でて、大丈夫だと何度も繰り返した。その掌の優しさはあの頃となにも変わりなく、どうしてこの人たちを裏切ってしまったのだという後悔がどっと押し寄せてくる。それに潰されそうになっても、ネロは立ち続けなくてはならなかった。自分が犯した罪は自分で贖わなければならない。
一頻り泣いてしまうと、アステラに抱かれているのが急に照れ臭くなってきた。おずおずと離れるとまた可笑しそうに彼が笑って、座って話をしようかとネロを促した。向かい合ってソファに腰を鎮めると、不意に空気が張り詰めるのがわかる。アステラは相変わらず穏やかな様子だったが、どこか居住まいを正しているように思えた。
「シリカさんに頼んで人払いをしてもらったから、ここではなにを話しても大丈夫だ。ネロ、きみはパンデモニウムにいたんじゃないのか?」
アステラがどこまで真実に辿り着いているのかは定かではなかったが、そう問う確信は得ているようだった。ネロが静かに肯くと、そうか、と俄かに表情を硬くする。弁明しなければ、と口を開いたが、オプシディアンを前にしたときと同じように、言葉が喉に貼り付いて出てこなかった。考えてみれば、弁明する言葉など持ち合わせていないのだ。
「きみがいなくなる前日に、酒場で話していた男のことをマティスが憶えていてね。そいつの素性を辿ったら辿り着いたのがパンデモニウムだったんだ。調べたらあの男は色々なところで、エリモスが民族を滅ぼす手引きをしていると吹聴して周り、人々の心に疑惑の種を撒いていた。きみの心の隙にもあいつの言葉が入り込んでしまったんだろう。あれは人の心を操る術を持っている。そういう人間がいると噂には聴いていたけれど、本当にいるとは思わなかった。僕たち魔法使いの間では、そういう輩を“災厄”と呼んでいる」
「さいやく、」
「そう。人の心を操るのは魔法の中でも禁忌とされている。いつから現れたのかはわからないけれど、気づいたらそういう輩がいるらしい、ということになっていた。その現象を呼ぶのか、その人間を呼ぶのかわからない。“災厄”は実体を持たず、人の心の隙間に巣食う闇のことを言うのだ、と言う者もいる。とにかく、とんでもない男だということがわかった。パンデモニウムには入れる人間が限られている。おそらくはその男が結界でも張っているんだろう。とんでもない魔力を持ち合わせていると思う。人ひとりを操るのなんて朝飯前だ」
「俺が操られていた、って言いたいの?」
「操られている本人は気づかないんだ。自分がそう思い、そう行動したと思っている。まぁ、これは僕がそう思いたいだけなのかもしれない」
アステラはそう言って苦笑った。本当にそうだとするのなら、ネロの呪縛はとっくに解けていた。今となってはどうして、ヴェガの言葉をあそこまで信じていられたのか不思議なくらいだ。アステラが言うように心の隙に入り込まれていたとすれば、些細なことを疑問に思えなかったことも肯ける。だからと言って、やってきたことは消えはしない。
「パンデモニウムで、クリソベリルのために色々と後ろ暗いことに手を染めていた。アステラが言う“災厄”はヴェガという男だ。奴隷解放に乗じて、まんまと王宮内に忍び込んでいるみたいだ。この前街に出たときに、ディルが国王だから殺せって言われた」
「そう」
「アステラ、もし俺がヴェガに操られていたとしても、やってきたことは消えない。ここへはクリソベリルに言われて、国王の命を奪うために来た。俺が国王の婚約者だから、その立場を利用すれば簡単に殺せるだろうと言われたんだ。俺はヴェガの口車に乗せられて、俺の家族を殺したのはエリモスだと思っていた。少し考えればその理屈がおかしいことはわかったのに、あのときは考えることができなかった。マティスたちといても仇に近付くことができずに、焦っていたのかもしれない」
「それを僕に明かしたということは、もうその気がないということなんだろ?」
柔らかな、それでいて断定するような声音にしっかりと肯いた。アステラが安堵するように笑むと、随分と仲睦まじい話を聴いたよ、と擽ったそうに言った。
「カーネリアン殿は随分と気に揉んでいたようだけれど、陛下はきみを手放すつもりはないようだった。きみがもし本当に自分の命を狙っていたとしても、きみになら殺されてもいいと思っているのだと思う」
「ディルにはまだ言えずにいるんだ。言ってしまったら嫌われるんじゃないかって怖い。だからせめて、ディルのことは身を挺してでも護ろうと思っている。それでようやく、許してもらえるのかもしれないなって」
「きみの覚悟は立派だけど、それでは陛下が哀しむよ。きみは生きて、陛下としあわせにならないといけない。そのために俺たちは戻って来たんだから」
「俺のことは護らなくていい。だからディルのことだけは絶対に護ってほしい。アステラ、クリソベリルは式典の日に乗じて王宮を攻めるつもりだ。それまでに俺がディルを殺さなければそうするって、ヴェガが言っていた。貴族たちも大勢王宮に集まるし、そこを襲撃するのが手っ取り早いって」
「わかった。すぐにマティスやカーネリアン殿に伝える。ネロ、その日陛下は国王として式典に出席するつもりだ。きみを婚約者だとお披露目する手はずになっている。そのことは聴いている?」
「今朝そう言われた。でもそんな危険な場所にディルを出席させるわけにはいかないと思う。クリソベリルはエリモスを乗っ取るつもり、というより国王の命が欲しいように思えた。国はそのついでって感じで」
「王の首を取れば国が乗っとれると勘違いしているのかもしれないけど、そもそもが“災厄”に操られている可能性も否めない。クリソベリルはそこまで頭が回るような男ではないと思う。やはり式典にはカーネリアン殿に出てもらおう。陛下は固辞するだろうから、直前まで黙っていた方がいいと思う。ネロをそんな危険な場所には行かせないだろうからね。マティスとも相談して、詳細はシリカさんを通して連絡するよ。くれぐれも陛下には悟られないようにね」
「うん。マティスは俺のこと許してくれるかな?」
恐る恐るそう言ったネロに面食らったアステラが、すぐにその顔を笑みに崩した。
「大丈夫。マティスはきみを奪われたことを悔やんではいても、怒ってはいないよ。実は騎士団長に復帰することになってね、色々と忙しくしていて今日はここへ来られなかったんだけど、ネロに逢いたがっていた。まぁ、陛下にマティスはネロをいじめそうだからって、引き留められたのもあるんだけど」
「ディルがそんなことを?」
「単純に、他の男ときみが仲良くしているのが気に入らないのかもしれないけどね。ネロ、くれぐれも自分の命を大切にね。僕は傷は治せても、命を繋ぎ止めることはできないんだ」
「わかった」
アステラはネロが肯いたことに安堵したようだったが、ネロのいざというときにはオプシディアンのために身を挺そうという気持ちは変わらなかった。
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