第三章
昨日の扱いとは打って変わって、門番は三人を見るや恭しく頭を下げた。門を入るとそこには王の側近だという男が待ち構えていて、階段のわきを抜けて庭の方へと案内される。砂漠の王国でありながら、王宮の庭は実に見事に作られていた。地面は青々とした芝に覆われ、色とりどりの花は咲き乱れ、木々も綺麗に刈り込まれていた。石造りの噴水まであり、豊かな水が清らかに流れている。
連れて来られたのはその庭の片隅にある井戸だった。敷地内には幾つかの井戸がありそれぞれの場所へ水を共有するために使われているが、ここだけが数週間前から突如枯れ始めたと言うのだ。アステラが注意深く覗き込んだが、中は暗くてよく見えない。手頃な小石を投げ入れると、遠くから水の音が聴こえた。完全に枯れてはいないようだ。
「この子が水の民ならば、この井戸をどうにかできるでしょう。さぁ、やってみていただけますか?」
家臣にそう詰め寄られてネロは戸惑った。アステラが男との間に割り入って、ネロを背後へと庇ってくれる。マティスは井戸を覗き込みながら、水の民が滅んだ一見と関係があるのかと男に問うた。井戸が枯れ始めた時期は、ネロの一族が襲われた時期と一致している。
「さぁ、どうでしょうか。街の井戸が枯れたという話は聴いておりませんが。もしそんなことが起こるのなら、陛下は兵を上げてあの民族を護っていたでしょう」
家臣の声は平坦でその表情も固かった。マティスは小さな舌打ちをしたがなにも言わなかった。アステラがネロと視線を合わせるようにしゃがみ込むと、
やってごらんとネロを促した。
「でも、どうしたらいいか、」
「大丈夫。きみにはできるよ。お父様たちがやっているところを、見たことがあるんじゃない?」
アステラはネロの手を取ると、その指から指環を外した。ネロの瞳が青く変わる様を見た家臣が俄かに息を呑む。一族の能力者たちがその能力を発揮する場所に子供は立ち会わせてもらえなかった。それでもネロは母から、そのやり方を聴いたことがあった。母には能力が備わっていなかったが、やがて父の跡を継ぐネロに少しでも早く色々なことを教えてやろうと思ってくれていたのだろう。父には内緒でこっそりと、それとはわからないようにしっかりと、物語にたとえて言い聴かされていたそれらが、なによりも重要なことなのだと今ならわかる。
ネロは掌を井戸の傍の大地へと押し当てた。意識を掌に集中させて、遥か下を流れる水の気配を探ろうとする。大地の声を聴くの、と母は言っていた。迷ったら大地の声を聴くの。素直に心を傾ければすべてが上手く行くのよ、と。
やがてネロは水の感覚を掴んだ。けれどそれは幾分頼りなく、意識を集中させなければ逃してしまいそうな気配に過ぎない。それを手繰り寄せていくと、やがて行き止まりになった。堰き止められた水たちがどこにも行けずに嘆いているような気がする。
「どこかで水が堰き止められているようです。たぶん、王宮の外だと思います」
「場所の特定まではできないと?」
「詳しい場所までは、」
「ふむ、いいでしょう」
家臣はそう言うと、三人について来るよう指示した。階段を上がり建物の中へと案内されると、ホールを抜けて控えの間へと通された。石造りの建物内は涼しく、床のタイルはよく磨かれている。控えの間には柔らかそうな絨毯が敷かれ、その上を歩くと足が取られそうなほどふわふわしていた。
設えられたソファに座ってしばらく待たされた。女官がお茶と軽食を準備してくれたが、ここへ案内してくれた家臣は待てど暮らせど戻ってこない。そわそわと辺りを見回すネロをアステラが苦笑って、少し落ち着くようにと窘めた。
「ネロの言ったことが本当か確かめているんじゃないかな。まぁ、あの井戸に繋がる水路は限られているし、そう時間は掛からないと思うよ」
そう言うアステラは随分と待たされ慣れているようだった。いつもと打って変わって、それ相応の身形をしているマティスは、まるで立派な貴族の子息のようだった。お茶を飲んでいる姿は優雅で、義勇軍の兵士だと言われても信じる者はいないだろう。
「王は俺たちに逢う気があると思うか?」
「さぁ、どうだろう。せめて名代に王子が出てきてくれさえすればこっちのもんなんだけど、」
アステラが突然なにかに気づいたように、背後を振り返った。ふたりがその視線を追うと、その先には円柱型の柱があり垂れた幕が微かに揺れている。どうかしたの?とネロが問うと、アステラはなんでもないよと誤魔化すように笑った。
そうしているうちにようやく、玉座の間へと続く扉が開いた。両側に立つ兵士が恭しく頭を下げると、中から家臣を従えた少年が出てくる。ネロと同じくらいの歳頃だったが、背が高く整った容姿をしていた。マティスと同じく金色の髪をしていたが、彼の方が銀色に近く、不思議な色合いだった。露出の少ない布をふんだんに使った服装から、彼が高貴な位の人間であることがわかった。この少年がおそらく王子様だろう。
アステラとマティスが立ち上がって、恭しく頭を下げた。ネロも見様見真似で頭を下げると、凛とした声が自分が王の名代であることを告げた。
「父は体調が優れず、お目通りすることが叶いません。お許しを」
王子は三人に頭を上げるように言うと、家臣たちを下がらせた。側近の男は悔しそうな素振りを見せたが、言われた通りに兵士を伴って部屋を出て行った。座るように促されてソファに腰を鎮めると、王子もひとり掛けのソファへ収まった。
「殿下、お元気そうでなによりです」
アステラがそう言うと、王子がうれしそうに目を細めた。その綺麗な造作が笑みに崩れると、まるで花が咲いたような美しさがある。ネロは直視することが叶わず、思わず目を伏せた。こんな人の婚約者が自分だなんて身の程知らずもいいところだ。たとえネロが女の子であったとしても、同じ気持ちを抱いたに違いない。どんなに彼がいい男でこの世のすべてから護ってくれたとしても、ネロは彼の隣に並ぶ栄光を受けることはできない、と思った。
「アステラとマティスも元気そうでなによりだ。父が蔑ろにして申し訳ない。この度のことには父も胸を痛めていた」
「殿下がそう言うなら、そうなんでしょう」
「マティス、殿下の前で、」
「いいんだ、アステラ。マティスの気持ちはよくわかる。お前たちのお陰でこの国の安寧が保たれているんだ。それを僕はちゃんとわかっている。もう少し辛抱してくれ」
王子の声は耳障りがよく、心の内側まで入り込んでくるような声音だった。ネロと同じくらいの年なのに、大人たちの扱い方がよくわかっているようだ。ふたりが言っていたように聡明で好感が持てる。
「アステラ、そちらの方は?」
身を縮こまらせていたネロは、王子の声に思わず肩を揺らした。挨拶をしなければ、と勢いよく立ち上がったはいいものの、事前にアステラから教えてもらったはずの作法が全く思い出せない。ちらりと王子を見ると、微笑まし気なその瞳には好奇心が滲んでいた。
「殿下、ご紹介申し上げます。こちらはネロ、水の民の生き残りです」
ネロの緊張を察したのか、アステラが立ち上がって紹介してくれた。どうにかよろしくお願いしますと声を振り絞って頭を下げると、マティスが思わず小さく噴き出してアステラに睨まれた。ネロは恥ずかしくて、頭を下げたまま上げるタイミングを失した。どうしよう、と思っているうちに、誰かが近づく気配がして、そっと肩に触れられる。あ、と思っているうちに、王子が目の前に膝をついた。呆気にとられているうちに手を取られて、その甲に恭しく唇を落とされた。上目遣いで見上げられると、心臓の裏側を擽られるような、よくわからない感覚を憶えた。
「エリモス王国の王子、オプシディアンと申します。以後お見知りおきを」
いかにも王族らしい優雅さに、頬が熱くなるのがわかる。微かに震えるネロの手に気づいたのか、緊張しなくても大丈夫だと笑ってくれた。
「ネロ、少しふたりで話さないか?」
ぎゅっと掌を握られて、どう返事をしたらいいものか戸惑った。助けを求めようとアステラを見ると、微笑まし気に小さく肯かれる。勇気を出して肯くと、オプシディアンがふたりに暇乞いをしてネロを部屋の外へと連れ出した。エスコートをするように腕を出されたので、戸惑ったまま腕を絡める。彼はネロよりも背が高く、遠目で見れば似合いの男女に見えるかも知れなかった。
オプシディアンは長い回廊を抜けた先にある中庭へとネロを案内した。そこは彼の為だけに作られた特別な庭であるという。左程広くはなかったが、先ほどの庭園と同じように手入れが行き届き、小さな噴水まであった。オプシディアンは噴水の縁を手で払うと、ネロを座るように促した。王子と並んでいいものかと思案する胸の内を見透かすように、誰も見ていないからと微笑まれた。庭には上手いこと陽射しが避けられる工夫が施されていて、強い陽射しが出ている割に幾分と涼しかった。
「突然連れ出して悪かった。きみと話がしたかったんだ」
オプシディアンはそう切り出して、少し照れ臭そうに笑った。ふたりきりになると、先程まで彼を包んでいた凛とした空気が和らいだような気がした。もしかしたら彼も、王の名代という大役に緊張していたのかもしれない。
「昨日父から突然、僕に婚約者がいると告げられてね。柱の陰からずっときみのことを見ていたんだ。アステラには気づかれていたかもしれない」
「どうしてそんなことを?」
「どんな人か気になったんだ。父が本国の令嬢でもなく隣国の王女でもない相手と僕の婚約を結ぶなんて信じられなかった。きみが水の民だと知って合点がいったよ。父はきみの力を手に入れようと僕を利用したんだな」
「がっかりしましたか?」
「どうして?」
「幾ら力があるとはいえ、一族の生き残りなんて荷が重いでしょう?それに、」
本当は男だ、と言うことはどうしても口にすることができなかった。オプシディアンは確実にネロのことを女の子だと思っているだろうと、その丁寧な扱われ方でわかる。勝手に婚約を結ばれていたことを知った上に相手が男だなんて、可哀そうにも程がある。二度と逢うことはないのだろうとわかる相手だからこそ、いい想い出にしてやりたいと思った。ネロが彼の后の座に収まらなくとも、誰かもっと相応しい人物があてがわれるに違いない。だから今日くらいはなんの心配もせず、せめて可愛らしい女の子を演じようと決めた。彼がネロの緊張を解そうと心を砕いてくれることがわかるからこそ、ネロもその気持ちに真摯に応えたいと思うのだ。
「すまない、言い方が悪かったね。こんな可憐な人だって知っていたなら、もっと早く教えてくれたらよかったのに、って思ったんだ。そしたらもっと早くきみの力になれたかもしれない」
「マティスたちが助けてくれましたから。殿下と仲良しなんでしょう?」
「そうだよ。マティスは僕の護衛騎士団の団長だったんだ。よく剣術の稽古をしてくれた。まだ僕が幼かった頃だけどね。僕は父が彼をこの国から追い出したことが許せないんだ。マティスたちのお陰でこの国の安寧が保たれていることを、父は信じようとしない。父がしっかりと現実を見ていたら、きみの一族が滅ぼされることもなかったかもしれない。父に代わって僕が謝るよ」
「殿下のせいではありませんから。一族の仇はこの手で討つつもりです。だから、殿下の婚約者として王宮に入ることはできません」
ごめんなさい、と頭を下げる。ここに来る前から決めていたことなのに、なんだか彼を傷つけてしまったようで心苦しかった。そうか、とオプシディアンが言って、残念だなと続ける。
「きみのことは僕が護らなければと思ったところだったのに」
「そう言って頂けるだけで光栄です。殿下はいい王様になってくださいね」
それは心からの本音だった。オプシディアンだったら民のことをよく考え、国民から愛される立派な王様になれるだろう。エリモスは今よりもっと栄え、領土を拡大し、確固たる地位を築くに違いない。それをいつか見てみたいと思った。そしてそのときに、彼の隣にいるのはネロではない。
「まるで今生の別れみたいじゃないか。今日逢ったばかりなのに。きみは僕に二度と逢うつもりはないんだね」
さも残念そうにそう言われてぎくりとした。綺麗な顔が哀し気に歪むのを見て、ついまた逢いに来るからと言ってしまいそうになるのをぐっと怺える。ネロが折れないところを見ると、オプシディアンは諦めたような小さな溜息を吐いた。
「きみは可憐なくせに頑なだな。でも僕の婚約者と言う肩書は、色々と役に立つと思う。持っていて損はないんじゃないかな?」
「反故にしたら王様に怒られるからですか?」
「僕がきみがいいと思ったからだよ。僕はきみをここに縛り付けるつもりはない。マティスたちと行くというのならすきにしたらいいよ。でも、たまに王都に戻って来たときは逢いに来てくれたらうれしい。僕はきみがどこにいてなにをしていても、必ず味方になると誓うよ」
強請るような瞳を向けられると、首を横に振る勇気はなかった。たしかに彼が言うように、王子の婚約者という立場は持っていて損はないだろう。悪い奴らに知られたら不都合が起きるかもしれないが、そのときはマティスやアステラがなんとかしてくれるような気がした。身に余る光栄を受け取るつもりは微塵もなかったのに、本人が食い下がるのは予想外だ。
「殿下がそうしたいのなら、従います」
ネロが根負けしてそう言うと、寂しそうだった表情を明るく輝かせたオプシディアンが立ち上がって、ズボンからなにかを取り出した。やがて差し出された拳が開くと、その上には薔薇の花弁のように幾重にも薄い石が重なった塊が現れる。どうぞと言われたので受け取ると、少しでも力を入れれば崩れてしまいそうだった。指で転がしてみると、薄い積層に光が反射してきらきらと光る。
「それは砂漠のバラと呼ばれている。この辺りでは幸運のお守りだと言われているんだ。僕の代わりにきみを護ってくれるはずだ」
「ありがとうござます、殿下。大切にします」
「ああ。これを見て僕のことを思い出してくれ」
そっと鉱石を握り締めると、緩やかな体温を持っているような気がした。その様子にオプシディアンが満足げな笑みを零すと、そろそろ戻ろうかとネロを促す。
絶望の中にも光をくれる存在っていうのに出逢えたら人はそれを運命と呼ぶ。そう言ったマティスの言葉が、ネロの脳裏に思い起こされた。けれどこの日が屈託なく過ごせた最初で最後の日であることを、このときのふたりは知る由がなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます