第七章
敷地内ならどこでも自由に散策していい、と言われていたので、ネロは数日を邸内の捜索に費やした。立派な建物には数え切れないほどの部屋があり、ネロが与えられている部屋はその中でも陽当たりのよい、いちばん上等な客間であるらしい。そのほかの部屋も掃除がきちんと行き届いていたが、使われている形跡はなかった。厨房や図書室や執務室などひと通り見て回ったが、不思議なことにオプシディアンの部屋らしきものは見当たらなかった。それとなく本人に聴いてみても、上手いことはぐらかされるだけだった。
オプシディアンは朝と夕の食事をネロと共に取った。日中は仕事に出掛けているらしく、邸内では見かけない。使用人の数は驚くほど多く、しっかりとした教育が行き届いていた。ネロの世話は主にシリカが担当してくれていたが、その他の者たちもネロに対して丁寧な態度を示してくれていた。どうやらオプシディアンが彼の婚約者として丁重に扱うよう、命を出したらしかった。
邸の周りは高い塀に囲まれていて、敷地の外を伺うことは難しかった。すっかり具合はよくなったというのに、オプシディアンはネロを心配して外出の許可を出してくれなかったからだ。なので具体的に邸がどのあたりにあるのかを知ることはできなかった。水脈を辿ることで大体のあたりをつけることはできたが、王宮の裏手辺りにあるらしい、というところまでがせいぜいだ。ここが王宮の敷地内なのか外なのかはわからない。オプシディアンが国王の影だというのなら、王宮内だと思う方が正しい気がする。
ネロは水脈を辿る能力に磨きを掛けていた。水があるところであれば、その目をかりて周りの状況を見聞きすることすらできるようになっていた。類いまれなる偵察能力は誰にも明かしていなかったが、これまでも随分と役に立ってくれていた。使用人たちに色々と聴き回って怪しまれないよう、そこここでの雑談を盗み聴きさせてもらったのだ。使用人たちはあくまでもオプシディアンを邸の主人として扱っていた。彼がかつて王子だったことを知る者は数少ないような印象を受けた。
その日、ネロは朝からお針子たちに囲まれていた。オプシディアンが彼女たちに、ネロの服を何着か誂えるように依頼したためだ。着替えはシリカが適当に見繕ってくれていたので困ってはいなかったが、ネロの身体には合っていなかった。ネロは気にせずに過ごしていたのだが、オプシディアンには気がかりだったらしい。
お針子は快活な婦人たちでお喋りがすきだった。ネロの容姿を褒めそやして腕が鳴るわと笑った。身体の隅々まで採寸され、色々な布を当てがわれ、こちらの色の方がいいだのこっちの方が似合うなどと、まるで着せ替え人形になった気分だ。
「きっとネロ様はなにをお召しになっても似合いますわ」
「こんなに楽しいのはいつぶりかしら。最近は男たちの衣装を作るばかりでしたもの」
「俺も男だよ?」
為すがままになりながらそう弁解すると、そうでしたわねぇと楽しそうな声が笑う。流石に女が着るようなデザインにはしないだろうが、一体どんな衣装になるのか予想がつかない。オプシディアンはネロのすきにするように、と言ってくれていたが、ネロは本来服には無頓着だった。彼と初めて逢ったときもアステラが誂えてくれたし、その後も用意されているものを適当に身に付けてきた。動きやすければなんでもよかったし、着飾る必要性もなかった。いつだったかネロの持つ美しさとシンプル過ぎる服のアンバランスさが、妙にそそるのだと言われたことがある。誰だったか思い出せないのは、おそらく始末してきた奴らのうちのひとりだったからだろう。
「ねぇ、ディルってどんな人?伴侶はいる?」
「あらあら、ネロ様ったら。ご自分が婚約者であられるのに、なにをおっしゃいますやら」
「たしか隣国のご令嬢とご婚約のお話が出たときも、心に思う相手がいるからとお断りになったんでしたよね。陛下からネロ様を諦めろと言われても、けして首を縦に振らなかったとか」
「ディル様は使用人たちも平等に扱ってくれる素晴らしいお方です。ネロ様のことも大切にしてくださるでしょう」
