第八章

 オプシディアンがネロを大切に扱っていることに、カーネリアンは大層立腹している様子だった。王宮内にあるとはいえ、オプシディアンの私邸で暮らすネロの様子はそう簡単には伺い知ることができない。使用人たちはすべてオプシディアンが国王だと知らない者たちばかりだし、邸の立地も巧みに王宮内にあるとはわからないように設計されている。それでもふたりの様子がカーネリアンに筒抜けているのは、シリカが定期的に報告を上げているからだろう。

 オプシディアンは昼間、王宮内の執務室に籠って政務を行っていた。ネロと朝食を取ったあとで邸を出るふりをしてぐるりと庭先へ回ると、誰にも気づかれない位置に王宮内へと続く秘密の扉があった。そこを潜ると地下へと降りる階段があって、執務室の傍へと出られるようになっている。表の王が影武者だと知っているのは王宮内でも指折り数えられるくらいしかいないので、カーネリアンが王宮内にいる手前、オプシディアンが見られてはまずいのだ。

 政策会議は週に一度、小さな部屋で行われた。大臣や側近などが座る楕円形のテーブルが丁度置けるくらいの広さしかなく、椅子を引くと壁との隙間は人ひとりがやっと通れるくらいの余裕しかない。石造りの壁や床はたっぷりとした布で覆われ、室内の声が外側へと漏れないようになっていた。参加しているのはオプシディアンを含めて七人で、カーネリアンの傍にはそれとは別に護衛がひとり付いていた。彼の名はギベオンといい、カーネリアンに絶対無二の忠誠を誓っていた。カーネリアンはネロの得体の知れなさを懸念しているが、オプシディアンに言わせればギベオンだって得体が知れない。ある日突然現れて、帝国騎士団への入団を希望した。腕の立つ者数人を倒せたら認める、と言った騎士団長の言葉を他所に、ギベオンは易々と全員を伸して見せたのである。彼は騎士団の中で功績を挙げていき、ついには国王の護衛にまで成り上がった。最終的に彼を選んだのはカーネリアンなので、なにか光るものがあったのだろう。

「あの男に随分と入れ込んでいると、報告が上がっております。いったいどういうおつもりなのです、陛下」

 オプシディアンの真向かいに座るカーネリアンが厳しい声を投げてきた。彼は逢う度益々自分の生き写しになっていくようだと、オプシディアンはこうして彼に対峙するたびに思う。

 執政補助を請け負う役人たちは、カーネリアンの言葉に息を呑んだ。声を潜めて隣の者に真相を伺う者もいる。ネロを邸に囲っていることは公然の秘密だったが、そこに個人的な感情が絡んでいるとは思われていなかったようだ。オプシディアンに言わせれば、最初から個人的な感情以外はなにもなかった。

「俺がネロを探していたときからこうなることはわかっていたはずだろう?婚約者殿を丁重に扱ってなにが悪い?」

「あなたになにかあってからでは遅いと言っているんです。あの者は陛下のお命を狙っているかもしれないのですよ。遊び相手だとしても、もっと身分が明らかな者が、」

「遊び相手?」

 オプシディアンの声が鋭さを帯びた。思わずカーネリアンが息を呑んで、その場の空気が凍る。言葉の綾だとわかってはいたが、聞き流すことはできなかった。深く息を吐くと、心のうちに沸いた静かな怒りがほんの少しだけ鎮まる。ネロのことを想うと、心臓を柔く握り潰されるような心地がした。大切にしたい相手だからこそ、易々と手を出すことができない。嫌われてはいないとわかってはいても、彼の中にある想いがオプシディアンと同じであるとは限らなかった。彼の後ろ暗い素性の報告はオプシディアンの耳に届いていたし、おそらくはエリモスの国王の命を狙うために戻って来たのだろう。今のところはオプシディアンの嘘を信じてくれているようだが、利用価値に見切りを付けられたらネロはあっさりと姿を暗ます。だからこの前、ネロに“国王の婚約者でもある”と言った。その言葉は真実だったが、今のオプシディアンにとっては彼を引き留めるためのよすがに過ぎなかった。自分の命を狙っていたとしても、傍に置いておきたいという欲求には抗えなかったからだ。

「どう思おうが構わないが、俺の前では口を慎んでくれ。ネロをそんな風に思ったことはない」

「それでは、陛下の婚約者殿を王宮で保護するのはどうでしょう?彼は“国王陛下の婚約者”であらせられるのですから」

 ノクトがその場を和ませようとするかのように、そう言葉を発した。オプシディアンが鋭い視線を投げると、それを受け流すようにへらりとした笑みを貼り付ける。本気でそう思っているのか、読めない男だった。彼は基本的にはオプシディアンの味方だが、時々裏を掻くような言動をする。それはあくまでオプシディアンの身を案じてのことではあるものの、こればかりは易々と受け入れるわけにはいかない。ネロの身を引き渡せば、丁重とは言えない扱いをすることなど目に見えていた。そしてきっと、二度と逢うことは叶わない。

「お前たちが俺の身を案じてくれているのはわかっている。でも、それはできない」

「陛下、もしもがあってからでは遅いのです!なんのためにわたしがあなたの名代に立っているとお思いなのですか。そうして護られているあなたは、どうしてそんなに奔放な振る舞いをっ、」

 激昂して立ち上がったカーネリアンをギベオンが制した。護衛騎士は常に寡黙で、カーネリアンへの対応も実に冷静だった。それに感化されたのか、彼は謝ってから居住まいを正す。誰もがオプシディアンの身を案じ、すぐさまネロを傍から離すべきだと思っていることがわかった。幾ら過去に義勇軍と行動を共にしていたとはいえ、姿を暗ませていた一年間の素性の後ろ暗さは看過できない。オプシディアンが決めたことには逆らえないとはいえ、いつ強硬手段に出ないとも限らなかった。ここにいる全員が反旗を翻せば、オプシディアンの立場などどうとでもできるだろう。

 ネロの身元調査はカーネリアンが主体となって今も続いていたが、すべてが明らかになるまでまだ時間が掛かりそうだった。王国内での目撃情報はなかったのでこの国の外にいたことは明らかだったが、国の外側でのことを調べるのには何分時間が掛かる。どうやらあの新興国と関係があるらしい、となれば戻って来た理由はひとつしかない。だからこそ、カーネリアンたちは一刻も早くオプシディアンの傍からネロを引き離そうとしていた。もしかすると今日にも、その命が奪われる危険があるからだ。

 それが杞憂だと、オプシディアンには言いきれなかった。助けた当初ぎこちなかったネロの態度は幾分と打ち解けて来たし、心を許してくれていることがわかる。それでもその腹のうちに凝り固まった復讐心が消えてなくなることはないだろう。ネロはおそらく、自分の一族を滅ぼしたのがエリモスだと思っている。彼と過ごすうち、その思いは確信に変わっていた。

「ネロは水の民の生き残りだ。王国にとっても世界にとっても貴重な存在である。もし俺の命を狙っているとしても、失うには惜しい」

「陛下、まさか本気で惚れているのですか?あの者はそれ以前に男なのです。陛下には相応しい相手がもっと他にも、」

「そうだな。男だと知っても諦められなかった。だからこれは、俺の手で決着をつけなくてはいけない」

「もしや、殺されてもいいとお思いでは?」

 カーネリアンに図星を突かれて、思わず小さく笑ってしまった。そんなオプシディアンにざわついた面々を、カーネリアンが咳払いで鎮める。いざとなったら、この目の前の男が立派に執政を取るだろう。偽物だとしても、国王らしく立派に着飾っている男の方が、オプシディアンよりも余程本物らしく見える。

