第二章

 エリモスは大陸の西側地域を占める大国だ。国土の大半が砂漠だが、点在するオアシスを拠点に街や村が形成されている。町から街へ続く明確な道はなく、常に砂嵐と隣り合わせの不安定な土地柄だが、人々はそれに順応し豊かな生活を送っていた。数十年前まで領土を争う戦争がそこここで起きていたがエリモスの大勝で終結、聡明な王が立ち国は栄えた。昼間と夜の温度差が激しい砂漠での生活は過酷だが、水源が少ない砂漠の土地に水路を引き、王都は東や南の国に劣らない繁栄を誇っている。王都を中心に物流拠点が東西南北の街にあり、商人たちはそこを拠点に点在する小さな町や民族の拠点を回りながら生活をしていた。もちろん裏側で犯罪が横行することもあるが、騎士団の活躍により国の平和は保たれていた。

 しかしここ数年、クリソベリルが進める侵略戦争によって、国家の安全性は揺らいでいる。王は聡明だが自国の盤石性を疑わず、周りのことに目を向けていない。その上病気がちで、王子への代替わりも時間の問題だと言われていた。王子はひとり息子で、王よりも聡明で将来は安泰だと謳われているものの、王位に就くには些か未だ幼過ぎる年齢だった。王は側妃を持っておらず、自身も双子の妹がいるきりだ。先代の王は幾人もの側妃を抱えていたが、直系の血筋が途絶えることを恐れて子を作ることには慎重だった。大国の掌握を狙う不届きな輩はそこここにいて、王子の命はいつだって狙われている。たったひとりの王位継承者が亡き者となれば、自ずと継承権は他に移りざるを得ない。傍系貴族たちが虎視眈々とその地位を狙っていることに、国王だって気づいているはずだ。

 王都はエリモスの最も砂漠よりに位置していた。街には石造りの道が整備され、その両脇を流れる水路はあらゆる方向へと伸び、ここで暮らす人々はまず水の心配は要らない。今の時期は乾期で雨が降らず大地は乾いていたが、街のそこここに掘られた井戸には充分な水量が確保されていた。石造りの住宅や店舗が所狭しと並び、中心の大通りでは露天商たちが声を張り上げていて、とても賑やかで活気に溢れている。初めて訪れた街の賑やかさに、ネロの目はあちこちに奪われて忙しかった。

 マティス率いる義勇軍の帰還は、王都の人々には大いに歓迎された。軍の兵士たちは駆け寄って来た家族たちとの再会を楽しみ、マティスは人々に囲まれて褒め称えられている。ひとりひとりときちんと言葉を交わす彼を呆気に取られて見ていると、アステラがネロに行こうかと声を掛けた。

「マティス、人気者だね」

「元々人気が高かったんだよ。特に女の子たちには」

「気になる?」

 他意のない純粋な問い掛けのつもりだったが、アステラは面食らったように苦く笑った。そんなことないよ、と言いながらも、マティスを囲む民衆に若い女の子が多いことに気づいていないわけではなさそうだ。

 しばらく彼らと過ごして、ふたりの間にはネロが入り込む余地のない、硬い絆が結ばれているような気がしていた。同性同士でありながらも、まるで父と母を見ているような気分になることもあった。けれどそれをわざわざ口に出して、確かめる気にはなれなかった。ネロが口を出す問題ではないと幼心にわかっていたし、今はふたりがネロのために心を砕いてくれているだけで充分過ぎる。

「マティスはね、王都にいた頃とても優秀な騎士だったんだ。でもその地位を失ってしまった。きみたちのような力のない民族たちを、侵略戦争から護りたかったんだよ」

「王様は助けてくれなかったの?」

「陛下は、エリモスは絶対に滅びないと信じているんだ。先代の王の勇姿を間近に見て育った方だからね。でも、永遠の平和なんて絶対にない。きみになら理解できるだろ?」

 そう言われて、その言葉の重さを受け止めた。こんなにも栄え、人々の活気と笑顔に溢れているこの街も、踏み荒らされてしまえばただの土くれだ。一夜にしてすべてを失ったネロには、あの怒涛の恐ろしさが身に染みてわかる。幾ら大国とはいえ、国王の命が奪われれば国は負ける。族長が死ねば民族が滅びるのと、原理はなんら変わりないのだ。

 人々の隙間をすり抜けながら歩くアステラに、声を掛けてくる者は皆無だった。砂漠で暮らす人々は体温が籠らないように通気性に富んだ身なりをしていることが多いが、アステラはローブを着込んでフードを目深に被っていた。そんな目立つ身なりをしているにも関わらず気にも留められないところを見ると、義勇軍の中で名が知られているのはマティスだけであるらしい。ネロも白い肌を日光から守るために、アステラと同じようなローブを着せられていた。簡素だが肌触りがよく、軽くてなによりも動きやすい。こんなものを着ていたら絶対に暑いと思っていたが、なぜだか着ている方が涼しくて快適だった。もしかしたら、なにか魔法が掛けられているのかもしれない。

「アステラは声を掛けられることはないの?」

「僕は基本的に裏方だから、あまり顔が知られてないんだ。魔法使い、なんてのはこの国じゃあ怪しい人間だしね。基本的には腫物扱いさ」

「すごい力の持ち主なのに」

「わかってくれる人がわかってくれればいいのさ。ネロも自分の能力を簡単にひけらかしてはいけないよ。僕が作った指環もここにいる間はできるだけ外さないようにね」

 そう念を押されて注意深く肯いた。右の人差し指にはまる指環は、アステラが魔力を込めて作ってくれた代物だ。それを身に付けている間は水の色の瞳がもう片方と同じように見えるまじないが掛かると言う。見た目はシンプルな金色の輪っかで、中心には小さな青い石が付いていた。アステラが言うには、呪具というものは身に付ける人間のサイズにぴたりと合うように作られているので、成長して指のサイズが変わっても大丈夫であるらしい。それを聴いてこっそり別の指にはめてみたりしたのだが、たしかにその指輪はどの指にもぴったりだった。

 大通りから路地を一本入り、建物の日陰になっている細道を抜けた。その先は大きな建物に囲まれたちょっとした広場になっていて、子供たちが楽しそうに遊びに興じていた。ネロと同じくらいの子もいれば、上の子も下の子もいる。男女の違いこそあるものの、同じような小綺麗な身形をしていた。

「あの子たちは?」

「戦争で親を亡くしたり、親に棄てられた孤児たちさ。王都ではそういう子供たちを保護して、大人になるまで面倒を見る施設があちこちにあるんだ」

 アステラがそう言って、懐かしそうに目を細めた。それから子供たちに声を掛けると、皆が彼に気づいてわらわらと足許に集まって来た。あっという間に囲まれてしまうと、おかえりなさいと嬉しそうな声を掛けられる。アステラがただいまと、慈しむような笑みを浮かべて子供たちの髪を撫でた。

 子供たちとの再会を楽しむアステラを他所に、ネロは突然の孤独感に襲われた。彼らもネロと同じように親を失った境遇の持ち主なのに、アステラに向けられている顔には絶望の兆しもない。きちんと衣食住の保証を受けて、しあわせそうに暮らしているように見える。彼らにとって哀しみは遠い過去のことなのだろうか。

 ネロは彼らと同じような服を着て、ここで暮らしている自分を想像してみた。明日をどう生きようと考えなくてもよい生活は、それはそれでいいように思える。アステラはネロをここへ預けるために連れてきたのだろうか。一度王都へ戻る、と言い出したのも、体の好い厄介払いの方法を思い付いたからかもしれない。

 マティスが王都へ戻ると言い出したのは、数日前の夕飯時だった。彼は軍の拠点を中心として近くの民族の集落を回り、襲撃犯であるクリソベリルの情報を集めて回っていた。困りごとや争いごとが起これば仲裁し、どこそこが攻め込まれそうだとなれば応戦に向かう。移動にはよく鍛えられた馬が使われていた。そうしてある程度情報が集まったので、食料の補給をするついでに王宮へ報告に向かうと言った。食事は食堂用の天幕で皆揃って取ることに決まっていたので、マティスの声に呼応した兵士たちの喜びの声はけたたましかった。誰もが家族を置いて長い遠征に出ていたので、久々の帰還とあって大いに喜びを爆発させた。

