第十章

 ネロはそれから毎日お針子たちの部屋へと通い、ジルに教わりながらせっせとオプシディアンの衣装を仕上げた。拙い手つきでは彼女たちの倍以上時間が掛かるのですべてを担うことはできなかったが、式典の前日になってようやく、一応の合格を貰えるくらいには綺麗に仕上げることができた。ネロの衣装はお針子たちが腕によりを掛けて仕上げ、その出来は御伽噺の中のお姫様にも勝るとも劣らないように見えた。本番でオプシディアンと並ぶことはないとわかっているとはいえ、揃いの衣装を着られるというのはなんだか誇らしかった。最初で最後かもしれない、とわかっているだけに一入だ。

 アステラは何度か、シリカを通して手紙を寄越した。カーネリアン側と相談した結果、やはりオプシディアンの式典への出席は見合わせることにしたという。式典は予定通り貴族たちを招いて行われ、カーネリアンが国王として出席する。ネロはその婚約者としてカーネリアンの隣にいる予定だ。ネロからの情報をもとに万全の警備を整え、軍も王宮の周りに潜ませておく計画となっていたが、襲撃を得意とするクリソベリルがいつ襲ってくるかはわからない。万全を期すために王都に暮らす人々には事前に避難を呼び掛ける予定だと言う。式典の日は街もお祭り騒ぎになるだろうと予想されていただけに、国民たちはさぞ落胆することだろう。それでも、背に腹は代えられまい。

 式典は夕方頃に始まる予定だったので、当日は朝から邸内もバタバタと忙しなかった。ネロはオプシディアンと共に衣装を試着し、並んだときのデザインに不都合がないかのチェックを受けていた。オプシディアンはなにも知らず、自らが国王として式典に出席するつもりでいる。隣でお針子たちと談笑する横顔を見ていると、いつにも増して麗しかった。この人に大切に想われている自分は、なんと誇らしいのだろうとさえ思う。この気持ちをずっと忘れたくないな、と思った。もし明日もこの命が続いていたら、一生忘れないようにしよう。

「本当に素敵ですわ。皆様の注目の的でしょう」

 お針子たちがふたりを並べて、うっとりとした様子でそう褒めた。ジルも少し離れたところで、嬉しそうな笑みを浮かべている。オプシディアンが美しい顔に笑みを咲かせて、お針子たちの素晴らしい仕事を褒めそやした。彼の衣装は国王に似つかわしい、素晴らしいものに仕上がっている。お針子のひとりがオプシディアンの上着の刺繍はネロが施したのだと伝えると、彼が驚いたようにネロを見て、その頬を笑みに崩した。

「そうなのか?ネロ」

「ジルに手伝わないかって言われて、折角だから手伝わせてもらったんだ。初めてだったから、ちょっと不格好なんだけど」

「そんなことはない。一生の宝物にしたいくらいだ」

「それは大袈裟だよ」

 ネロがそう苦笑うと、オプシディアンが擽ったそうな笑みを零した。そんなふたりを微笑まし気に見守っていたお針子たちは、いつの間にか察したようにそっと席を外していた。ふたりきりであることに気づくと、オプシディアンがそっとネロの手を取った。慈しむように手の甲を撫でられると、心の内側に触れられたようで、じんわりとした熱が頬に滲んだ。

「ネロ、すごく似合っている。よく見せてくれ」

「そう?ディルの隣で見劣りしないかな?」

「しないさ。きみは自分を甘く見過ぎているな。きみの前ではどんな美しいと謳われる姫君さえ霞む」

「ディルは俺のことよく見過ぎてるよ」

 オプシディアンはそんなことはないとむっとして見せたが、ネロはそんな風に想ってもらえる人間ではないことを、よくわかっていた。自分の容姿が人より優れていることはわかっているし、それが生きていくうえでどんな風に有利に働くのかもわかっている。オプシディアンがネロの容姿を買ってくれているのなら、その気持ちを利用して誑かすことだってできただろう。けれど彼はどこまでも誠実で、真摯にネロのことを考えてくれている。粗末に扱いたくない、と言われた日のことは、今も昨日のことのように憶えていた。だからネロも、彼の気持ちを大切にしたかった。したかったけれど、そうすることはきっと許されないだろう。

