第五章

 時は一年ほど前に遡る。ネロはマティスたちと共に南にある貿易拠点を訪れていた。王都に比べると幾分と雑多な街で、様々な場所から商人や旅人が集まり、色々な言葉が飛び交ってがやがやしていた。街の表側は一見治安がよさそうだったが、一歩路地に踏み入れればならず者が取り仕切る区域だったりする。裏通りには孤児たちが溢れ盗みも日常茶飯事だったので、マティスにはひとりで行動しないようにと言いつけられていた。

 その頃になると、クリソベリルは既に新興国国王の座に収まり、次の標的を虎視眈々と狙っていた。そろそろエリモスに奇襲を掛けてくるのではないかと危ぶんで、マティスたちはその場所の特定を急いでいた。支配地域が拡大するにつれ、相手も頭を使うようになっていた。南の街はエリモスの中でも指折りの交易の要だ。ここへ来たのは、南の街でエリモスの情報を探る男がいるらしい、という情報を得たからだ。マティスたちについて酒場や宿屋を虱潰しに当たるうち、ネロは同じような話が耳に付くことに気づいた。最初に引っ掛かったのは水の民という言葉だ。何度もその言葉が耳に入ってくるうちに、それを語る声が同じであることに気づいた。まるでネロがそこにいることをわかっていて、わざと言い聴かせているのではないか、とさえ思えた。

 その日、マティスとアステラは酒屋の主人と数人の客に訊き込みをしていて、ネロには注意を払っていなかった。ネロはその場からそっと離れて、声の方へと近付いた。噂話を得意げに語るのは、派手な服装をした青年だった。商人というには胡散臭いし、旅人と言うには派手過ぎる。彼の周りには厳つい男たちが数人、豪快な笑い声を上げて酒を呑んでいた。

「ここだけの話、少数民族を滅ぼしているのはエリモスという話だ。諸悪の根源は絶対的な権力を振るう王様で、」

「なに言ってんだ、王様がそんなことする必要ねえだろ」

「そうだぞ、兄ちゃん。変なこと言ってっと、それこそ王国軍に逮捕されちまうぜ」

 冗談めかして笑う男たちと青年は知り合いというより、酒場で偶々行き遭ったといった風情だった。へらりと笑った青年が噂の域を出ないけれどと慌てて弁明をする。賑やかな店内であっても、彼の声はよく通った。その言葉はもっともらしい響きを持って、人々の心を確実に掴んでいった。あくまで憶測を出ない話だとわかっていても、彼が語ると真実味があるような気がしてくる。ネロもそのうちのひとりだった。

 エリモス、という言葉はオプシディアンの存在を思い返させた。あれから一度も逢いには行かなかったが、それでもネロの心の片隅には常に彼の存在がちらついていた。聡明でいい王様になるだろう彼の父親が、諸悪の根源だなんてあり得るだろうか。たしかに王は少数民族を助けようとはしなかったが、その理由がもし青年が語るうわさ話にあったとすればどうだろう。小さな疑念がネロの心を食い尽くそうと、密かに牙を剥いていた。

 じっと立ち尽くしているネロに気づいたのか、青年がへらりとした薄っぺらい笑みを浮かべて手を振ってきた。彼と酒を呑んでいた男たちはとうに別の話題に移り、相変わらず豪快で楽しそうな笑い声を上げている。席を立ってこちらに近付いてきた男が、見ない顔だねぇとネロの顔をしげしげと眺めた。綺麗な顔をしている、と零した唇が弧を描くと、ぞくりと背筋が粟立った。

「大丈夫だよ、取って食ったりしないから。僕の方をじっと見ていたから気になってね」

「さっきの話、」

「さっきの話?」

「少数民族を滅ぼしているのはエリモスっていうのは本当?」

 この騒ぎの中では聴こえないだろうが、ネロは念のために声を潜めた。ネロの唇に耳を近づけて言葉を聴きとった男が、ああそうだねとあっさりとした応えを返す。詳しい話を聴きたいかと問われて肯くと、タイミング悪くマティスに行くぞと声を掛けられた。残念、と言いながらそうは思っていない様子の男が、まだしばらくはここにいるからと言って片目を瞑る。芝居じみた所作が男の胡散臭さに磨きを掛けていた。

 マティスに嫌悪を丸出しの目で睨まれた男は少々慌てたように、酒場の人混みに消えて行った。絡まれていたのではないのかと問われて首を振ると、ああいった類の連中には気をつけろよと釘を刺される。