屈託のない様子でそう言われると、なんだかこそばゆかった。それからは聴いてもいないのに、ネロと離れている間のオプシディアンのことを色々と教えてくれた。それはあくまでの他愛のない仕事中のお喋りに過ぎなかったが、それでもネロは彼のことを知ったような気持ちになれてうれしかった。
夕方になってようやく解放されると、ぐったりと長椅子に倒れ込んだ。途中昼食を挟んだきり、休憩なしでずっと立ちっぱなしだったのだ。お針子のひとりが冷たい飲み物を持って来てくれたので、ありがたく頂戴した。よく冷えたレモネードのさわやかさが、疲れた身体に染み渡った。
ほうっと息を吐く視線の先に、トルソーに着せられた煌びやかな衣装があった。お針子たちが仕事をする部屋には、何着もの作りかけの衣装が置かれている。彼女たちは主人の衣装から使用人、必要とあれば宮廷衣装までなんだって作ることができた。その衣装はシリカが着ているものによく似ていた。優美でありながらも動きやすさを考えて作られている。
「あの衣装が気になりますか?ネロ様ならお似合いになるかも」
「女の人が着るものだろ?シリカが着ているものに似ているなと思って」
「踊り子の宮廷衣装ですわ。試しに着てみますか?意外と動きやすいんですのよ」
「男が着るものじゃないだろ?」
「そうですけれど。今日の分を仕立てるのは少し時間が掛かりますし、あれを間に合わせで着ていただくのはどうかしら」
ひとりがそう言ったら、他の者たちも同意した。ネロを置いてけぼりにして話がまとまってしまうと、絶対に似合うからという圧力の元、着替えないわけにはいかなかった。持って来られた衣装に渋々着替えると、思っていたよりもしっくりくる。身体の線を強調したデザインなので肌の露出は否めなかったが、上品に見える範囲には収まっていた。生地が上等である分着心地がよく、たっぷりとしたズボンは足首で窄まっていて、軽くて動きやすかった。お針子たちが手早くネロのサイズに寸法を合わせてくれたので、鏡に映る自分を見ても随分としっくりくるような気がしてしまう。
「ネロ様、本当にお美しいですわ」
「是非ディル様に見ていただかなくては」
「どうしてディルの名前が出てくるの」
「どうして、って、焦がれる相手が着飾って、喜ばない男はおりませんわ。それに殿方が服を贈るのは、脱がせたいからだとも言いますよ」
そう言ったひとりの言葉に、他のお針子たちが黄色い声を上げた。彼女たちの中ではすっかり、ネロはオプシディアンの想い人になっているようだった。一途に生き別れた想い人を探し続けていたという話は、いかにも女性が好みそうだ。きっとオプシディアンがネロに服をプレゼントしたという話だけでも、美談として語られるに違いない。彼女たちの中ではきっと、オプシディアンとネロはひそやかな恋を育むお似合いのふたりなのだ。
「随分と楽しそうだな」
その声にお針子たちがお喋りの声を収めて、瞬時に頭を下げた。ネロは鏡に映る自分の姿に気づいて、思わずどこかに隠れたくなった。オプシディアンは悠々と部屋を横切ってネロの前に立つと、よく似合うと微笑んだ。
「変じゃない?」
「ああ、とても素敵だ。いい仕事をしてくれたな」
オプシディアンの言葉にお針子たちが一層深く頭を下げた。行こうかと言われて彼女たちに礼を言うと連れ立って部屋を出た。廊下を食堂に向かって歩きながら、ネロはすれ違う使用人たちの視線が気になってきた。オプシディアンと連れ立って歩いているのが珍しいのか、それともネロの格好が珍しいのか、誰もが微笑まし気な視線を向けてくる。その視線がこそばゆくて慣れなかった。もし傍にオプシディアンがいなかったら、自分の部屋まで走っていただろう。
「ネロ、どうかしたのか?」
「なんか、皆に見られている気がして、」
「ああ、きっときみが素敵だからじゃないかな。それとも、俺が麗しい人を連れて歩いているのが珍しいのか」
オプシディアンにそう言われて、ますますその場から逃げ出したくなった。至極真面目なトーンでそんなことを言われたら、本当にそう想ってくれているのではないかと錯覚しそうになる。言動の端々から大切にされていることはわかるけれど、彼は決定的な行動を起こしたりはしなかった。婚約者という肩書を与えることで、ネロに危害が加わらないようにしてくれているだけなのかもしれない。
オプシディアンはネロが不自由な思いをしないように気を配ってくれていた。どんな仕事をしているのかは明かされないまでも、話を聴く限りでも随分と忙しいことがわかる。それでも必ず食事のときには顔を合わせるし、今日のように時間を作っては訪ねて来てくれていた。オプシディアンの傍にいると、あらゆることから護られているような気持ちになった。家族を失ってから初めて、心から安らげる場所を見つけたような錯覚さえ抱かせる。
「気になるなら、これを羽織るといい」
そう言って、オプシディアンが羽織を脱いでネロの肩に掛けてくれた。礼を言って前を掻き合わせると、彼が似合っていたのに残念だと笑う。
「シリカに着替えを用意させよう。部屋まで送るよ」
「ありがとう。お針子さんたちに悪いことしちゃったかな。折角俺に合わせて直してくれたのに」
「気が向いたら着たらいい。食事のときだけなら俺しかいないし、気兼ねないだろ?」
「給仕の人たちがいるじゃないか」
「じゃあ、きみの部屋でふたりきりのときにしようか」
揶揄するように、オプシディアンが柔らかな笑みを浮かべた。そんなことをするつもりもないくせに、そう言ってネロの心を弄ぶのだから質が悪い。彼は一体ネロをどうしたいのかわからなかった。彼が国王の影だというのなら、ネロの正体に気づいて危険な芽を事前に摘み取ろうとしている可能性もある。もし本当にそうだとすれば、ネロに勝ち目はないかもしれない。
「ふたりきりでなにするつもり?」
気づいたら、そう口にしていた。はっとして弁明しようとすると、オプシディアンが目を丸くしていた。そんな言葉がネロから投げ掛けられるとは夢にも思っていなかったのだろう。ネロだってそんな言葉を口にするつもりなどなかったのに、少し踏み込み過ぎたのかもしれなかった。彼が国王でないのならねんごろになる必要はない。それでも少しはそういう風に、婚約者として見て欲しいと、心のどこかでは想い始めていたのだ。
「変なこと言ってごめん。お針子さんたちに服を贈るのは脱がせたいからだ、って言われたことを思い出して」
「彼女たちがそんなことを?」
「ディルもそう思ったりするのかなって、ちょっと思っただけだから。でもそんなわけないよね。俺は男だし、婚約者って言っても名前だけだし、」
言っているうちに、どんどんと哀しくなってきた。すべてわかり切っていることなのに、これではネロがオプシディアンから婚約者として想って欲しいと懇願しているようではないか。そんなはずはない、と否定するにはもう遅すぎた。彼に利用価値はないはずなのに、離れがたいと思っていた。早いところここを出て、ヴェガにあの噂はデマだったと伝えなければならないのに、なんだかんだ理由をつけて行動に移せなかったのは、ひとえに彼の傍にいるのが心地よかったからに過ぎない。
「ディルが俺のこと可憐だとか麗しいって言うから、そういう風に見てくれているのかなって、勝手に思っていただけだから、」
「ネロがそんなことをする必要はない」
柔らかな声音の中に、はっきりとした拒絶を感じた。はは、とネロの口から乾いた笑いが漏れて、そのままふらりとオプシディアンの傍を離れる。彼を殺すためにここへ来たネロに、傷つく権利はどこにもなかった。それでも、ぐさりと心を刺されたような心地だった。オプシディアンが慌てたように声を上げたが、気づいたときには走り出していた。
途中使用人たちにぶつかりそうになりながらも、どうにか自分の部屋まで辿り着いた。扉を閉めると、その場に頽れて息を整える。自惚れていたつもりはなかった。オプシディアンが婚約者でいてくれなどと言ったから、その言葉に甘んじてやっていただけだ。そう自分に言い聞かせる程惨めな気分が増した。彼が国王でないことを知って、あんなに安堵した理由が今ならよくわかる。ネロはいい王様になりたいと笑ったあの少年に、出逢った頃から気づかぬうちにずっと焦がれていたのだ。
「ネロ、そこにいるのか」
ふと、扉の外から彼の声が聴こえた。放っておけばいいものを、わざわざ追い掛けて来てくれたことすらうれしかった。幾人もの血で穢れた掌では高貴な彼に触れることすら許されないのに、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。お綺麗な顔と身体で誑し込むことなんて、そもそもネロにできるはずなどない。オプシディアンのために守ってきたこの身体ですら彼には不必要なのだから。
「さっきは傷つけるようなことを言って悪かった。ただそんな必要はないと伝えたかっただけなんだ」
「ディルは悪くないよ。俺が勝手に勘違いしていただけだから、」
「勘違いではないよ」
先ほどネロを拒絶したのと同じ声音が、今度はそう断言する。受け入れてはくれないのに、ネロを手放そうとしないその絶妙さが狡かった。今、彼はその秀麗な顔にどんな表情をして扉の前に立っているのだろう。それを見てしまったらきっと、ネロはなにを言われても丸め込まれてしまう。
出て行かなければ、と思った。オプシディアンの傍にいる必要はないのだし、ヴェガと連絡を取って作戦を練り直した方がいい。それに今ならまだ、この気持ちを棄てることができるだろう。
ぽたり、と雫が床についた手に落ちた。あ、と思っているうちに、次々と溢れて止まらなくなった。胸の奥が握り潰されたように痛い。焦がれている相手に受け入れてもらえないのはこんなにもつらいのかと、自嘲することすらできなかった。幾ら復讐の炎を腹のうちに燃やしていたとしても、それとこれとは別なのだと思い知る。
「俺はきみを大切に想っている。だから粗末に扱いたくないんだ。蔑ろにしたくない。きみも自分の身体は大切にくれ」
開けてくれないか、と懇願する声に、益々やるせなくなった。ネロを大切にしていると言いながら、やんわりと拒絶されていることには変わりない。それとも本心から、そう言ってくれているのだろうか。オプシディアンはいつだって紳士的だから、その辺の男とは違うのだとはわかっていた。けれどせめてネロが女の子だったら、可能性は違っていたのかもしれない。
「俺が女の子だったらよかったね。そうしたらディルだって、」
「ネロっ、」
咎めるように名前を呼ばれて、びくりと肩が震えた。降ってくるようだったオプシディアンの声が間近で聴こえたので、しゃがみ込んでいるのだとわかる。ここを開けてくれ、と懇願する声には、絶対的な響きがあった。そっと扉を開くと、安堵の表情を浮かべた彼が床に膝をついていた。泣いているのか、と狼狽えて、伸びてきた掌がネロの頬に触れる。優しく眦を拭われると、心の奥が甘く疼いた。
「ネロ、言葉足らずできみを傷つけていたのならすまなかった。けれど俺は、きみがきみならそれで構わない。きみは俺にとって充分魅力的だよ。でも、俺の一存で手を出すことはできないんだ」
「どうして?」
「言わずにいてすまない。きみは俺の婚約者であると共に、国王のそれでもある。俺は国王の影だと言っただろう?でも、もう少しだけ俺の傍にいてくれ。きみを誰かに渡すつもりはないんだ」
心のうちに秘めたなにかを絞り出すような、そんな気配が彼の声には潜んでいた。背に腕を回されてそっと抱き寄せられると、鼓動がひとつ甘やかに跳ね上がった。その心地よさの裏で、オプシディアンの言葉が引っ掛かっているのも事実だった。
(国王の、)
それは一体どういうことなのだろう、と思いながらも、オプシディアンに問い質すことはしなかった。誰かに渡すつもりはない、と言ってくれた言葉の、なんと心地のよいことか。それに、もう少しだけ彼の傍にいる理由もできた。
オプシディアンの傍にいれば、国王に逢う近道になるかもしれない。けれど今は、彼の腕の中にいられるだけで充分だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます