第六章
目を開くと、豪奢な天蓋が見えた。ふわふわとした柔らかい場所に寝かされていることに気づくと、すぐに頭が混乱する。憶えているのは砂嵐に遭ってやり過ごそうとしたことまでだった。服はすっかり新しいものに着替えさせられていたので、誰かが助けてくれたのだろう。この一年は命を粗末にしてきたのに、生きていてよかったと思うなんて可笑しかった。
「気が付きましたか」
ドアが開く音がして、軽い足音が近づいてきた。煌びやかな宮廷衣装を身に纏う彼女は、随分と身軽そうな印象だった。手に持った盆を傍の机に置くと、ネロが起き上がる手伝いをしてくれた。
「お洋服が汚れていたので、着替えさせていただきました。あなたのお荷物はそこに置いてあります。短剣だなんて、物騒なものをお持ちなのですね」
「護身用です。一人旅には危険がつきものなので」
「お綺麗な方ですもの、もちろんそうでしょうね」
少女がくすくすと笑いながら、ネロにスープが入った椀を手渡してくれた。いい香りに突然の空腹を憶えて、与えられたものを遠慮なく腹に収める。スープの他にもパンや果物があって、すべて新鮮で美味しかった。王宮で暮らしていたとはいえ、パンデモニウムとは雲泥の差だ。
「助けてくれたのはあなた?」
「いえ、ご主人様が拾って来たのです。二日くらい意識が戻らなかったので、酷く心配なさっておりました」
「そう。そのご主人様っていうのはどんな人?」
「お優しい方です。今呼んでまいりますね」
少女がそう頭を下げて部屋を出て行くと、ぱたんと閉まる扉の音と共に張り詰めていた空気が弛んだ。助けてもらったとはいえ、易々と自分の情報を明かすわけにも、疑われるわけにもいかなかった。できるだけ早くここを出て、王都に向かわなければならない。ネロは寝台から降りると、とりあえずきちんと動けることに安堵した。大きな怪我もしていないし、少女が言うようにネロの荷物はすべて小さな椅子の上に纏められていた。どうやらあの砂嵐は、ネロの大切なものを奪ってはいかなかったらしい。革袋の中に鉱石がきちんと収まっていることに、とりあえずの安堵を憶えることが可笑しかった。
ネロが寝かされていた部屋は広く、大きな窓からは強い陽射しが室内に注いでいた。窓の左右にはたっぷりとしたカーテンが束ねられていて、必要に応じて閉められるようになっている。部屋にあるのは大きな寝台とわきのテーブルと小さな椅子だけで、寝る為だけに作られた部屋のようだ。よく磨かれたタイルの上には、毛足の長い絨毯が敷き詰められている。ひと目でここが位の高い人間の住む家であることが知れた。裕福な商隊にでも拾われたのだろうか。
ネロは自らが簡素な長衣に着替えさせられていることに気付いた。頭からすっぽり被るだけの作りだが、肌触りがよくて涼やかだ。ネロの服は綺麗に洗われて荷物の下に置いてあったので、素早くそれらを身に付けた。丸腰で動き回るのは些か不安だったのだ。部屋には二つ扉があり、一つは少女が出て行った扉だった。そちらは廊下に繋がっていると判断してもう一つを開けると、そこは簡易的な作りの浴室だった。それでも石造りの浴槽は悠々と泳げそうなくらいの広さがある。壁には水が出る口が空いていて、傍のレバーを引けば水が溜まる仕組みになっていた。入る前に召使たちが準備をするのだろう。
部屋に戻ると、廊下に続く扉がノックされた。はっとして身を硬くすると、少女のあとに続いて背の高い男が入ってくる。一見で高貴だとわかる優雅さに、ネロは目を見張った。そんなはずはないのに、そこに立っていたのは紛れもなく、ネロが命を狙う人物だった。
「目が醒めてよかった。どこか痛むところはないか?」
気遣うような声音でそう問われて、ネロは見惚れていた視線を剥がした。大丈夫だと返すと、よかったとその美貌が微笑む。あの頃よりも低くなった声は、柔らかくて耳触りがよかった。
「あの、オプシディアン殿下、」
「憶えていてくれたのか、ネロ」
そう言ったオプシディアンがネロを躊躇いもなく抱き寄せた。ぎゅうっと抱き締められるぬくもりは優しくて、憎むべき相手であるというのにネロの心を落ち着かなくさせる。今なら容易くその心臓を突ける、と思った。それでもオプシディアンは不自然なまでに無防備すぎる。仮にも一国の主たる男が、幾らかつての婚約者とはいえ護衛も付けずにやって来るだろうか。それともこのいたいけな少女が、実は凄腕の護衛だとでも言うのだろうか。
「殿下、お戯れが過ぎます」
そう言ってやんわりとオプシディアンを押し戻した。彼は少し残念そうな様子だったが、すぐに気を取り直して少女に茶を持ってくるように頼んだ。少女が頭を下げて出て行くと、まだ寝ていた方がいいとネロを寝台の方へと促す。ここは素直に従っておいた方がよさそうだったので、ネロは言われた通りに寝台に腰かけた。オプシディアンは小さな椅子を傍に移動させて座った。
「殿下、見ず知らずの者を易々と招き入れていいのですか?」
「俺はきみのことを知っているし、きみだって俺のことを憶えていてくれただろう。それにきみは俺の婚約者だ。ここにいる理由はそれで充分だろう?」
「殿下がわたしを探していると人伝に聴きました。お手を煩わせたのなら申し訳ありません。ですが、少女でなくて残念でしたね」
オプシディアンが目を丸くした。ネロの正体を知らずに優しい言葉を掛けてくれる彼に、期待を持たせたくはなかった。あの頃ならまだしも、今のネロはどこからどう見ても女には見えない。華奢だとはいえ背も伸びたし、身体だって骨ばっていて硬い。顔の造作は美しいと褒められることはあるが、それでも女らしい優美さの欠片もなかった。オプシディアンのためにそう言ったつもりで、そうではないことには気づいている。ネロは彼に幻滅されたくはなかったのだ。
「残念?どうしてそう思う?」
「婚約者が実は男だと知って、がっかりされたのではないかと、」
「ああ、少女だと情報を流していたのは悪かった。どうりで見つからなかったわけだな。きみは男だったのだから。でも、あの頃と変わらず可憐だ」
どこからどう見たらそんな言葉が出てくるのかわからなかった。頬が熱くなるのがわかって、見られないようにと俯いた。少女がふたり分の茶を持って来て、寝台横のテーブルの盆と入れ替える。彼女が出て行ってしまうと、そっと伸びてきたオプシディアンの手がネロの頬に触れた。
「きみがいなくなったと聴いて、居ても立ってもいられなかった。きみを見つけたときも、きみを探している途中だったんだ。元気そうでよかった」
「訊かないのですか?どこでなにをしていたのか」
「俺の元に戻って来てくれただけで充分だ。話したくなったら話してくれたらいい。しばらくはこの部屋を使ってくれ。行く宛はあるのか?」
「いえ、特には」
「じゃあすきなだけいるといい。必要なものはシリカに頼むといい。あとで一緒に食事をしよう」
オプシディアンがそう言って、慈しむようにネロの頬を撫でた。また来る、と言って立ち上がりかけたオプシディアンを引き留めるように、その手を掴んだ。彼はどうしたのだと苦笑って、椅子に座り直した。
「申し訳ありません。つい、」
「いや、もう少し話をしようか。まずはその堅苦しい敬語を止めてくれないか?」
「しかし殿下に対して失礼では、」
「その殿下というのもなしだ。俺のことはディルと呼んでくれ。オプシディアン、は長くて呼びづらい」
「では、ディル。どうしてそんなことを?」
「俺はもうこの国の王子ではないからだ。もちろん王でもない」
突然の告白に混乱した。ネロの知るオプシディアンはたしかに王子だったし、先王が崩御して王子が王位に着いたと聴いている。けれど彼の告白が本当であれば、不用心なまでの警護の薄さにも肯けた。そしてそれに、少なからず安堵を憶える自分がいる。
「それでは婚約者というのも無効では?」
探るようにそう問うと、オプシディアンが可笑しそうに笑った。思いも寄らなかったように、たしかにそうだなと言う。
「王族の地位は失ったが爵位は持っているよ。きみをあらゆるものから護る力くらいはある。それでは不満か?」
「そういうわけでは、」
「少なくともここにいる間だけは、俺の婚約者でいてくれ、ネロ。きみがそれを煩わしいと思っていても」
「どうして王族の地位を失ったのですか?」
「俺は王子の影だった。だから王様にはなれなかった。それだけだ」
「いい王様になると思っていたのに」
「なれたらよかったんだけどな」
なかなか上手くはいかない、とオプシディアンが苦笑った。そろそろ行かないとと彼が立ち上がって、ゆっくり休むように、とネロの髪を撫でた。もう少し一緒にいたい、という気持ちが、自然と湧き上がって来たことには驚いた。それでも、もう引き留めはしなかった。
ぱたんと扉が閉まると、ネロは寝台の上で身体を抱えるように円くなった。お綺麗な顔と身体で誑し込めばいい、と言ったクリソベリルの言葉が、腹の中で渦巻いていた。オプシディアンは今までネロが手に掛けて来た男とは違う。幾ら王子の地位を失った(らしい)とはいえ、ネロが易々と触れていい相手ではない。
彼が本当に王ではないとするのなら、王が婚約者を探しているという噂はなんだったのだろう。噂というのは人々の間を抜ける間に捻じ曲げられることもあるから、よりロマンティックな方向性が加わったのだろうか。いずれにせよ、彼が標的から外れてよかった。
そう、思わずにはいられない。
◇
オプシディアンが部屋の外に出るとシリカが待機していた。その必要はないと伝えてあったのに、オプシディアンが見ず知らずの男と部屋にふたりきりになることを警戒してくれたらしい。宮廷の踊り子に過ぎない彼女をここへ送り込んだのはノクトだ。シリカは優美な容姿からは想像できない身のこなしで、護身術も嗜んでいるという。護衛も付けずにネロと対峙することを危ぶんでくれたのだろう。
そもそも、ネロは王宮が保護すべき希少な存在だ。一時期行方知れずとなっていたとはいえ、オプシディアンの婚約者でもある。そう進言したのだが得体が知れない男を王宮内に入れることはできないと跳ね付けられた。特にカーネリアンには身辺調査はしっかりとするべきだ、と言われたが、満身創痍のネロを牢に入れるのは許せなかった。身辺調査云々はカーネリアンに一任するからと押し通して、どうにかオプシディアンの邸宅へと運び込むことに成功した。色々と苦言を呈されたところで、オプシディアンに逆らえる者はいないのだ。
「陛下はいつから影なのです?」
「とりあえずそういう事にしておいて欲しい。ネロがここにいる間は」
「でもあの子は陛下の婚約者なのでしょう?陛下の嘘に遅からず気づくのでは?」
「逢ったのは一度だけだし、俺は民の前に立っているわけじゃない。表向きの国王はあくまでもカーネリアンだ」
「陛下は一度言い出したら聴かないと、ノクトも申しておりましたわ。それからあの者はどうやら、後ろ暗いことに手を染めていたようだと、」
シリカはオプシディアンだけに聴こえるようにそっと声を潜めた。踊り子にしておくには勿体無いほど、思慮深くて行動力もある。ネロの世話係に抜擢したノクトの手腕は見事だと認めざるを得なかった。常にネロの行動を監視しておくには、うってつけの人材だと言える。ネロを疑いたくはなかったが、国王という立場上念には念を入れざるを得なかった。
「そうか。調査をそのまま続けるように伝えてくれ」
「もしや、陛下のお命を狙うためにわざわざ戻って来たのでは?」
「どうしてそう思う?」
「一年ほど前から、物騒な噂が流れておるのはご存じでしょう。もしあの者がその噂を信じているのだとすれば、姿を暗ました理由になるのでは?」
「ああ、民族たちを滅ぼしたのがエリモスの先王という話か。助けなかった、という意味ではそうとも言えるな」
「陛下、お言葉が過ぎますよ」
「もしネロが刺客だったとしても、もうしばらくは手元に置いておきたい。ずっと探していたんだ」
オプシディアンの言葉にシリカが呆れたように溜息を吐いた。わたしは踊り子なのですよ、と苦言を呈されると苦笑うことしかできない。
数年ぶりに逢う彼はあの頃と違ってしっかりと男の身体つきをしていたが、その美しさには変わりはなかった。ネロは男で残念だっただろうと言ったが、オプシディアンの中にそんな気持ちは微塵も湧いてはこなかった。できることなら誰にも見せないように、大切に囲っておきたいくらいだ。
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