第四章
砂嵐が起こると、砂漠の地形はたった数時間で激変する。太陽の位置で大体の方角がわかったとしても、地形の変化を目の当たりにした旅人は道に迷い、そして遭難の危機に直面する。オアシスがそこここに点在しているのが唯一の救いだか、それでもたった一度の砂嵐のせいで目的地までの道程はぐんと遠くなる。
砂嵐は気まぐれでいつ起こるかはわからない。お忍びで城を抜け出していたオプシディアンは運悪く砂嵐に遭遇し、先程とはまったく違う地形を前に途方に暮れていた。誤魔化してくれるよう側近たちに頼んではいたものの、そう何時間も姿を暗ましているわけにはいかないだろう。それがわかっているだけに、気持ちばかりが焦った。
「これは夜まで待たないとダメですね」
「やはりそうか、」
「砂嵐は気まぐれですし、仕方がないことです。シリカが上手く誤魔化してくれることに期待しましょう。カーネリアン殿も大目に見てくださると思いますよ」
それはどうかなと思ったが、オプシディアンはなにも言わなかった。途方に暮れている以上、ノクトが言う通り夜まで待つしかない。大目玉を食らう覚悟だけはしておいた方がよさそうだ。
ノクトは星を読む技術を持つ哲学者で、政を取り仕切る臣下のひとりだ。時折オプシディアンのお忍びに同行してくれるよき理解者でもある。宮廷の踊り子であるシリカと共に王宮で暮らしていた。彼女は元々は街から街へと巡業する移動サーカス団の一員だったが、街に出ていたノクトが巡業中のサーカス団で踊るシリカを見初め、毎日のように通い詰めて口説き落としたらしい。
ネロと出逢ってから数年後、オプシディアンは王位を継いだ。エリモスに魔の手を伸ばしていたクリソベリルはこの数年の間に民族たちの土地をほぼ手中に収め、新興国を立ち上げていた。彼が勢力を伸ばしていた地域を人々はパンデモニウムと呼んでいたが、その範囲がそっくりそのまま新興国となった。その規模はエリモスに及ばないものの、今やいつエリモスに攻め入って来てもおかしくないと言われている。
マティスたちの活躍のお陰で、大半の少数民族たちは滅亡を逃れていた。ここ最近は国を立ち上げたお陰か、クリソベリルたちの侵略の魔の手も鳴りを潜めていた。それを嵐の前の静けさのようで不気味だと言う者もいたし、王の命を狙って宮廷に刺客を送り込んでいるのではないかと噂する者もいた。相手の動向を見極めるのは君主として大切なことだが、疑心暗鬼に陥るのはよくない。オプシディアンは未だ杞憂だと考えていたが、矢面に立つ影の王はそう考えてはいないようだ。
エリモスにはふたりの王がいる。それを知るのは政に携わるごく一部の人間だけだ。多くの危険から王を護るために先代の王が取った最期の施策が、影武者として仮初の王を表に立てることだった。オプシディアンは父の最後の命に従い、政の指揮はとっても国民の前に姿を現したことはない。王宮で働く多くの者は影武者を王だと思って接しているし、宮殿の最深部に建てられた邸で暮らすオプシディアンの存在さえ知らない。影武者であるカーネリアンはオプシディアンとよく似た顔をしていた。数多の危険が去ってオプシディアンが国民の前に姿を現しても、おそらく気づく者はいないだろう。
いい王様になりたい、という想いは昔からずっと変わっていなかった。国民の前に立てない以上、オプシディアンは彼なりに国民たちの生活を知ろうと努力してきた。ノクトを伴って時々こっそりと街に繰り出しているのはそのためでもある。民の信頼が厚い王様、という肩書があっても、それは矢面に立つカーネリアンへの評価だと感じていたからだ。
カーネリアンはいつだって国王を暗殺者から護るために生きているような存在だと自分を卑下した。彼の姿と声を貸りているオプシディアンの方が余程仮初であるような気がするのに、カーネリアンの世界はいつだってオプシディアンを中心に廻っていた。廻らざるを得なかった、と言ってもいい。
カーネリアンは先王の妹が王宮の侍従との間に作った私生児だ。王女はカーネリアンと男と三人で暮らすことを夢見ていたようだが、けして許されることはなかった。王女はカーネリアンを産んだのち、幼子を乳母に預けて男と共に姿を消すことになる。いとしい我が子を置いて姿を消すのは断腸の思いであっただろうが、カーネリアンの身柄を王宮で保護すると言い出したのは祖父であったらしい。大切な娘がどこの馬の骨ともわからない男との間に作ったとはいえ、それでも大切な娘が生んだ大切な孫には違いなかったからだろうか。王位継承権を与えずにオプシディアンの影に仕立てたところを見れば、利用価値を見出しただけに過ぎないような気がした。
オプシディアンは物心ついた頃からずっとカーネリアンと共に育ち、気づいたときには彼はオプシディアンの影武者だった。武術や剣術に優れ、オプシディアンを護るためなら命さえ投げ出す。オプシディアンの名代として国民の前に出るようになってからは猶更、彼の身を案じて色々と苦言を呈するようになった。オプシディアンが時々王宮を抜け出していることには目を瞑ってくれていたが、それでもいいとは思っていないこともわかっている。カーネリアンは君主としても充分通用する素質があった。もしオプシディアンになにかあったときは、そのまま国王として政を取り仕切ることだってできるだろう。
そんなカーネリアンも、かつてはオプシディアンが王宮を抜け出す片棒を担いでいた。オプシディアンがまだ王子だったころは、よくふたりで王宮を抜け出しては街へ繰り出したものだ。それが今や真面目腐った顔でオプシディアンに説教を垂れるのだ。彼の気持ちは充分わかっているつもりだが、今のオプシディアンは居ても立ってもいられない。
一年前ネロが突然姿を消した。貿易拠点の街に駐屯した際、少し目を離した隙にいなくなったらしい。方々手を尽くして探したが見つからず、未だ行方は知れないままだ。あらゆる場所から人々が集まる街には有力は情報も集まるが、それと同時に人攫いや犯罪などの危ないものも蔓延っている。マティスたちが傍にいて犯罪に巻き込まれることは考えづらいから、おそらくはなにか有力な情報を得て、ひとり追って行ったのだろう。
その情報をオプシディアンに持って来たのはマティスだった。王宮嫌いのくせにわざわざ参上して、自らの監督不行き届きを詫びた。それ以来、オプシディアンは王宮を抜け出してネロの情報を探していた。王都ではたいした情報は集まらず、商隊や旅人が休息するオアシスを回り情報を集めるようになった。それでもまだ、有力な情報は得られていない。
一度しか逢ったことのない婚約者のことをどうしてこんなに必死で探しているのか。そう問われると、オプシディアンにも上手い答えが返せなかった。ネロが逢いに来ることはなかったが、アステラを通して様子を確かめるたびに、息災であることに安堵していた。小柄で可憐で今にも消えてしまいそうな儚さの中に、強い意志を持っている子供だった。この子が自分が護るべき存在なのだと、あのときたしかに感じたのだ。
「カーネリアンにまた怒られるな」
「わかっていてやるんですから、陛下も懲りないお方ですね。探してらっしゃるネロさんは、陛下にとってどのような存在なのですか?」
「しあわせになればいいのに、って思ったんだ」
「しあわせになればいいのに?」
「そう。ネロは一族をクリソベリル滅ぼされて、一夜にして不幸のどん底に叩き落されたんだ。それでマティスたちに拾われて、一緒に旅をしていた。だからしあわせになって欲しいと思った。俺がいい王様になって、ネロを哀しませるものから護ってやりたかった。そう思わせるなにかがあったんだ」
そうですか、と言うノクトの声に微笑ましさが滲み出ていて、オプシディアンは少しこそばゆくなった。オプシディアンならいい王様になれると言ってくれた、ネロの笑みは今も鮮明に思い出せる。緊張していた初々しさの中に、王族の洗礼された美しさとは違う、粗削りでいて繊細な美しさを持っていた。
地形の変わった砂漠は行けども行けども一向にどこにも辿り着かなかった。灼熱の陽射しがじりじりと肌を焼き、身体から水分が失われていく。よく訓練された馬たちも疲弊し始めていた。星が出るまで待つにしても、未だ幾分と時間がある。広大な砂漠にはオアシスが点在していたが、それが今やどこにあるのかもわからなかった。ぼんやりとした蜃気楼が地平線に幻を見せる。ノクトが太陽の方向から方角を割り出して、ようやくオアシスが見える位置まで移動することができた。ここから王都まではそう遠くないはずだったが、滅茶苦茶な方向へ進んでいる可能性を含めると、どれ程の距離があるのかわからない。
オアシスで夜になるまで待とうと、そちらに向かって行くと、その近くに座り込むラクダの姿が見えた。砂漠には野生のラクダが生息してはいるものの、群れで移動する彼らが単独で砂漠の真ん中にいるのはおかしい。それにラクダはオプシディアンたちが近付いても逃げる素振りは見せなかった。それどころかなにかを護るようにじっとその場から動かない。
おかしいなと思って目を凝らすと、砂に埋もれる人の姿が見えた。ラクダを盾に砂嵐をやり過ごそうとして、あまりの激しさに体力を消耗しきったのだろう。馬から降りて駆け寄ると、ラクダが心配そうな瞳をオプシディアンに向けて来た。安心させるようにその鼻先を撫でてやると、人懐っこく掌に肌を擦りつけてくる。
砂から掘り出したぐったりした身体を抱き上げると、その身体からぱらぱらと砂が落ちた。顔を覆っていた日除けの布がずり落ちると、その下から整った造作が現れる。白い肌に烏の濡れ羽色の髪。閉じられた瞼の下には、左右色違いの瞳が隠れているのだろうか。
「陛下、大丈夫ですか?」
「ああ、ぐったりしているけど意識はある。とりあえずオアシスに運ぼう。俺たちにも休息が必要だ」
ノクトがオプシディアンの言葉に肯いて、手慣れたようにラクダを自らの馬でオアシスまで誘導していった。砂嵐で飛ばされた可能性を含めても、ラクダに積まれている荷物は少なかった。もしオプシディアンたちが発見しなければ、このまま干からびていたかもしれない。
男の身体は驚くほど軽く、華奢な身体に柔らかさはない。綺麗な顔立ちはしていても、もう女の子には見えなかった。それでもあの頃の可憐さや面影が俄かに残っていた。きみは男の子だったのか、と、微かな笑みが湧いてきた。きっとオプシディアンを驚かせないように、女の子のふりをしてくれたのだろう。だから婚約者ではいられないと、あんなに頑なだったのか。
ネロの身体を馬に乗せると、自分に凭せ掛けるようにしてゆっくりと歩みを進めた。誰かを馬に乗せるのは初めてだったので、バランスを取るのが少し難しい。帰りはラクダに乗せた方がいいかもしれないなと思っているうちに、上手いことバランスが取れるようになった。ネロは砂漠を旅しているわりには軽装だったが、オプシディアンも人のことは言えなかった。左程長く砂漠を彷徨うつもりはなかったし、今頃は王宮に帰り着いているはずだった。砂嵐のお陰で探し物が見つかったとはいえ、こればかりは運がよかっただけだろう。
オアシスは思ったよりも小さく、小振りな泉の周りにヤシの木が数本生えているきりだった。それでも木陰で強い陽射しを避けることができたし、幸運なことにヤシの実も付いている。先に着いたノクトがラクダと馬に水を飲ませ、水袋に水を補給していた。どこからか取り出した柔らかな布を木に引っ掛けて日除けまで作ってくれている。オプシディアンが馬を降りると、ネロを日除けの下に横たえるのを手伝ってくれた。ノクトがヤシの殻に水を汲んでくれたので、ネロを抱き起こしてそれを唇へと押し当てた。意識のない人間に水を飲ませるのは初めての経験だったが、その喉が上下するのを見てとりあえずの安堵を憶えた。水を飲み終えたラクダがネロの傍に来て、心配するように傍へと座り込んだ。大きな目が心配そうに彼を見て、それからオプシディアンの方を見る。
「大丈夫だ。彼を護って偉かったな」
そう言って鼻頭を撫でてやると、ラクダが満足そうに鼻を擦り付けてきた。それから蹲ると体力を温存するように目を閉じる。オプシディアンはそれを傍で微笑ましく見守りながら、自らも乾いた喉を潤した。色々と忙しなく動き回っていたノクトも、ようやくオプシディアンの隣に落ち着いた。
「彼をどうするおつもりなのですか?」
「邸に連れて帰る。早急に医者を手配してくれ」
「なにをおっしゃいます。見ず知らずの者を内部に入れるわけには、」
「ノクト、俺は彼を知っているんだ。ずっと探していた」
オプシディアンの物言いにはっとしたように、ノクトが息を呑んだ。まさか、と言ったその言葉の先が続かない。普段冷静沈着な彼が戸惑うのを見て、可笑しさが込み上げてきた。ネロが生きていると知れただけで、世界がこんなにも明るい。
「陛下が探していたのは婚約者殿では、」
「そうだ。でも間違いない。彼は俺がずっと探していた人だよ」
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