 王都で数日間過ごしたあとは拠点を他へ移すことに決まった。周辺の民族たちからの情報収集は済んでいたし、別の地域も依然として危険なことには変わりがなかった。出発は翌日の夜半と決まり、陽が傾くのを待ってから総出で旅支度を設えた。あんなに大きな天幕も手際よく解体され、ラクダが引く何台かの馬車へと収まる。拠点から王都まではオアシスを経由して約二日の行程だった。ネロはアステラと共に荷馬車の一角に収まることとなった。

 ネロの一族の亡骸を葬るのには数日間を要した。兵士たちは挙って手伝ってくれたが、何分数が多すぎた。強い陽射しのせいで遺体の腐敗が日に増して酷くなるので、夜通し作業が続けられる日もあった。マティスはネロにその有様を見せないように気を配ってくれたが、なにもできない小さな手しかなくとも、ネロは家族同然の民たちを自らの手で葬ってやりたかった。母の遺体は強い陽射しに晒されたせいで肉が腐り落ち虫が湧いていたが、それでもそれはネロにとってただひとりの、掛け替えのない母だった。父の身体は大分離れた場所に転がっていて、見せしめるように剣が胸に突き立てられていた。父は族長に相応しく金品を身に付けていたはずだったが、綺麗に身包みを剝がされていた。

 ふたりが同じ墓へ弔われるのを見守りながら、悔しさと哀しさが溢れて止まらなかった。そんなネロの肩をアステラが支えるように抱いて、そっと死者たちの声を教えてくれた。悲痛な叫びをあげる者もいれば、嘆き悲しむ声もある中で、父と母はネロの生存を喜んでいると言う。生きていてくれて本当によかった、と言う言葉を聴くと自然と涙が頬を伝った。哀しみは垂れ流されるうちに、惨たらしい結末を作り上げた敵に対しての、恨みがましい思いを育てていく。この手で必ず仇を打つのだと、土の下に眠る両親に誓った。きっとふたりはそんなことを望んではいないだろう。けれど一度になにもかもを喪ったネロに、恨むなと言う方が酷だ。

 拠点で過ごしている間に、マティスは忙しい合間を縫ってネロに身を護る術を教えてくれた。父から強い男であれと剣術を学んだことはあったが、実践的なそれとなるとまったく歯が立たなかった。軍が使っている太刀は重たかったし、振るうたびに腕に負担がかかる。それを見ていたアステラが、短剣の方が使い易いのではないかとアドバイスをくれた。太刀よりも軽い短剣は殺傷能力こそ落ちるが軽くて扱い易く、なによりも身体に掛かる負担が少ない。振るい方の基礎を憶えると、ネロの武術はみるみる上達した。マティスが誂えてくれた短剣は歯が湾曲して鋭く、細かな細工が施された鞘に収まっていた。

 ネロはその短剣を肌身離さず、腰に吊るして持ち歩いていた。ローブを着ていると隠れるので丁度いいし、身に付けていると不思議と安心した。静かに復讐心を燃やすネロが、こんな平和でしあわせそうな子供たちと一緒に暮らせるとは思えない。もし本当に厄介払いをされそうになったら、一緒に行かせてくれと食い下がろう。今のネロにとって彼らと共にいることが、仇に近付く唯一の近道だ。

「ネロ?」

 アステラに名を呼ばれて我に返ると、いつの間にか子供たちは自分たちの遊びに戻っていた。大丈夫かと問われて肯くと、疲れたかなと苦笑われる。たしかに長旅は堪えたが、勝手な考えに浸っていたことは言わずにいることにした。アステラたちがネロをどうしようとしているかは、そのうち自ずとわかるだろう。

「さて、俺たちは先に今日の宿に向かおう。少し休んだら王宮へ行くからね」

「今日は王宮に泊まるんじゃないの?」

「普通だったら歓迎されるところだろうなぁ。王子が王になったら、きっといつか歓迎してくれるさ。きみと同じ年頃だから、あとで紹介してあげるよ。きっといい友達になれる」

「俺が王子様と?」

「うん。きみは本来王宮によって保護されるべき、貴重な存在なんだ。だからここへ連れてきた。ここから先はきみがどうしたいのかを決めればいい」

「アステラたちと一緒にいてもいい?」

「きみがそう望むならね。そうだ、ネロ。きみにはお姉さんか妹がいる?」

 なぜアステラがそう問うのかわからなかったが、ネロは否定するように首を振った。母は身体が弱く、ネロを生むことで精一杯だったと言われていた。その後何度か身篭ったものの、生むまでには至っていない。アステラはネロの回答を吟味するように、そうか、と慎重な言葉を返した。

「国王が、王子と族長の娘を婚約させたって聴いているんだけど、なにか知っている?」

「知らない。王都から知らせが来て、怒っていたところを見たことならあるけど」

「そう。もしかしたら王子がきみを女の子だと勘違いするかもしれないけど、とりあえずはそういうふりをしておいてもらえるかな」

「どうして?」

「王がきみたち一族の力を取り込もうと、一方的にきみを王子の婚約者に仕立て上げようとしているかもしれないからさ」

「男なのに?」

「男だから、だよ。抜群に力が強いきみをエリモスに囲うには、王子の伴侶にしてしまうのが手っ取り早い。この国ではあまり性別は関係ないんだ。跡継ぎなんて側妃を迎えればどうとでもなるからね。そうやって希少な力を取り込もうとした権力者もたくさんいるんだ。でも、王子は男が婚約者だなんて思わないだろ?驚かせないようにしなくては」

「女の子に見えるかな?」

 まだ声変わり前の声は辛うじて女の子に聴こえなくもないが、ネロの姿形はどう見たって男だ。急に不安になってきたネロを他所に、アステラは大丈夫だよと太鼓判を押してくれた。きみはかわいいから、とアステラに言われると、なんだか少しドギマギした。

 今日の宿は広間の正面に立つ大きな建物だった。アステラがフードを取って額に張りついた髪を退けると、その建物の扉を叩く。迎えに出て来たのは若い女で、アステラと同じようなローブを纏っていた。ただ露出度が高い服装の上に羽織っているといった風情で、アステラと比べると少々だらしなく見える。

「師匠、お久しぶりぶりです」

「おや、きみか。騒がしいと思ったら義勇軍が戻って来ていたのね」

「はい。今日泊まらせていただきたいのですが、」

「もちろん大歓迎よ。子供たちも喜ぶわ」

 格好とは裏腹に、女はふふっと上品に笑った。アステラと同じような白い肌で、銀色の長い髪はうしろで編み込んで垂らしてある。どうぞ、と招き入れられた建物内は涼しく、窓が大きく取られているせいで風がよく通った。天井は美しいアーチを描き、それを支える柱の間にも綺麗なアーチが連なっている、見事な石造りの建物だ。奥の扉を潜った先は礼拝堂になっていて、布で隠された壁の奥に住居部へ続く扉があった。その先の回廊を抜けると、中心部には小さいながらも緑が溢れる庭がある。砂の大地では植物を見る機会が少ないが、都市部ではよく見かける光景のようだ。ネロは建物に入ったこと自体が初めてだったので、天幕とは全く違う作りに圧倒されてしまった。

 いちばん奥が旅人に開放している部屋のようで、真四角の部屋にシンプルな寝台が三台置かれていた。その他に家具といえば木製の箪笥が一台と小さなテーブルがそれぞれの寝台の間に置かれているだけだ。テーブルの上にはランプが置かれていたが、随分と古いものなのかガラス部分が煤けていた。

荷物を寝台へ下したアステラが、ひと息吐くように腰を下ろした。礼拝堂と比べて部屋の窓は小さく、立地のせいか陽が入らずに薄暗い。泊まるだけの部屋、といった風情なので、それで充分ことが足りるのだろう。所なさげにしているネロに、アステラが座ったらと声を掛けてくれた。おずおずと向かいの寝台に腰掛けると、古いスプリングがきしんだ。普段使っている寝床よりも随分と硬そうだった。

「ここは孤児院なんだ。さっきの子たちはここで暮らしている。そして僕の育った家ってところかな」

「ここで育ったの?」

「うん。さっきの女の人は僕の師匠で、王宮付の魔女なんだ。僕と同じ一族の出で、色々なことを教えてくれた」

 先程の女がそんな凄い人物のようには到底思えなかったが(随分と若く見えるからかもしれない)、子供たちの教育や世話を任されているというのだから見た目にそぐわず高名なのだろう。王都では孤児を保護しているが、元のシステムを作ったのは彼女である。王宮は政策として孤児の保護と育成を打ち出してはいるものの、その実態はあってないようなものだった。孤児院を作ったはいいものの、そこで子供を教育したいと名乗り出る者がいなかったからだ。それを見兼ねた彼女が王に意見を述べて、一から制度を作り直した。ここが王都の中でもいちばん大きな施設だが、働いているのは彼女だけだ。自然と歳が上の子供たちが下の子供たちの世話を焼き、助け合って生きていく術を学ぶのだという。義勇軍について行くまで、アステラはここで彼女の助手として暮らしていた。エトル呼ばれる彼女の本当の名は、アステラでさえ知らないらしい。

「アステラに魔法を教えてくれたのはあの人なの?」

「そうだよ。魔法だけじゃなくて、生きていくために必要なことは全てあの人から学んだんだ」

「てっきり、マティスとずっと一緒にいたんだと思ってた」

「僕は紛れもない孤児だったし、奴隷として売られそうになっていたところで、どうあがいても王宮に入ることはできなかったんだ。でも、マティスはできる限り逢いに来てくれたよ。入り口は閉まっている時間だったからこっそりそこの窓から入って来て、毎日欠かさず花束やプレゼントを持って来てね。女の子じゃないんだから要らない、って言っているのに、手ぶらなのは落ち着かないからって照れくさそうにしてさ」

 懐かしさに目を細めるアステラの表情は、恋をしている少女のように可憐だった。その様子を見ているとマティスが彼を戦いに同行させるのを嫌がったり、過保護なまでに手厚く護っている理由がわかる気がする。仲睦まじいふたりの様子はネロから見ても微笑ましく、軍の中ではもっぱら夫婦のような扱い方をされていた。マティスの傍にはアステラがいることが当たり前の光景であったし、そうでなければいけないと思わせるようなふたりだった。

 アステラからマティスとの馴れ初め話を聴いていると、ようやく本人が宿へと戻って来た。人々への対応に疲れたのか少々ぐったりとしていて、空いている寝台へと盛大に倒れ込む。おつかれさま、とアステラが苦笑うと、マティスが癒してくれと冗談めかして腕を彼の方へと広げた。それをアステラに軽くあしらわれると、大袈裟に残念がった。普段はそんなことをする男ではないので、ネロの気持ちを紛らわそうとしてくれたのかもしれない。

「なんの話をしていたんだ?」

「マティスがアステラに毎日逢いに来ていた話」

「ああ、アステラは強情だったからな。口説き落とすのに随分と苦労したんだ」

 にやりと悪戯な笑みを浮かべるマティスにアステラが呆れた。なにを言っているんだか、と溜息と共に吐かれた言葉にはしかし、俄に別の感情が滲んでいるような気がする。

「ネロがいる前でする話じゃないだろ。それに、王宮付きの騎士様が本気で男を口説くなんて思いもしなかったんだ」

「口説くさ。アステラは俺の宝物だからな」

 そう言う満足そうなマティスの声に、アステラの頬が赤く染まった。ふたりから見えないように顔を背けると、エトルに挨拶してくると部屋から出て行ってしまった。引き留めようとしたネロを、マティスが放っておけと止めた。

「アステラはすぐ逃げようとするのさ。あれも口実だ」

「あまり揶揄わない方がいいんじゃない?」

「揶揄ってねぇよ。アステラを見つけたとき、これが俺の運命だって思ったんだ。それを見す見す手放す馬鹿がいると思うか?」

「じゃあ口説いたって言うのも本当なの?」

「ああ、中々首を縦に振ってくれなくてな。俺にはもっと相応しい相手がいるだろうって」

「それでも諦めなかったんだね」

「そう簡単に諦めきれるなら口説いたりしないさ。アステラが昔売られそうになったという話は聴いたことがあるか?」

 そう問われて肯く。そうか、と微かに笑んだマティスが、宝物を見つけたと思ったんだと言う。両手を頭の後ろで組んで寝転がる彼が、そのときのことを思い出すように目を瞑った。そのまま長い脚を組む様は、古めかしい簡易寝台の上であってもとても絵になる。

「その日俺は偶々裏路地に迷い込んで、そこで闇取引を目撃した。当時騎士団長をしていたのは俺の父親でな、すぐに知らせに走ったんだ。安全な場所にいろと言われたんだが、好奇心旺盛な年頃の少年はこっそりと現場に戻った。そこで、鎖に繋がれた白い肌の少年を見つけた。怯え切ったアステラの目が俺を見たとき、この子は俺が命を懸けても護らなきゃいけないんだって感じた。まぁ、いわゆる一目惚れってやつだな」

「もし助け出されずに売られていたらどうなっていたの?」

「金持ちの慰み者にされるか、はたまたボロボロになるまで働かされるか。ネロ、お前もそうだが少数民族の生き残りはとても貴重な存在だ。アステラはそれに加えて魔法族の希少さが加わって、高値で取引されるところだった。もしあのとき俺たちが助け出していなかったら、お前も同じ運命を辿っていたかもしれない。アステラは運がよかっただけだ。幾ら治安がいいと言われていても、一歩裏側へ入れば人身売買なんて幾らでもある」

「俺、ここの孤児院に連れて来られたんだと思ってた。でもアステラが王宮に保護してもらうために王都に来たんだって」

「そうだな。騙すように連れて来たのは悪かった」

 マティスが起き上がって居住まいを正すと、ネロに頭を下げた。それからどうにも王都は苦手なのだと苦笑いを浮かべる。あんなに国民から歓迎を受けても、彼の心にはきっと消えないしこりのようなものが残っているのだろう。それでもネロのために、王都への帰還を決めてくれたのだ。ネロはまだ知る由はないけれど、彼はきっと部下に慕われる素晴らしい騎士団長だったに違いない。

「お前は水の民の生き残りだ。本来なら丁重に保護されるべきだ。それに、どうやら王子の婚約者でもあるらしいしな。知っていたか?」

「アステラから聴いた。でも父さんも母さんもなにも言ってなかったよ。アステラは王様が勝手にそうしたって言っていたけど」

「あいつがそう言うならそうなんだろう。突然知らない男と婚約しているって言われて戸惑うだろうが、王子はいい奴だよ。きっと気に入る」

「アステラも同じようなことを言っていた。でも、王子様が俺を気に入るかはわからないだろ?それにアステラが女の子のふりをした方がいいって。王子様が男だと知ったら驚くかもしれないからって、」

「そうか。まあ、お前なら大丈夫だろう。それにふりなんて必要ないさ。充分かわいいしな」

 マティスにそう言われて、アステラのときと同じようにどぎまぎした。ふたりに揃って同じことを言われたので、少なくともネロは王子に気に入られそうな容姿をしているらしい、ということだけはわかる。王都から知らせが来た日のことを、ネロはしっかりと憶えていた。父が王からの手紙を読むなり、それを届けに来た侍従に受けることはできないと怒鳴り返していたところを見たからだ。それが一方的な婚約の申し入れだったとしても、もうネロを守ってくれる両親はこの世にいない。

 王子のことはエリモスの跡継ぎだということ以外はなにも知らなかった。ふたりが話してくれた情報を繋ぎ合わせると、ネロと同じ年頃で、きっと相性がいいだろうということくらいだ。まだ誰かをすきになったこともないのに、見ず知らずの婚約者がいるらしいと言われたところで実感がわかなかった。それはきっと王子様も同じだろうな、と思うと少し気の毒だ。滅びた民の生き残り、なんてお荷物を押し付けられたようなものだ。

「王子様、かわいそうだね」

「どうしてそう思う?」

「だって婚約者が男なんだよ?女の子の方がいいに決まってる」

「王にとって子供って言うのは、勢力を盤石にする道具みたいなものだからな。お前たちのような少数民族たちは保守性を大切にしているけど、大国の支配者は違う。だから心配することはない。嫌なら顔を合わせずに過ごせばいいだけの話だしな」

「そういうもん?父さんと母さんは仲良かったけど」

「政略結婚なんてのはそんなもんだよ。まぁ、現国王は王妃以外の女は寄せ付けなかったようだが。とりあえず逢ってから考えようぜ」

 マティスが立ち上がってネロを部屋の外へと連れだした。見送ってくれたエトルが、アステラは先に行ったと教えてくれた。ネロはその言葉を聴いたマティスの表情に、一瞬心配が過ったのを見逃さなかった。

「アステラ、ひとりで大丈夫かな?」

「流石にこんな真昼間っから人攫いは出ないだろ。それにあいつは俺よりも強いしな」

「そうなの?」

「戦闘能力という意味で言えば、魔法が使える分アステラの方が強い」

「魔法使いとしては落ちこぼれだって言ってたよ?」

「まぁ、あいつは魔法を使わなくても充分強いぞ。それを俺には隠しているけどな」

「なぜ?」

「俺に護らせてくれるためだろ。そう言うところが健気でかわいいんだよなぁ」

 しみじみとそう言ったマティスが、そう思わないか?とネロの方を見た。随分と年上で頼れる大人に対してかわいいという感情は抱けなかったが、彼がアステラに対して充分な愛情を持ち合わせていることはよくわかった。

「マティスがアステラのこと、本当にすきなのはわかった」

「ああ、すきだよ。アステラがいなくなったら、って考えるだけで怖くなる。ネロもいつかわかるよ。絶望の中にも光をくれる存在っていうのに出逢えたら、人はそれを運命と呼ぶんだ」

 そう言ってしまったあとで照れ臭くなったのか、マティスが気を取り直すように咳払いをした。それから王宮へと続く大通りのそこここの露店や屋台を指差しては、あれはなんだこれはなんだと教えてくれた。通りは賑やかで、商品が詰まった籠を抱えた商人たちも多く行き来をしている。主人の跡を追う奴隷のような者もいたが、身なりはけして悪くはなかった。

 王宮は王都の中心にそびえる、広大な石造りの建物だ。煌びやかな装飾が施され、遠くからでもその絢爛さがよくわかる。周りは背の高い堅牢な壁で囲まれ、王宮付き魔法使いの防御魔法のお陰でどんな方法でも崩すことはできない。巨大な門の両側には武装した兵士が立ちはだかり、王宮へ行き来する者たちを厳しい目で見分している。その門を無事に抜けたら建物へと石段が続き、それを彩るような庭の豪華さは目を見張るものがあった。

 門の近くまで来たところで、アステラと鉢合わせた。マティスはアステラの様子で悟ったようだ。ネロはここまで来て門前払いを食らうことに少なからずショックを受けたが、大人しく来た道を戻るしかなかった。マティスとアステラがなにやら小声で話していたが、賑やかな喧騒の中では聞き取ることはできない。はぐれない様についていくのが精一杯だ。

 大通りを半分ほど過ぎたところで、アステラがネロを振り向いた。しゃがみ込んで目線を合わせてくれたその顔には、いつもの穏やかさはない。ネロに対して、というよりは、先ほど王宮でなにか気に食わない事態が起こったのだろう。

「ネロ、王様は忙しくて今日は逢えないそうだ。明日時間を作ってもらったから、今から新しい服を買いに行こう」

「俺、別にこの服でいいよ?」

 ネロはそう言ったが、アステラの意思は固いようだった。ネロの手を引くと大通りから伸びる路地を抜けて、一軒の店へと連れて行かれる。円形の比較的大きな天幕の中は、布がふんだんに使われていて薄暗かった。奥から店主らしき女が出てくると、アステラがひと言ふた言要望を告げる。マティスはやれやれといった風情でついて来ていたが、そのやりとりを眺める瞳には面白そうだと思っている気配があった。

「マティス、一体どうしたの?」

「アステラの話によれば、王様はお前のことを疑っているらしい。それと王宮に上がるのなら、相応しい格好で参上するようにって言われたそうだ」

「相応しい格好、って?」

「王子の婚約者に相応しい格好、ってことだろ。お前が本物だったら、そのまま囲い込むつもりなんじゃねぇの?」

「その上、その能力を示して見せろとも言われた!」

 店主が服を見繕っている間に、アステラが静かな怒りを爆発させた。いつだって優しかった彼が声に怒りを滲ませるさまは、普通に怒られるよりも何倍も怖い。マティスが苦笑って、宥めるようにアステラの肩を抱いた。ふたりがそうして寄り添っていると、ネロからすれば大きく見えたアステラも、マティスの腕の中では随分と華奢で小柄なように感じる。

 そうしているうちに、ネロは店主に呼ばれて奥の試着室へと連れて行かれた。女は思ったよりも歳で、顔に刻まれた皺に疲れが滲んでいる。ごつごつとした手に手伝ってもらいながら、ネロは服を脱いで誂えられた衣装に着替えた。肌触りのよい生地で作られた上着とズボンは上等品で、肌の露出は最低限に抑えられていた。薄暗い照明の中でも、生地に上品な光沢があることがわかる。

 女が着替え終わったことを告げて、ネロを試着室から追い出した。すっかり元の調子に戻ったアステラが満足そうに肯いて、代金を女の言い値で払う。彼の懐から現れた金貨の数に度肝を抜かれているうちに、試着室へと引き戻されて元の服に着替えさせられた。新しい服は綺麗な布に包まれて、アステラに手渡された。

「いい服が買えてよかったよ。ここの店主の目に狂いはないからね」

「本当にいいの?そんなお金どこから、」

「子供はなんも心配しなくていいんだよ。さて、美味い飯でも食って帰るか」

 マティスがネロの髪を無造作に撫でて、行こうとふたりを促した。ネロは釈然としなかったが、薄汚れた格好で煌びやかな王宮へ上がるわけにもいかないこともわかる。義勇軍には食べ物が豊富にあったし、資金に困っているということはないのだろう。それでも見ず知らずの子供に対してぱっと出せるような金額でないはずだ。

 ネロは前を行くアステラの横に並ぶと、その手を遠慮がちに握った。彼の眦が擽ったそうに弛んで、どうかしたのかと見下ろしてくる。それにネロは首を振ると、しっかりと礼を述べた。

「ありがとう、アステラ」

「いいんだよ。これは半分僕の見栄だから」

「見栄?」

「明日、きみを王子の婚約者として迎えさせる、っていう見栄かな。あんまりにも無碍にされたから、ちょっと頭に来たんだ」

「王様に逢ったの?」

「ううん。側近が王様からの伝言をくれたんだよ。ネロが本物だと証明できるのなら、明日相応しい格好で参上しろって。それだけ。マティスには労いの言葉もなかった。誰のお陰でクリソベリルの魔の手からこの国が護られていると思っているんだか」

「俺のことはいいよ」

 アステラの怒りが再燃しそうなところを、マティスが上手いこと宥めた。彼はまだなにか言い足りなそうにしていたが、ネロの手前怒りを鎮めることにしたようだ。丁度マティスが美味い店を見つけて、落ち着くことができたというのも、アステラの気分を落ち着かせる役に立った。夕飯前の店内には人は疎らで、漂う香ばしい香りが食欲を誘う。軍での食事は専任の料理人がいるわけではなく、兵士たちが持ち回りで担当していた。食材を煮たり焼いたりしただけのシンプルな料理が多かったので、料理人が作る手の込んだ料理を食べるのは久しぶりだった。

「ねぇ、アステラ。王様が俺を認めなかったらどうなるの?」

「そんなこと、考えなくても大丈夫だよ。きみが水の民の生き残りだってことは、僕たちがちゃんと知っているんだから。それにそんな失礼な扱いを受けるなら、きみを王宮に渡したりはしない」

「失礼な扱いをされなくても、王宮には入りたくない。ふたりを無碍に扱うような王様なんでしょう?」

「王子はそんな人じゃないよ。彼はきみを王からも護ってくれる」

「ネロ、俺たちと一緒にいるには危険が伴う。王宮にいた方が安全だし、優雅な暮らしができるんだぜ?」

「でも、ふたりと一緒に行きたい。他の民族たちに俺と同じような思いはさせたくないし、父さんたちを殺した奴らを許すことはできない。この手で仇を討ちたい」

 そう絞り出した声は小さかったが、強い決意を秘めていた。マティスとアステラは顔を見合わせたが、思案する瞳を一瞬だけ通わせたあとで、ネロがそう言うならと言ってくれた。

 店を出たあと、大衆浴場で汗を流してから孤児院へ戻った。子供たちの賑やかな雰囲気は伝わって来たものの、旅人の宿坊は離れた場所に造られているのかその姿は見えない。ふたりは少し話があるというので、ネロだけ先に部屋に戻った。寝台に横たわって天井を見つめながら明日のことを考えると、なんだか少し緊張してくる。どうせどうなっても結局はふたりと共に行くのに、逢ったこともない婚約者からでも拒絶されるのは哀しいなと思う。そんなことを考えていたせいで、ネロはふたりが戻って来たのちも、なかなか寝付けそうになかった。


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