 オプシディアンと顔を合わせるのは、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。彼のことはノクトが上手く取り計らって、式典に出られないよう足止めしてくれることになっている。ノクトにはすべてを打ち明けて、オプシディアンがごねたときにはネロの正体を明かすように伝えてあった。そのときに彼がなにを想うのか、ネロが知ることはないだろう。上手いこと生き延びられたとしても、なにも知らないふりをして彼の隣に戻ることなどできるはずもない。

 ネロがどこにいても味方でいる、と言ってくれた彼を、騙すように置いてけぼりにすることがつらかった。いとおしいと想っている気持ちを告げられないことが惜しい。心に抱えているいとおしさを彼に教えてあげられたら、どんな反応を寄越すだろう。触れられている掌から、流れ込んで伝わればいいのにと願った。それが叶わないのなら、触れられている部分から溶け出してしまえばいいのに。

「きみに初めて服を贈った日のことを憶えているか?」

「うん。大切に想ってくれているってわかって、うれしかったよ」

「あの日きみに触れられなかったことを、ずっと後悔していた」

「え?」

「俺はもう、きみがなに者であれ誰にも渡したくはないんだ。だから、俺は逃げるのをやめることにした。俺のものになってくれ、ネロ。きみのことがすきなんだ」

 そう告げるオプシディアンの柔らかな声音は、甘美な響きを孕んでいた。目を見張るネロの前で彼が膝をついて、ネロの手の甲へとくちづけを落とす。胸の奥が握り潰されるような、いとおしさを憶えた。怺えきれなくなった気持ちが溢れ出る代わりに、涙がネロの頬を伝う。きっと彼は、ネロの正体を知ってもすべて受け入れてくれるだろう。もしかしたらもう、すべてを知っていて受け入れたあとなのかもしれない。それでも、ネロはもう後戻りすることはできなかった。

「ネロは泣き虫だな」

 少し困ったように笑う、オプシディアンがいとおしかった。立ち上がった彼にそっと手を引かれてその腕の中へと納まると、その唇がネロの眦へと落ちる。あやすように鼻頭を啄まれると、つい小さな笑みが零れた。オプシディアンに頬を優しく撫でられて、彼の顔が近づいてくる。今ならまだ、とわかってはいても、ネロは避けることができなかった。最初で最後かもしれないからこそ、一度くらいは許されるだろう。唇を重ねた隙間からいとおしさが溢れ出るようだった。胸にじんわりとした温かさが滲んで、幸福感に包まれる。今この瞬間のネロは、世界一しあわせに違いない。

 この瞬間が永遠に続けばいいのに、と願うほど、唇が離れたあとの寂しさといったらなかった。名残惜しそうに抱き寄せられると、益々離れがたくなった。この胸に秘めた気持ちを、告げなくていいものかと迷った。もし告げなかったとしたら、きっと後悔するだろう。けれど告げてしまったら、きっとネロはひとりで逝けなくなる。固い決意が揺らいでしまう。

「ネロ、答えは今すぐでなくていい。あとでゆっくり聴かせてくれ」

「きっと、ディルが想ってる通りだよ?」

「そうだといいな」

 本当にそうだったらいいのに、と願いながら、オプシディアンと離れた。そのタイミングを見計らったように扉をノックする音が聞こえて、シリカが時間だとオプシディアンに告げた。彼が今行く、と返事をして、もう一度ネロを抱き寄せた。またあとで、と額にくちづけを落とされて、ネロは泣き出したくなる気持ちをぐっと怺える羽目になった。



 定刻通りに始まった式典が滞りなく執り行われているらしい、ということを、オプシディアンは微かに聴こえる音楽やざわめきから感じ取るしかなかった。ネロと共に衣装合わせを終えたあと、最終確認のために執務室へと戻ったら、それきり外に出してもらえなくなったからだ。扉の外には護衛の騎士とノクトが見張りに立っている上、窓や扉はけして明かないように魔法が掛けられているようだ。予定通りならば今頃、オプシディアンは式典に国王として出席し、ネロを婚約者として紹介している手筈だった。それなのにオプシディアンは今、廊下へと続く扉を背に床へ座り込んでいた。結局護られることしかできない不甲斐なさに、打ちひしがれている最中だ。

 なんとかしてこの部屋から出ようとあらゆる手は尽くした。結果的になんとしてでも彼をこの部屋からは出さない、という強い意志を目の当たりにしただけだった。声を荒げたオプシディアンに、ノクトが事の次第をすべて説明してくれた。よくもまぁ、国王に知られずにここまでの計画を立てたものだと思った。ネロはオプシディアンが式典出席できないことを知りながら、揃いの衣装の刺繍を手掛けてくれたのだ。少しばかり不格好な、その模様を指でなぞる。彼は一体どんな気持ちで、これをひと針ひと針縫いあげたのだろう。それを想うと、胸が張り裂けそうになった。

 今日これから、クリソベリル率いるパンデモニウム軍がエリモスに攻め入ってくるらしい。それは相手方のスパイがネロに伝えた情報なのだという。その男はネロにカーネリアンではなくオプシディアンが国王であることを伝え、その命を奪うように指示した。その情報をアステラに開示したことでネロは自分が刺客だと明かしたわけだが、そこまでしてオプシディアンを護る計画を立てるように進言してくれたことが、不謹慎であるとわかっていながら純粋にうれしかった。ネロの立場は危うく、国王の命を狙っていたとなればすぐにでも牢へ入れられる危険だってあったはずだ。それでも彼がそうなっていないのは、自分の身を挺してもオプシディアンを護ると誓ったからに過ぎない。自らの身の安全を護ったというよりは、本気でオプシディアンを護るつもりなのだろう。もしくは、今共にいるはずのカーネリアンを。

(だから泣いたのか?ネロ、)

 ネロが向けてくれる気持ちは、オプシディアンが胸に秘めた彼への想いと同じであると、信じていたかった。共に過ごす日々の中で彼を喜ばそうと心を砕いて、甘やかし過ぎだとノクトに小言を言われたこともあった。ネロが外に出て戻るのが遅かったときは、もう二度と戻って来ないのではないかと恐ろしくなった。もし彼がオプシディアンの命を奪うために好意を持っているふりをしていたのだとしても、失ってしまう方が余程つらいのだと身に染みた。だからオプシディアンは逃げるのを止めて、国王だと明かすことに決めたのだ。それでネロに殺されたとしても、彼を失うよりはいいと思った。そうしないでいてくれたらいい、と願っていた気持ちは、結果的には成就したけれど、

「きみがいないと、意味がないじゃないか」

 天井を仰いでそうぼやいた。ネロは二度と、オプシディアンに逢うつもりはなかったのだろう。告白の答えも返すことができないとわかっていたから、くちづけを受け入れてくれたのだ。「きっとディルが思っている通り」の答えは、永遠に返っては来ない。そう考えると、胸が詰まって上手く息ができなかった。ネロと初めて出逢ったとき、王子の婚約者という立場は色々と有利になる、だなんて食い下がらなければよかった。その立場を持っていたから彼はクリソベリルに目をつけられて、ここへと送り込まれてきた。けれどあのときのオプシディアンは、まだ少女だと信じていたネロを、手放してしまうのが惜しかった。今思えば、ひと目惚れだったのだとわかる。こんなにもいとおしくなるとわかっていたら、あのときマティスたちと共に行かせはしなかっただろう。

 王宮の警備は万全に整えられ、王都の住民たちも避難を終えていた。式典に招待されている貴族たちも皆、王宮に使える騎士団の家系ばかりに限定してあった。不自然に見えぬよう子女たちも招待されていたが、王門が破られた時点で素早く避難できるよう、誘導路も確保されている。王門にはアステラとエトルが防護魔法を掛け、広間の扉も簡単には破られないよう魔法で護られていた。けれどあちら側には“災厄”という名の、とんでもない魔力を持った男がいるらしいので、それもどこまで持つかどうか、という話らしい。

 このまま何事もなく今日が終わってくれ、と願った刹那、外の空気が変わった。楽しそうな気配が消え、ざわめきと戦慄が伝わってくる。オプシディアンは立ち上がると、壁に立てかけてあった剣を手に取った。剣術は騎士団長であるマティスの父から教わって、数々の精鋭を打ち負かしたこともある。実践に出たことはないが、最早ここでじっとしているわけにはいかなかった。

「ノクト、来たのか?」

「どうやらそのようです。ですがここは万全に護られておりますから、ご安心ください」

「そうか。それならこの扉を開けて、避難してきた人たちを入れてやってくれ。俺はこの国を護りに行く」

「なにをおっしゃいますか!陛下を護るためにネロ様やカーネリアン様たちがどれほど心を砕いたか、」

「それはわかっている。けれど、国王だけが生きていても国は存続できない。それに、俺はネロを失うわけにはいかないんだ」

「国王が死んでも国は存続できません」

「俺の代わりは他にもいる。例えばノクト、お前は王家の傍系出身だろう。カーネリアンも私生児扱いされているが、王女の息子であることには間違いない。優秀な誰かが継いでくれれば国は存続する。だが、あの子の代わりはいないんだ。俺はネロを失うことがなによりも怖い。ここを開けろ、ノクト。これは命令だ」

 オプシディアンは声音に絶対的な響きを込めた。今は亡き父王も、臣下に命を下す際に使っていた声音だ。凛として気高く、逆らってはいけないという気持ちにさせる最終手段だ。扉の向こうからはどうするか逡巡するような気配が伝わって来た。オプシディアンはじっと黙って、ノクトが判断するのを待った。こうしている間にも、ネロやカーネリアンに危機が迫っていると考えると気が気ではなかった。遠くから聞こえる喧騒は先ほどよりも大きくなり、物騒な気配が増したように感じる。落ち着かなければと思うほど、気持ちばかりが急いた。この状況でオプシディアンが戦いの中心へと身を投じるのは賢明ではないとわかってはいた。前線で戦っているだろう彼らは、オプシディアンとエリモスを護るために剣を振るっているのだ。仮にオプシディアンが命を落としたら、彼らの努力や犠牲はすべて水の泡になる。それでも、男にはやらなければならない時が来るのだ。いとおしい、たったひとりを護るために。

 かちゃりと音がして扉の鍵が外れた。扉を開くとノクトの苦々しい表情が見えた。周りの騎士たちは居住まいを正し、オプシディアンへの敬意を示している。部屋を出ると、廊下は驚くほど静かに感じた。元々彼の執務室が、王宮内でも特に奥まった場所に作られているせいかもしれない。

「陛下、わたしは王位を継ぐつもりはありません。だから、必ず戻って来てください。ネロ様と一緒に」

「ああ、約束する。ノクトは避難してくる人たちをここへ誘導してくれ。他の者は俺についてこい」

 騎士たちが威勢のいい返事をした。彼らと共に大広間の方へと向かうと、誘導されて逃げてくる者たちの姿が徐々に増えてきた。そこでノクトとは別れて、オプシディアンは騎士たちと共にその流れに逆らうように進んだ。広間へと近づくにつれ、怒号や喧騒がより一層強くなってくる。途中誘導していた騎士がオプシディアンに気づいて咎めるような声を上げた。その声を振り切るように広間の扉を開け放つと、既に大勢の敵兵が床に打倒されたあとだった。

「ここは護り抜きました。招待客に怪我をした者はおりません。今からそこの扉に結界を張って、これ以上は中に踏み込まれないようにするつもりです」

 近づいてきたギベオンが膝をついて、そう報告した。オプシディアンを見たときには驚いた表情を浮かべていたが、すぐに何事もなかったように振舞うところに、よく鍛え抜かれた忠誠心が窺える。ぐるりと広間を見渡すと、エリモス側の兵たちが床で呻いている敵兵を引っ立てていた。床は血で汚れてはいるものの、それでも死者の数は多くなさそうだ。悲痛なうめき声に交じるように、更にその外からは戦いの喧騒が漂っている。けれどその中に、いくら探してもネロやカーネリアンの姿はなかった。

「ギベオン、把握できているところまででいい。報告してくれ」

「はっ。先刻王門が破壊され、パンデモニウム軍が雪崩れ込んで参りました。マティス殿とアステラ殿率いる騎士団が王宮の外で今も奮闘されております。クリソベリル率いる精鋭隊が王宮へと攻め入り、玉座の間を占領致しました。国王とネロ様が大人しくこちらへ来れば招待客には手を出さない、と声明を出し、おふたりは今玉座の間に向かわれました。しかしそのあとこちらへも軍が攻め入り、現在制圧を完了したところです。我々はこのあと玉座の前へ応戦に向かいます」

「カーネリアンとネロはふたりだけで行ったのか?」

「はい。護衛など付けずに参ればこちらに手出しはしない約束だったのです。守られはしませんでしたが、」

 ギベオンの表情が苦々し気に歪んで、悔しそうに唇を噛んだ。クリソベリルの要求を信じて、もしくはカーネリアンに来るなと言われて従ったことを、強く後悔しているのだろう。玉座の間は広間から回廊を抜けた先にある。玄関ホールからも近いので、警備が手薄になっていたその部屋がいちばん占有しやすかったのだろう。それに、なによりクリソベリルが欲しがる王座が置かれている。そこに座って現国王を跪かせたら、さぞかし気分がいいだろう。

「ギベオン、俺と共に来い。これから玉座の間を奪還する」

「陛下、お言葉ですがおふたりは陛下のお命をお守りするために行動しております。陛下が出て行かれては、カーネリアン殿が影であるとバレてしまいます」

「だからと言って、カーネリアンを見捨てるのか?カーネリアンは俺の代わりに殺されるために影に徹しているわけではない。それに、お前はそれを容認できるのか?」

「それは、」

「ここで言い争っている時間はない。いずれは対処しなければならなかった相手だ。これは国同士の戦いではない。クリソベリルはただの蛮族に過ぎない。エリモスはそれに屈するに値しない。俺はもう、護られてばかりの国王は辞める。意義のあるものは意見を聴こう。だが、意義がなければ全軍俺についてこい!」

 オプシディアンの言葉に異議を唱える者はいなかった。彼の傍に集まった騎士たちが忠誠を誓うように膝をつく。ギベオンは深く首を垂れ、それから他の者にオプシディアンへ従うように指示を出した。彼らが部屋をあとにすると、広間の扉はしっかりと締め切られた。これで外からはちょとやそっとの衝撃では開くまい。

 回廊には戦闘のあとは見受けられなかったが、激しい戦いの音は漏れ聞こえていた。前室に辿り着くと、マティスと数人の騎士たちがパンデモニウムの兵と善戦を繰り広げていた。敵兵は大柄な者が多く鎧などは粗末だったが、腕力でねじ伏せられそうな気迫があった。玉座の間へ続く扉は締め切られており、中で何が行われているのかわからない。オプシディアンが連れて来た騎士たちが応戦すると、戦況は一気に有利になった。彼に気づいたマティスが対峙していた男を切り払うと、床に転がる兵を避けながら近付いてくる。アステラの姿はなかったので、どこかで応戦しているのだろう。マティスはオプシディアンの前に膝をつくと首を垂れた。

「陛下、援軍感謝致します。戦況は我が軍に有利ですが、闇夜の襲撃の為苦戦しております。それでもこれ以上王宮へ攻め入られることはないでしょう」

「クリソベリルの状況は?」

「依然不明です。中にはクリソベリルと数十名の兵がカーネリアン殿とネロを人質に籠城しておる模様です。アステラが申すには、クリソベリルの傍には“災厄”と呼ばれる男がいるとか。人の心を自在に操る能力があるそうです」