「お前は自分の希少さに無頓着過ぎる」

「大丈夫だよ。自分の身は護れるようになったし。なんか怪しい人だったね」

「胡散臭い情報を売って生活している奴らだよ。ありもしない噂を流したり、役立ちそうな人間を取引相手に教えたりしているんだ」

「その情報にはどのくらいの信憑性があるの?」

「さぁ、中には信用に足る最重要機密を握っている奴もいるらしいけどな。クリソベリルがあれだけ容易く少数民族を狩ることができたのは、情報屋の力もあったからだと言われている。関わらない方が身のためだ」

「どうして王国軍は摘発しないの?野放しにしておくのは危険じゃない?」

「やってもやってもあとから湧いて出てくるからね。泳がせておく分には支障はないし、上手くやっている奴らは王国軍とも通じているんだ。ネロ、きみはとても希少な存在なんだから気を付けるんだよ。滅びた民の行こ残りな上に殿下の婚約者なんて知れたら、攫われてしまうかもしれない」

「アステラだって同じでしょ?」

「僕はもう大人だし、それにマティスがいるから大丈夫」

 最後の方はネロだけに聴こえる声量でアステラが笑った。不思議そうな顔をするマティスに、なんでもないとアステラが応じる。なにを話していたのかと訊かれたが、ネロも応えるつもりはなかった。アステラがわざと彼に聴こえないように声を潜めたのは、聴かれたら恥ずかしいからだとわかっていた。

 ふたりと連れ立って酒場を出ると、市場で食料を調達してから宿屋へと戻った。今回は数人規模の少数精鋭で動いていたため、拠点はオアシス近くに置いてきていた。元々はネロも置いて行かれる予定だったのだが、自分に関わることであるからと同行をせがんだのだ。もう十代も半ばを過ぎていたし、自分の身くらい自分で護れると思っていた。マティスたちは美しい青年に育ったネロをあまり物騒な地域へ連れて行きたくなかったようだが、自分の容姿に無頓着なネロにとっては馬の耳に念仏だ。

 宿の部屋はマティスたちと同室で、隣室に同行した兵士たちが泊っていた。ここへ逗留するのは明朝までで、夜には拠点へ戻る算段になっていた。宿屋の食堂で食事を取りながら今日の成果報告と明日の行動について話しているマティスたちの横で、ネロはずっと上の空だった。胡散臭い情報屋には気をつけろと釘を刺されても、初めて耳にした有力な情報であるような気がしてならない。もう少し詳しい話を聴いてから、その真意を確かめたかった。あの男はしばらく酒場にいると言っていたけれど、もう一度訪れる機会はあるだろうか。

 マティスたちと行動を共にして数年、有力な手掛かりはすぐそこにあるはずなのに、その尻尾は掴めていなかった。幾つかの民が滅ぼされそうなところを救ったし、幾つかの奇襲部隊を壊滅させたけれど、総大将であるクリソベリルは最早戦場には姿を現さなかった。そうしているうちに新興国が立ち上がり、ますます仇討ちの機会は遠のいた。それでもそう簡単に諦めることはできない。せめてその魔の手から護れるものを護る力になりたいと思っていたところに、あの噂を聴いたのだ。もし本当に黒幕がエリモス国王なのだとしたら、クリソベリルよりは手が届く可能性がある。王子の婚約者という立場はなにかと役に立つ、と言った、オプシディアンの言葉が頭に鳴り響いた。

 その夜、ネロはよく眠れずに翌朝を迎えた。うとうととすると新たな考えが浮かんで、気づいたら外が明るくなっていた。朝ご飯を手早く済ませると、マティスたちと共に早朝の市へと情報収集へ出掛ける。市場には各地から様々な人間が集まるから、情報収集にはうってつけだった。

ぼんやりとしたままマティスたちに同行していたネロは、急に腕を掴まれて路地裏へと引き込まれた。慌てて声を上げようとした唇を、掌で覆い隠される。しぃー!っと唇に人差し指を当てるのは、昨日の情報屋だった。彼は辺りを警戒するようにきょろきょろとしてから、マティスたちに気づかれていないことを確認する。にこりと笑う顔はやっぱり胡散臭い。

「手荒な真似をしてごめんね。ちょっと状況が変わって、すぐにここを発つことになったんだ。きみは僕の情報を聴きたがっていたようだから気になってね」

「なにか不味いことでもしたの?」

「うーん、まあそんなところかな。一緒にいるのは義勇軍の皆さんかな?ああ、元騎士団長様か」

「マティスのことを知っているのか?」

「もちろん。優秀な情報屋に知らないことはないんだよ。国王と折り合いが悪くて、その地位を追われた悲運の英雄様だ。それと魔法使いの恋人さん」

 上手くやっている者は王国軍とも繋がっている。そう言うアステラの言葉を思い出した。相変わらずの胡散臭さはあるけれど、マティスたちのことを知っているところを見れば、ある程度の信憑性はあるような気がする。