「まぁ、少しくらいは躊躇して欲しい、とは思っている」

「陛下っ、」

「安心しろ、簡単に殺されてやるつもりはない。ネロに少しでも怪しい動きがあれば、お前たちのすきにしていい。だが今のところは手元に置くことにする。意義のある者は?」

 オプシディアンの問いに異を唱える者はいなかった。しかし面々の表情は苦く、納得していないことが窺える。それでも、とりあえずのネロの安全は確保することができた。今はそれでいい。

「なにもないならこれで失礼する。午後からは新しい井戸の視察に出るから、執務はカーネリアンに任せる」

「あれは担当の者に任せております。陛下の手を煩わせることはないかと」

「たしか、水脈の調査をするんだったな。それがわかる者が来るとか」

「はい。少女だと聴いておりますが、水脈を探る能力があるとか」

 殺伐とした雰囲気が去ったことに安堵したのか、皆各々に情報を口にし出した。ここ最近の人口増加に伴い、王都では新たな井戸が造られることが増えた。水路を増設して、季節関係なく水の心配をしなくていいよう、王宮が取り計らっていた。井戸を掘る際に活躍するのが水脈を探す能力を持つ水の民だったのだが、滅びてからこちら、その作業に手間取っていた。しかし今回は担当者がその能力を持つ者を連れてくるらしい。オプシディアンはそれが水の民の生き残りなのではないかと考え、ネロに逢わせてやりたいと思っていた。ずっと邸に閉じ込めっぱなしだったので、外に連れ出すのにもいい口実になるだろう。

「それならネロも連れて行こう。もしその少女の能力がでたらめでも、ネロなら確実にわかる」

「しかしあの者の瞳にはその印がないではないのですか?たしか能力がある者は、片方の目が深い水の色をしているとか」

「ネロはそれをアステラの魔法で隠しているんだ。能力を悟られれば危険な目に遭うからだろう。俺はそれを見たことがある。ネロの片目は、綺麗な青い色をしていた」

 オプシディアンの物言いにそれ以上反論を寄越す者はいなかった。カーネリアンでさえ今回に限ってはネロの有益性をわかっているのか、押し黙って悔しそうな気配を滲ませている。これ以上はなにもなさそうだったので、ノクトを伴って会議室を出た。ノクトには午後、ネロに気づかれないように同行するように指示をする。

「一層のこと、わたしを陛下の秘書として邸に住まわせるのはどうでしょう?そうすれば陛下の傍にいても怪しまれないですよ」

「駄目だ。お前はシリカと一緒にいたいだけだろう」

「バレましたか」

「もうしばらく辛抱してくれ。すべてが終わるのはそう遠くはないだろう」

「そうですね。ネロ殿がここへ来たということは、クリソベリルが動き出したということでもあります。ネロ殿にすべてを打ち明けてしまうのはどうでしょうか。お命を狙われているより、ずっとよいような気がしますが」

「そうだな。でも、俺を殺そうとここまで来たくらいだ。そう簡単に信じまいよ」

「では陛下の魅力で骨抜きにしてしまうのは?シリカの話だと、随分と仲睦まじくなったそうじゃないですか」

「そうだといいんだがな。情けない話だが、怖くて手が出せないんだ。もちろん、大切にしたいというのもあるが」

「その気持ちが偽りだと突き付けられるのが怖いんですね」

「ああ。憎き仇を愛せるわけがないだろう?」

 ノクトがそうですかねぇ、と納得しかねる様子のまま、オプシディアンを王宮から送り出した。オプシディアンは隠し通路を通って邸内に戻ると、真っ先にネロの部屋へと向かう。ネロに服を贈った日、脱がせたくはないのかと問われて戸惑った。オプシディアンを懐柔するための言動なのではないかと疑って、そんなことをする必要はないのにと本気で思った。けれど結果的に、それがネロを傷つけてしまった。あのときの彼の反応が、オプシディアンの気を引くための嘘だったとは思えない。ほんの少しくらいは同じ気持ちを抱いてくれているのだと、自惚れるには充分過ぎる。

 昼間オプシディアンの姿を見かけることがない使用人たちは、彼とすれ違う度に何事かと目を丸くした。それにいちいち弁解をしながらようやくネロの部屋へと辿り着くと、ドアが開け放たれた室内にはシリカの姿しかない。彼女は窓も開け放って空気を入れ替えながら、部屋の掃除をしているところだった。

「陛下、お早いお戻りですね」

「おい、ここでその呼び方は、」

「大丈夫ですよ、誰もおりませんから」

 シリカがふふっと揶揄するように笑って、ネロはここにはいないと教えてくれた。昼間彼がなにをしているのかは彼女の話の中でしか知らないが、どうやら暇を持て余して使用人の真似事を始めたらしい。ひと通り邸の中も見終わってしまったと言うから、使用人たちを懐柔してオプシディアンの話でも聴き出しているのだろう。そうだとしても随分と楽しそうだと聴くと、悪い気はしなかった。ここで彼が少しでも過ごし易くいてくれたらそれでいい。

「ネロ様は皆と随分と仲良くなられました。本当にディル様の伴侶になられるのなら、これほどまで気に入られる人はいないかもしれませんね。いいところのご令嬢は気位が高くいらっしゃいますもの」

「本当にそうなれたらいいんだが、」

「一晩、ネロ様と過ごしてみるのはいかがですか?真意がわかるかもしれませんよ」

「それでもし刃を向けられたら?」

「そのときは大人しく諦めればいいじゃありませんか。でも、ネロ様は憎からずディル様を想われていると思います。これは女の感ですが」

「それは俺もわかっているつもりだ」

「それなら、本日はどうぞこのお部屋でお過ごしください。針子たちにネロ様の衣装を準備させましょうか?」

「流石にそれは遠慮しよう」

 オプシディアンがたじろぐのを見て、シリカが満足そうに笑った。揶揄されているだけだとわかってはいても、本当にここで一晩を過ごしたらどうなるのだろうと想像はしてしまう。今のところは、ネロを抱くつもりはなかった。けれど彼に本気で誘惑されたら耐えられる自信もない。そうは思いたくないけれどもし彼が男を誘うことに関して長けていたら、過去の相手に対して腸が煮えくり返るだろう。この前の様子を見る限りでは慣れていることはなさそうだったが、それもネロの手管かもしれない。

「ネロのことは大切にしたいんだ。彼の本当の気持ちがわかるまで、手を出すつもりはない」

「まぁ、紳士だこと」

「シリカ、揶揄うのもいい加減に、」

「わたしは、ネロ様が悪い方だとはどうしても思えなくなりました。過去はどうであれ、それはきっとご家族を滅ぼされた相手に対する憎しみが募った結果でしょう。ディル様と仲睦まじい様子を見ていると、しあわせになって欲しいなと思うのです」

 そう言ったシリカは、少し寂しそうな笑みを浮かべた。

「ご存じですか。ネロ様は最近、得物を持ち歩かなくなったのですよ」

「そうか」

「どこかへ巧妙に隠しておられますが、ディル様とおられる間も丸腰です。ディル様の言葉を信じておられるのかもしれませんが、心が寛いでいる証拠だと思います。ディル様が真摯に向き合えば、ネロ様は信じてくださるかもしれません。すべての諸悪の在処を」

「ノクトにも同じようなことを言われたよ。流石は夫婦だな」

 ついそう笑ってしまうと、シリカが少々バツが悪そうな顔をしてオプシディアンを追い遣った。ネロは厨房にいるからと教えられて向かうと、たしかに彼は下働きたちに交じって昼食の準備を手伝っていた。厨房を覗くのは初めてだったが、誰もが和気藹々と楽しそうに仕事をしている。王宮の厨房はもっと殺伐としていた気がするが、ここではそんな気兼ねもないのだろう。まさか仕えている相手が国王だとは、夢にも思わない者たちだ。