「扉は開かないのか」

「はい。強い魔法が掛かっておるようです。アステラでは歯が立たず、エトル様に解除を頼みましたがどうやら人を選ぶ魔法のようです」

「人を選ぶ?」

「選ばれた者が触れれば開く、ということです。おそらくは陛下を誘き寄せる罠かと。ネロの話では、敵側はカーネリアン殿が影だと気づいているようです」

「そうか。俺なら開く、ということだな」

 オプシディアンの言葉にマティスが弾かれたように顔を上げた。それでも止めても仕方がないことがわかるのか、なにも言わない。

 そうしているうちに騎士たちが続々と敵兵を打倒し、立っている者はエリモスの騎士たちだけになった。大柄で力が強いだけで、戦いに慣れたエリモス側の騎士や兵士と比べればその実力の差は一目瞭然だ。戦力を持たない少数民族たちを襲撃するにはそれで充分でも、大国を相手にするには全然足りない。闇夜に乗じて襲撃されたとて、落ち着いて対処すれば負けることはないだろう。オプシディアンが言うようにこれは国同士の戦争ではない。今まで見聞きしてきた国同士の戦争とは全く様子が違っている。普通は王宮内まで攻め込まれた時点で負けだが、クリソベリルの目的はこの国ではないような気がした。あくまでも目的はオプシディアンの首なのだ。

「これから玉座の間へ踏み込む。マティスとギベオン、それと護衛騎士は俺について来るように。その他の者は隠し通路で合図を待て」

 その場にいた全員が力強い返事をして、それぞれの場所へと散っていった。残された敵兵は床に伸び、痛みに呻く悲痛な声を漏らす。おそらく今までこんなことは初めてだったのだろう。今までは弱きものを蹂躙する側に立っていた者たちだ。けれどここではそんなことはさせない、とオプシディアンは剣を握り直した。切り捨てられた者たちを哀れとは思うけれど、同情の余地はもはやない。

 扉の前に立って深い息を吐いた。重厚な作りの扉からは、一切向こう側の状況が知れない。オプシディアンが取っ手に触れるか触れないうちに、弾かれたようにゆっくりと内側へと開いた。扉から真っすぐに伸びる絨毯の上に、カーネリアンがふたりの兵に抑え付けられて平伏していた。ネロはその横で同じように抑え付けられていたものの、カーネリアンよりはマシなようだ。高い位置に置かれた王座にはクリソベリルがふんぞり返り、その様子を満足そうに見下ろしていた。そのすぐ傍には青年が立っていたが、その顔に表情らしい表情はない。

 オプシディアンたちが室内へと踏み込むと、扉が勝手に閉まった。クリソベリルの濁った眼がオプシディアンを捉えると、にたりとした下卑た笑みがその顔に広がる。周りにいる兵士たちの間にも同じような下卑た笑いが広がった。のこのこと誘き出されてきた、哀れな国王を笑っているのだろうか。けれどそれも、すぐに後悔に変わるだろう。

「ようやく本物のお出ましか。それにしても、精巧なレプリカを作ったものだな」

 クリソベリルがそう吐き捨ててカーネリアンを見下した。その言葉が許せなかったのか、ギベオンが悔しそうに拳を握る。カーネリアンは特に反応もせず、抵抗もしていないようだった。けれどオプシディアンが来たことを知ると、無理矢理に首を動かしてこちらを見た。どうして来たのか、と咎めるような色がその瞳に見えた。

「ネロ、お前が国王を殺せなかったから、多くの民が死ぬんだ。お前の一族と同じようにな。国王の婚約者だから利用してやったのに、絆されちまうなんて笑えるな。俺のために色々と暗躍した過去を抱えて、国王に愛されるとでも思っていたのか?身の程を知るべきだろ。さっさと仇を討ってしまえばよかったのに」

 クリソベリルが玉座から降りて、ネロの前にしゃがみこんだ。鋭く睨み返すネロの顎を指で掬い上げて、あいつの前で犯してやろうかと笑う。その汚い指がネロに触れて侮辱しただけで、オプシディアンの腸が煮えくり返った。その行動はあくまでも、オプシディアンを挑発しているだけだとはわかっている。けれどクリソベリルはそれほど頭がいい男ではないはずだ。本当にやりかねないところがまた、オプシディアンを焦らせた。

「クリソベリル、ここまで来たのは褒めてやろう。だが、お前たちに勝ち目はない。この国も俺の首も渡してやるつもりはない。それに、カーネリアンとネロも返してもらおう」

「ほう、王様は随分とこの男に惚れ込んでいると見える。この子が今までなにをしてきたのか、全部知ってもそうだと言えるか、」

「黙れ。お前にネロを侮辱する権利はない。その子は俺の婚約者だ!お前ごときが触れていい相手ではないっ!」

 オプシディアンの声が怒気を孕んだ。彼が剣を鞘から引き抜いたのを合図に、敵兵が一斉に襲い掛かってきた。騎士たちがそれに応戦している隙を見て、ネロが自らを拘束していた男たちの手から逃れた。華麗な体術で自分よりも大柄な男たちを伸すと、その腰から剣を抜き去る。クリソベリルは面白そうに鼻で笑うと、ネロに剣を向けられる前に玉座へと退却した。カーネリアンに駆け寄ったギベオンが彼を助け起こして、隅の方へと連れて行く。それを確認しながら、オプシディアンは襲い掛かってくる男を切り払った。そうしてネロの傍へと辿り着くと、折角の衣装は汚れてしまっているものの、大きな怪我をしている様子はないことに安堵する。そうは言ったものの、悠長にしている余裕はなかった。クリソベリルが直接連れていた兵たちは、先ほどの者たちよりも随分と手練れていたからだ。

 ネロはオプシディアンの心配をよそに、慣れた身体捌きで敵を打倒していた。普段の可憐な様子からはおおよそ信じられないが、手練れた騎士たちにも勝るとも劣らないだろう。オプシディアンも他の者と同じように奮闘しながら、幾人もの兵を床へと転がした。手合わせとは違い、肉を切り裂く感覚がダイレクトに手へと伝わってくる。そこここで血しぶきが上がり汚れた床が滑った。折角ネロが誂えてくれた服も随分と汚れてしまった。その感覚が、これは命のやり取りなのだと教えてくれる。

 戦況が芳しくないことに焦ったのか、クリソベリルが玉座を降りて剣を抜いた。傍にいたエリモスの騎士を切り払うと、一直線へとオプシディアンへと向かってくる。それに気づいたネロが対峙していた男を打ち負かすと、空でなにかを掴む仕種をした。そのまま重たいものを持ち上げるように腕を宙へと持ち上げると、タイルの床にピシピシと亀裂が入る。オプシディアンがクリソベリルの太刀を避けるために身を躱した刹那、ふたりの間に水の壁ができた。轟音と共に噴き出した水にその場の全員が呆気に取られていると、突然その向こうが赤く染まった。水が効力を失って地面へと落ちると、首がなくなったクリソベリルの身体がどうっと大きな音を立てて床へと転がった。その後ろには血に染まった剣を持ったヴェガが立っている。

「信頼していた人間に殺された気分はどうだい?」

 動かないクリソベリルの身体を踏みつけて、ヴェガがそう吐き捨てた。相変わらず表情が読めなかったが、その瞳には爛々とした殺意が宿っていた。クリソベリルの手下たちは唖然としたまま、あっさりと主が殺されてしまったことに戦意を失ったようだ。誰ひとりとしてヴェガに襲い掛かることもせず、それどころかその手から得物が床へと落ちる。まるで動力を失ったロボットのように、惚けて床へと膝をつく始末だ。

「なにがどうなっている、」

 オプシディアンとヴェガの間に入ったマティスがそうぼやくと、ヴェガが口端を笑みに吊り上げた。まだわからないのか、と馬鹿にするように吐き捨てると、その切っ先をまっすぐにオプシディアンへと向けた。

「クリソベリルを操っていたのは僕だよ。そうじゃなきゃ、この馬鹿がここまでのし上がって来られるわけがないじゃないか。きみたちはとっくに僕の正体まで辿り着いていると思っていたのに」

「お前が“災厄”か」

「そう。王様の大切な婚約者殿を唆したのも僕。その命を奪うのに最適だと思ったんだけどなぁ。だって、愛する者に裏切られて殺されるなんて、さいっこうに楽しいじゃない?」

「なにが目的なんだっ!」

「なにって、そこにいる王様の命だよ。僕もネロと同じように、クリソベリルによって滅ぼされた民族の生き残りなんだ。僕たちはエリモスに何度も助けを求めたのに見殺しにされたんだよ。だから、ふたつ纏めて滅ぼしてやろうと思ったんだ。もうちょっとだったんだけどなぁ」

 けたけたと狂ったように笑うヴェガは正気には見えなかった。あとは彼を制圧すればエリモスの勝利だったが、どんな力を秘めているのかわからない以上は下手に刺激ができない。ここにいる全員の心を操られたら、オプシディアンは一気に窮地に陥ることになる。そんなことができるのか定かではない。けれど魔法の力とは常に未知数だ。

「ネロ、きみにはがっかりだよ。でも、最後に役には立つ。王様の目の前できみを殺した方が、余程効果的なようだ」

 そう目を細めたヴェガがその身を翻した刹那、跡形もなく消えた。マティスが慌てて周囲を警戒する間に、オプシディアンは床を蹴る。身構えたネロの前に身を躍らせると、咄嗟に降りかかった刃を剣で受け止めた。姿を現したヴェガは面白そうに笑ったが、横から飛んできた衝撃に吹っ飛ばされた。床に叩き付けられた彼を騎士たちが取り囲んで、暴れるその身体を抑え付ける。隠し通路からぞろぞろと援軍が駆け付け、残りの敵兵も続々と引っ立てて行った。

 ヴェガを吹っ飛ばしたアステラはオプシディアンの前に膝をつくと、王宮の外でも勝利を収めたことを報告した。それに安堵の息を吐いて、マティスと共に後始末を指揮してもらうように指示する。彼が行ってしまうと、オプシディアンはネロを振り返った。ネロはところなさげに顔を俯けていた。

「どうしていらっしゃったのですか。それに俺を護るような真似をして、万が一のことがあったらっ、」

「ネロ、悪かった。でも、きみを失うのが怖かったんだ」

 顔を上げた彼が泣きそうに表情を歪めるので、思わずその身体を掻き抱いた。腕にすっぽりと収まる身体は小さく震えていて、その様子がオプシディアンの胸を震わせた。ネロ、とその名を呼ぶと、彼の手が縋るようにオプシディアンの服を握る。彼を護れてよかった、と心から安堵した。クリソベリルももういないし、これで彼を悩ます元凶はなにもなくなったはずだ。ネロにしてみれば折角の決意が無駄になったわけだが、生きていた方がずっといいに決まっている。

 そう考えていたオプシディアンは、不意にネロの身体が強張ったのを感じた瞬間、強い力で身体を突き飛ばされた。駆け寄ってくる靴音を聴いたとき、目の前でネロの身体を刃が貫くのを見た。刃が引き抜かれると、返り血を浴びたのがギベオンであることが知れる。表情のない顔の中で、光のない目だけが不気味に見えた。頽れるその身体を抱き留めると、慌てたように駆け寄って来たアステラがギベオンを弾き飛ばした。

「ネロっ、どうして、ッ」

 その身体を抱えて床へと崩れると、ネロはぐったりとして動かなかった。貫かれた傷からは止め処なく血が溢れ出し、オプシディアンはそれを留めようと掌で抑える。アステラがその上から掌を押し当てると、口の中でぶつぶつと素早く呪文を唱えた。すると溢れ出ていた血が、少しずつ彼の身体へと戻って行く。オプシディアンは彼を失うかもしれない恐怖で気が遠くなるのを怺えて、ネロの名前を何度も呼んだ。やがて苦痛に歪んでいた表情が和らぎ、穏やかな呼吸が戻ってくると、オプシディアンの身体からも緊張が抜けていった。

「アステラ、ネロは、」

「大丈夫です。わたしがネロを繋ぎ止めて見せます」

 そう言ったアステラが頼もしい笑みを浮かべた。オプシディアンはネロを彼に預けるとギベオンへと詰め寄った。彼はマティスたちに取り押さえられていたが、自らが行ったことが信じられないとでも言うように狼狽えていた。オプシディアンがヴェガを見やると、彼は先程までとは打って変わり随分と大人しくなっている。まるで抜け殻のようにも思えた。

「陛下、申し訳ありません。わたしはなんてことを、」

「これはおそらくお前のせいではない。その男の魔力を封じるようエトルに申し伝えろ。ギベオン、とりあえずネロが目を醒ますまではこのことは不問だ。そのあとの処遇はカーネリアンに任せる」

 オプシディアンの言葉にギベオンは深く首を垂れた。他の騎士に支えられてカーネリアンと共に部屋を出て行くのを見送ると、オプシディアンは再びアステラからネロの身体を預かった。

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