「時間がないから手短に言うと、きみの民を滅ぼす手引きをしたのは王様だよ。きみは水の民の生き残りだろう?」

「どうしてそれを、」

「上手く誤魔化しているけれど片方の目の色が違うだろう。それはあの魔法使いさんの仕業かな?もちろん、直接手を下したのは王じゃない。王はただどこそこにどんな民族の自治区があるかの情報を流せばいいだけだ。そうすれば領土拡大を目論む蛮族が、勝手に邪魔な民族たちを一掃してくれるというわけ」

「そんなことをする必要があると思う?エリモスは大国だよ」

「王国の絶対的な安定のためだよ。小さな民族たちが結集してエリモス王国の転覆を企てたらどうなる?ひとつひとつは権力を持たない民族でも、結集すれば大きな力になる。そんなとき、クリソベリル率いる蛮族が領土拡大のための紛争を起こした。王は彼の蛮行を見て見ぬふりを決め込むことで、邪魔な民族たちを滅ぼそうと考えたのさ。マティス殿の話に王が耳を貸さなかったのも、義勇軍の活躍を労わないのも、すべてはそれが計画の邪魔だからさ。クリソベリルがパンデモニウムを平定し、国を立ち上げることにも一役買ったって話だ。エリモスにはけして手を出さない、っていう約束で」

 一気に語られた情報に唖然とした。すべてを信じることはできなくとも、もっともらしい語り口がその内容に真実味を帯びさせる。マティスに知らせるべきか迷った。この男が言うことが本当であるのなら、今までやってきたことはすべて水の泡となる。情報屋を胡散臭い奴らだと決めつけていたところを見れば、幾らネロが語ったところで信じてくれるとは限らない。

「もっと情報が欲しければ僕と一緒に行くかい?彼らよりは力になれると思うけどなぁ」

「これからどこに行くつもりなの?」

「パンデモニウムさ。僕はクリソベリル様に頼まれてきみを探しに来たんだ。王国に踊らされた哀れな水の民の生き残りをね。クリソベリル様に頼めば、エリモスを陥落させることだってできるよ。きみの一族を滅ぼした王様が憎くはない?」

 どうする?と男に問われて、ネロの心は揺れた。第一、この男の言葉が真実かわからなかった。けれどあらゆる情報を一気に詰め込まれた頭は混乱して、どれが正しい情報なのか判断が付かない。クリソベリルはマティスたちが追う敵のはずだ。けれどこの男はネロの仇を討つ手伝いをしてくれる頼みの綱であるようなことを言う。もう行くよ、と言われて、ネロは咄嗟に男の手を掴んだ。

「一緒に行く」

「そう。賢明な判断だ」

 ネロの心残りはただひとつ、マティスたちを裏切ることだった。助けてくれた恩を仇で返すことになる。それでも両親や一族の敵討ちのためだとわかれば、彼らもいつかは理解してくれるだろう。

 そうしてネロは、ついておいでと背を向けた男がにやりと口許を歪めたことには、終ぞ気づかなかった。



 キャラバンの馬車に同乗して、幾日も砂漠を旅した。マティスたちと共に助けた民族の集落を通り過ぎるたびに、自分の判断が間違っているのではないかという考えに苛まれた。今頃、彼らは突然消えたネロを血眼になって探してくれているだろう。きっとオプシディアンの耳にも届くに違いない。そのとき、かの王子様はなにを思うのだろう。そんな彼も今や、あっという間に仇の息子に成り下がっていた。あのきらきらした笑みも、ネロの味方でいると言ってくれた声も、すべてを過去にしなければならない。彼に貰った鉱石は、革袋に入れて肌身離さず持ち歩いていた。アクセサリーに加工するにはもろ過ぎたので、アステラが首に掛ける小さな袋を誂えてくれたのだ。エリモスから離れるにつれ、それを無意識のうちに握り締めていることが増えていた。こんなもの棄ててしまえばいいのに、どうしてだかそれだけはする気になれなかった。

 パンデモニウムとエリモスの境は釈然としなかった。国同士の境界は明確に決められていたが、パンデモニウムはクリソベリルが国だと宣言しただけで、周りの王国から認められてはいなかった。なのでどの国も支配していない地域一帯が新興国の領土らしい、という曖昧な認識の上に成り立っていた。かつては民族の集落しかなかった土地には、今やしっかりとした町や村が造られていた。クリソベリルの傘下に下った民族は一応の自治を認められ、そういった村々が寄り集まって町が造られたらしい。

 パンデモニウムの首都はエリモスの王都を模した作りだった。規模は遥かに小さいがそれでも王宮は立派だったし、しっかりと通りが整備されている。足りないのは水路くらいだったが、街の至る所に井戸が掘られているお陰で、生活用水には困らなかった。人々は活気に溢れていたが、どこか余所余所しい雰囲気も感じる。国に属することを嫌う民族たちが寄せ集められている居心地の悪さが、そこかしこから滲み出ているからかもしれない。

 情報屋はヴェガと名乗った。元は北の方の民族の出だが、襲撃に遭った際にクリソベリルに助けられたのだという。それ以来彼のために暗躍し、役に立つ情報を仕入れたり、有益な人物を世話したりしていた。ネロはパンデモニウムに入ったあとも彼と行動を共にすることになった。ヴェガはどこに行っても顔が広く、後ろ暗いことにも手を染めていた。クリソベリルの不利になるような相手の命を奪うことなど、歯牙にもかけない残忍さも持ち合わせていた。そんな光景を目の当たりにしていくうちに、ネロの心は段々と復讐心だけを追い求めるようになった。ヴェガの言うとおりに動いていれば、憎き敵に近づけるような気がした。相手に容赦を掛けては決意は揺らぐ。そうしているうちにいつしか、ネロは冷酷無慈悲な殺し屋と呼ばれるようになっていた。

 そんなネロをクリソベリルは重宝してくれていた。直接顔を合わせたことはなかったが、連絡はヴェガを通して毎日来た。ネロは王宮の一角に居住区を与えられ、ある程度の我儘が許される権利を得ていた。クリソベリルに仕えているのは侵略された民族の族長やそれに近しい者たちで、媚び諂ってはいるものの忠誠心など微塵も感じなかった。クリソベリルの命令に従うネロをよく思っていないこともありありと感じられた。ネロだって、両親を殺したであろうクリソベリルにいい感情を抱いてはいなかった。それでもそれがエリモスの策略のうちであるのなら、族長たちの考えも変わるだろう。

 マティスたちとはぐれてから季節が一回りしようとしていたある日、ネロにクリソベリルとの謁見の許可が下りた。直々に下したい命令がある、とヴェガ経由で告げられて、ネロは初めて王座の間に踏み入れた。石造りの柱やアーチは立派だったが、どこか下卑た印象を感じる。一段高くなっている場所に置かれた玉座に、大柄な男がふんぞり返っていた。いかにも支配者然としていて、鍛え抜かれた身体は引き締まって見える。幾つも傷がある顔は無骨で品性の欠片も感じない。ネロの知る王族とは雲泥の差だ。

 クリソベリルは両側に美女を侍らせ、美味そうに酒を飲んでいた。わざとらしくしなを作った女が、艶めかしく男にしな垂れかかった。後宮にはお気に入りの美女が数え切れないほど囲われていて、クリソベリルの目に掛かった女は容赦なく攫われてくるとも聴く。彼女たちが望んでそこにいるのか、生きるためにそうしているのかはわからない。どちらにせよ、男に媚び諂って煽てておけば街で働くよりも豪奢な生活が簡単に手に入るのだ。

 目の前に立つネロにクリソベリルは頭からつま先まで嘗め回すような視線を向けた。まるでお気に入りの女を矯めつ眇めつするような目つきだ。後ろ暗いことに手を染めていると、そんな視線に晒されることはしょっちゅうだった。ネロの顔はそんな男たちをそそる造作をしているらしく、いとも簡単にその警戒を解くらしい。クリソベリルも同様で、瞳の奥の警戒心はいつの間にかに消えていた。

「こんなに美しいのなら、もっと早く手元に置いておけばよかったな」

 男の声は野太く、酒に焼けて聞き取りづらかった。女たちが媚びるようにくすくすと笑って、空になった杯に新たな酒を注ぐ。こんな男が君主で、よく国など立ち上げられたものだ。だからこそ、裏でエリモスが手を引いているという噂に信憑性が増す。少なくとも国として機能させるために、有能な誰かが手を貸していることはたしかだ。

「お褒めに預かり光栄です、陛下。それで、わたしに御用とは?」

 できるだけの朗らかさを搔き集めて、作り笑いを浮かべた。ヴェガはこの男を崇拝し、頼めばエリモスを陥落させることすら容易いようなことをよく口にしていたが、実際目の前にした男がそこまでの能力を兼ね備えているとは思えない。けれど能ある鷹は爪を隠すというから油断するのは危険だ。

「ネロ、エリモスの王子が王位に就いたことは知っているか?」

「風の噂程度には」

「新しい王がある人物を探している。どうやらそれは水の民の生き残りの少女であるらしい」

「少女ですか。それがわたしと関係が?」

「お前のことなんじゃないか?」

 そう言われて一瞬言葉に詰まった。心の奥に押し込めた感情を、誰かに握り込まれたような心地がする。オプシディアンがネロを探しているらしい、という情報は耳に届いていた。かの国の新しい王が生き別れた婚約者を血眼で探している、という噂は、この国でも人々の間を面白可笑しく流れていたのだ。それが本当であるのならば、利用する価値があると思っていた。オプシディアンに近付くことさえできれば、その命を奪う機会は自ずと訪れるだろう。それでもすぐに行動に移せなかったのは、あの日彼に抱いた感情が棄て切れなかったからだろうか。

「なにを根拠にそうおっしゃるのです?」

「お前が水の民の生き残りだからだ。それに、王子の婚約者様だったんだろ?そりゃあその行方が知れずにいたら、必死に探すだろうさ。希少な能力を失うわけにはいかねぇもんなぁ」

「それこそ思い過ごしですよ。ヴェガの情報だとしてももう少し疑った方が、」

「お前、王子から貰った鉱石を持っているだろう。砂漠のバラ、だったか?それは代々、エリモス王国に受け継がれる婚約の証だ。それがなによりの証拠なんじゃないのか?」

 クリソベリルが下卑た笑みを浮かべて、美味そうに酒を煽った。美女たちが甘い声でその様子を褒め称えて、ネロを蔑むような視線を寄越してくる。首に掛けた革袋の中のそれが酷く重たく感じた。どうしてそんな大層なものを、オプシディアンは幸運のお守りだと言ってネロに渡したのだろう。婚約者だという証明に役に立つとでも思ったのだろか。

「ネロ、お前は復讐がしたいんだろう?お前の一族を滅ぼした憎きエリモス国王に。そのために、俺のところに来たんだろう」

「ええ、そうですね」

「エリモスに帰れ、ネロ。婚約者という立場なら易々と王宮に潜り込めるだろう。俺はエリモスに攻め入ることにした」

「真っ向から攻め入ってあの大国に勝てるとでも?」

「お前が運よく国王の寝首を掻ければいいけどなぁ。いい機会を探れ、ネロ。警備が手薄になる機会があるはずだ。ヴェガも機会を見て送り込む」

「そう易々と王に近付けるとは思えませんが、」

「お前は男をわかってないな。探していた婚約者が見つかったとあれば、そう簡単に離したりはしないものだ。あとはそのお綺麗な顔と身体で誑し込めばいい。今までやって来たことだろ?ん?」

 舐めるような視線が肌の上を這いずった。ネロはその視線から逃れるように頭を下げると、了解の返事を残して踵を返した。色々と御託を並べて、この任務を回避しようとしていた自分が、本当にいいのかと咎めてくる。けれど後ろ暗い世界に足を踏み入れたあとで、すべてをなかったことにすることはできなかった。オプシディアンがいかに聡明な王になっていても、背負ったその責任には父親の罪も含まれている。それをきっと、ネロは許すことができない。

 玉座の間を出るとその場に頽れた。王宮の中の警備は手薄で、どこに行っても人手不足が否めなかった。急ごしらえの新興国のことなど、周りは歯牙にも掛けていないことがよくわかる。ネロはそれをずっと見て見ぬふりをしてきた。クリソベリルの手先として動いている間は、少しでも両親の敵討ちに近付いていると信じていられたからだ。そう思わないとやっていられなかった、と言ってもいい。マティスたちを裏切ったことへの自責の念から、逃れる唯一の方法だったのかもしれない。

 無意識のうちに革袋を握り締めていた。オプシディアンはまさか、ネロに命を狙われるとは夢にも思っていないだろう。後ろ暗い罪に染まっていることもきっと知らない。どの面を下げて、あの眩しさに対面しろと言うのか教えて欲しかった。彼は憎むべき存在だと頭ではわかっている。それなのに心がごねるのは、あの日密かに心が奪われていたからだろう。

(あの日の少女は死んだんだ)

 そう自分に言い聞かせて、ネロはどうにか立ち上がった。周りにはネロを気に掛ける者も咎める者も誰もいない。もうこんな茶番は終わらせるべきだった。エリモスもパンデモニウムも、あわよくばこの手で滅ぼしてやりたい。そうしてようやく、一族の無念も晴れるだろう。

 その日のうちに、ネロは旅支度を整えて国を出た。そうして砂漠の真ん中で、オプシディアンに拾われたのだった。

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