「ネロ」

 オプシディアンがそう声を掛けると、全員が作業の手を止めて彼を見た。ネロが驚いたように目を丸くして、仕事は大丈夫なのかと口にする。彼の傍にいた少年がネロの手から芋を取り上げると、早く行けと言うように促した。料理番がはっとしたように声を上げると、ようやく厨房内は元の活気を取り戻した。

 ネロは皆に声を掛けてから厨房を出て来た。使用人に追い立てられるようにダイニングへと向かうと、昼食の準備の真っ最中だった。オプシディアンは少々申し訳ないなと思いながらも、ネロと並んで席に着く。給仕の者たちには気にしないようにと声を掛けたが、彼女たちの耳には届いてなさそうだった。

「随分、使用人たちと仲良くなったようだな。きみは客人なのだから、ゆっくりしてくれていいのに」

「今までずっと旅をしていたから、じっとしているのが性分に合わなくて。それに皆と働くのは楽しいよ」

「そうか。きみが楽しいならいいんだ。ずっと邸から出られなくて退屈だったろう。午後から街に出ないか?」

 そう提案するとネロがうれしそうに肯いた。そのために帰って来たのかと問われると、些か心苦しいのはたしかだ。外に連れ出してやれるとはいえ、それはネロの能力を宛にしているからに過ぎない。

「いや、実は新しい井戸の視察があるんだ。水脈を探し当てる能力を持つ少女が来ると聴いて、きみの一族なのではないかと思ったんだ。どう思う?」

「可能性はゼロじゃないと思う。一族の中には村を離れて放浪している人も何人かいたから」

「そうか。逢ってみる価値はありそうだな」

「それでその子が使い物にならなかったら、俺が水脈を探し当てればいいんでしょう?」

「どうしてわかった?」

「なんとなくそうかなって。でも、そんなことでディルの役に立てるならうれしい」

 少し照れ臭そうに笑うネロに胸の奥が疼いた。もし確執がなにもなく健全な婚約者同士であったのなら、オプシディアンは遠慮なくその身体を抱き締めていただろう。今だって抱き締めてしまえばいいものを、心の底に隠した臆病さが歯止めを掛ける。これでは一晩彼の部屋で過ごすことなど夢のまた夢だな、と自嘲したくなった。彼に嫌われているとわかった日には、それこそ殺して欲しいと願うかもしれない。

 折角なら外でなにか食べることにして、昼食は辞退した。給仕たちには申し訳ないことをしたが、たまには露店で買い食いするのもネロには目新しいだろうと思った。新しい井戸の場所は王宮から徒歩圏内だったので、街をぶらつきながら向かうことにした。邸は王宮内に建っていたが、玄関から出るとそれとはわからない作りになっている。堂々と正面から出たが、ネロは気にした様子もなかった。護衛はつけなかったが、そこここに街人に扮した護衛の者が潜んでいるので問題もない。ノクトも上手いこと身を隠しながらついて来ているだろう。

 大通りに出ると昼間の活気に溢れていた。ネロは陽射しを避けるためにフード付きのローブを着ていたが、その美貌は隠せるものではないらしい。オプシディアンは度々街を訪れていたので、露天商たちに目聡く声を掛けられたが、そのたびにネロは別嬪さんだの綺麗な子だのと褒めそやされた。ネロが少々居心地が悪そうだったのは、オプシディアンの恋人だと決めつけて掛かられることに戸惑っていたからだろう。街ではオプシディアンを国王だと思っている国民は皆無だったが、いなくなった恋人を探す貴族の息子くらいの認識はされていた。そんな彼がネロを伴って現れたのだから、その頃のオプシディアンを知る者たちが恋人が戻って来たのだと認識するのも肯ける。先程大衆食堂で昼食を取ったときも、ネロは当たり前のようにオプシディアンの恋人だと解釈されていた。そのたびに彼はけして否定はしないものの、戸惑う雰囲気は隠しきれていなかった。

「ディルって人気者なんだね」

「そうか?俺の容姿が目立つから、憶えてくれている人が多いだけだと思うが。色々な人と関わって疲れてないか?」

「大丈夫。こんなに賑やかなのは久しぶりだけど」

 ネロはそう言って笑った。ついふたりで歩くのが楽しくて、オプシディアンはその時間をずるずると引き延ばしていた。ネロは露店を物珍しそうに眺めながら、声を掛けてくる露天商たちを上手くあしらっている。街へ出るときはお忍びだった上にノクトを同伴していたので、こんなにのんびりと歩いたことは初めてかもしれない。ネロの楽し気な様子を眺めていると、この瞬間だけはすべて忘れて、ただの恋人同士であるような錯覚さえ憶えた。

「ディル様!別嬪さんをお連れで!」

 そう声を掛けて来たのは、装飾品を扱う店の店主だった。オプシディアンが立ち止まると、ネロも自然と足を止める。どうぞどうぞと言われるがままにネロが腰をかがめて、並べられた装飾品に見入った。彼は隣国や砂漠の民たちから装飾品を仕入れて売っていたが、たまに出自が危うい物を取り扱っていることがあった。以前ノクトに気づかれて大目玉を食らったはずだが、商魂逞しい男は懲りていないらしい。今も露店に並べるには些か高価な品々が、太陽の陽射しの下で目映く輝いていた。

「別嬪さん、お目が高くいらっしゃる!」

 そのうちのひとつにネロが手を伸ばそうとして、男の声に慌てて引っ込めた。媚び諂うような笑みを浮かべた男が青い石がはまった腕環を取り上げると、半ば強引にネロの手首へと通した。その様子にオプシディアンが眉を顰めると、ややたじろいだようによくお似合いですよと捲し立てる。

「ディル様、プレゼントなさったらいかがです?まるで別嬪さんのために誂えられたような品ですよ」

「たしかによく似合うな」

 男の態度は少々気に食わなかったものの、言われた通りその腕環はネロによく似合っていた。特に青い石が、かつて見た彼の瞳の色とよく似ている。言い値で買おうと言うと、ネロが慌てたように腕環を外した。おっかなびっくりと言った様子で品台に戻す。

「こんなに高いもの貰えないよ」

「似合っていたのにもったいない。ひとつくらい贈り物をさせてくれてもいいんじゃないか?」

「この服だって贈り物だろ。ディルは俺のことを甘やかし過ぎだよ」

「でも気になっていたんじゃないのか?」

「ちょっと父さんがしていた腕環に似ている気がしただけだよ。族長の証として代々受け継がれていたやつなんだけど」

「族長と言えば、これを仕入れるときにそんな話をしていましたねぇ。なんでも、滅びた水の民の古の品だとか」

「おい、そんなものどこで仕入れたんだ?」

「い、いや、その、」

 オプシディアンが目を細めると、男があからさまに狼狽えだした。おそらくは後ろ暗いルートから仕入れた盗品かなにかだろう。水の民だけでなく民族たちが襲撃される際、高価な装飾品の類はすべて持ち去られていると聴いた。そういった類の物が裏のルートを経て、市場に出回っているのかもしれない。

「ネロ、これはきみが受け継ぐべきものだ。だから受け取ってくれ」

「でも、」

「その方が族長殿も浮かばれるだろう」

 その言葉が後押しになったのか、ネロがようやく肯いて、ありがとうとはにかんだ。オプシディアンは男の言い値で代金を支払ったが、ネロには聴こえないように声を落として後ほど役人を寄越す旨を伝えた。男はがくがくと震え出したが、逃げる暇はないだろう。オプシディアンはすぐ傍に潜んでいたノクトが、その様子を伺っていることに気づいていた。

 新しい井戸を掘る現場は、大通りから伸びる幾つかの路地を抜けた先の、住宅街の一角だった。最近住居建設が急ピッチで行われているエリアで、新しい井戸ができる土地の周りには珍しい見世物を楽しみにする人だかりができていた。オプシディアンはネロを伴って人垣を回り込むと、役人に内側へと通してもらう。更地には厳つい男の傍に少女がひとり蹲っていた。少女はローブを羽織っており、目深なフードの下に隠された顔はよく見えない。地面に両手を押し当ててじっとしている様子は、もうどれほど続いているのかわからなかった。人々の多くは固唾を飲んで見守っていたが、その中には飽きた様子でよそ見をしている者もいた。

「もうどれくらいああしている?」

「随分と時が経っております」

 役人がそう答えを返すのと、厳つい男が少女を足で小突くのはほぼ同時だった。少女の小さな身体が地面に転がってそのまま動かなくなる。男が手荒く彼女を立たせようとしたところへ、ネロが突然飛び出して行った。オプシディアンが止める間もなく、彼は男の手首を掴むと易々と捻り上げて見せる。息を呑んでいた観衆が、囃し立てるように湧いた。オプシディアンが役人と共に駆け付けると、それに気づいた男が慌てたように膝をついた。

「少女に無体を働くのは感心しない。一体どんな権利があってそんなことをする?」

「この者は我が家が囲っている奴隷なのです。珍しい瞳の色をしていたので、もしやと思い問い質したら自分は水脈を探せると」

「そうか。それでは彼女はこちらで保護する。それが本当であれば、王宮にて保護されるべき希少な民だ。王都では奴隷として取引することは禁じられているはずだが」

 オプシディアンの鋭い声に、男が息を呑んで平伏した。ネロが抱き起した少女は、ネロと同じように白い肌に烏の濡れ羽色の髪をしていた。薄く開いた瞳の片方は、薄い水の色をしているように見えた。ネロとは違う色だったが、力の強さで変わるのかもしれない。

「ネロ、?」

 少女が掠れた小さな声でネロを呼んだ。彼が小さく肯くと、力のない手が縋るようにネロの頬に伸びる。その手をネロが掴んでそっと頬を押し当てた。その様子を見守りながら、オプシディアンは本来あるべき姿を見ているような気がした。父が彼をオプシディアンの婚約者にと望まなければ、彼はきっと己の小さな世界で、慎ましい愛を育てていたのかもしれない。

「今日の調査は延期とする。明日新しい担当者を、」

「ディル、その必要はない。俺が代わりに探すから」

 ネロがそう言って、少女を地面に横たえて立ち上がった。それから静かに目を瞑ると、そのまま数歩歩いて立ち止まる。少女がしていたようにしゃがみ込むと、なにかの気配を探るようにそっと地面に掌を押し当てた。

 しばらくののち、ネロが立ち上がって掌を叩いた。それから水脈を辿るように指を動かしながら、どこにどういう風に水が流れているのかを説明し出した。

「残念ながらここの水脈は細い。もう少し先に行くと豊富な水流とぶつかるから、そこを起点にした方がいいと思う。そこから水路を作って、住宅街の方に流せば問題ない」

「そうか。ではそのように進めることにしよう。新しい担当者は追って連絡する」

「かしこまりました」

 担当者だった男は平伏したまま動かなかったので、代わりに傍にいた役人が返事をした。オプシディアンは近くに潜んでいた兵士に馬車を手配するように指示をすると、少女に近付いてその身体をそっと抱き上げた。ローブに包れた身体は驚くほどに軽く、いかに過酷な環境で生きてきたかがわかる。一見それなりに見えたローブも薄汚れてボロボロだ。

「ディル、俺が抱えるから」

「ここは俺に華を持たせてくれ。それにきみが少女を抱えているのを見るのは、少し妬けるんだ」

「へ、?」

 ネロはぽかんとしていたが、一見ぐったりとする少女にはその意味がわかったようだった。嫉妬深いのですね、と微かに笑う小さな掠れ声は、ようやくオプシディアンに届くくらいの声量しかなかった。

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