蜃気楼の王国

なつきはる。

第一章

 その夜、ネロの世界は一変した。

 突如それまでの平和な世界が蹂躙され、あっという間に人々は地面へと転がされた。その光景は瞳に焼き付き、誰かに腕を引かれて身体を地面に倒されても、ぎゅっと瞑った瞼の裏側にこびり付いていた。砂の上に思い切り身体を押し付けられているせいで、肺が潰れて上手く息ができない。空気を吸おうと口を開くと、砂が入って不愉快だった。それでもネロを庇うように覆い被さる誰かは、その身を退けようとはしてくれない。

 苦しくて身悶えると、動かないでと言う厳しい声が聴こえた。それは普段優しくネロを呼ぶ母の声で、ネロは大人しく言うことを聴く。母の手が瞼を覆い隠し、静かにするようにと耳元で囁かれた。ふたりの周りを無数の人や馬が蠢き、蹴られた母が小さく呻く。無体に踏み荒らされる衝撃がネロの小さな身体にも届いた。そのたびに息が止まるのではないかと思うくらいに苦しくて、このまま死んでしまうのではと怖くなる。悲痛な泣き声と嘲笑う声が銃声や怒号と混じり合って、なにかを燃やす焦げた匂いがした。母の手に視界を遮られているせいで辺りを伺うことはできないが、ネロたちが暮らす天幕は破れて踏み鳴らされているに違いない。怖くて耳を塞いでも、指の隙間から周りの音が忍んで来る。

 母の手がずれた隙間から、すぐ近くに転がる身体が、誰かの靴に蹴り転がされるのが見えた。しゃがみ込んだ男が楽しそうな下卑た笑いを浮かべて、死体から金目の物を取り上げる。いつ自分に魔の手が伸びるのだろうと怖くて、ネロは身動ぎもできなかった。息を潜めて唯々、なにもかもが終わるのを待つ。無骨なブーツに覆われた足が母の身体を蹴ったが、ネロを守ろうとする意志がまだ骸に宿っているように、蹴り転がされはしなかった。母の身体の下でじっと息を殺していたネロは、幸い生きている者とはみなされなかったようだ。やがて喧騒が遠のいていき、そのうちなにも聴こえなくなった。

 そうしているうちにどうやら眠ってしまったらしい。ネロはいつの間にか身が軽くなっっていることに気づいた。覆い被さっていた母の身体は、誰かの手によってどかされていた。朝方の柔らかな光の中にしゃがみ込んでいた人影が、大丈夫かとネロに声を掛ける。瞼を上げて小さく肯くと、ネロが生きていることを知って安堵するように笑んだ。その人物にマントで身体を包まれると、その腕に抱き上げられた。温かで優しい腕はつい先ほど失った母を想わせて、胸が締め付けられるように苦しくなる。

「もう、大丈夫」

 そう言われて、すべてが終わったことを悟った。彼に抱かれたまま見回す惨状は見るに堪えがたく、ネロはすぐに目を伏せる。つい昨日まで生きていた人々の抜け殻が辺り一面に転がっていた。血にまみれて踏み荒らされた人々の、声にならない悲鳴が大地に沁み込んでいく。すぐ傍にいた母も息をしていなかったが、その顔は驚くほど穏やかだった。

「こりゃあ逃げおおせた輩はいねぇな。綺麗さっぱりやられている」

 別の男の声が聴こえて、ネロは屍の間を歩く人物が他にもいることに気づいた。すらりとして背が高く、よく鍛えられた体躯をしていることが、服の上からでも伺える。腰に無骨な剣を下げているのに気づいて、奴らの仲間ではないかと身構えた。腕の中のネロが身を固くしたことに気づいた彼が、大丈夫だよと優しく声を掛けてくれた。

「こいつは敵じゃない。もちろん僕もね」

「本当に?」

「本当さ。僕たちはきみたちを助けに来たんだよ」

 そう笑う彼の表情には、この惨状を目の当たりにしたあとの哀しみが滲んでいるように見えた。男が彼の腕の中にいるネロに気づいて、眉目秀麗な顔を満面の笑みに崩した。短く刈り込まれた金髪が、陽に透けて眩しい。生きていてよかったよ、とその顔に似合わない無骨で大きな掌に頭を撫でられると、ようやく身体の力を抜くことができた。

 子供に惨状を目の当たりにさせることに気が引けたのか、ふたりはネロを連れて彼らの拠点へと移動した。大きな天幕に通されると、中は広く清潔で、砂漠の強い陽を遮って涼しい。別の天幕には水場があって、彼がネロに付き添って身体の汚れを落としてくれた。新しい服に着替えると、怪我をしている部分はないかと身体中を検分される。幾つか痣や擦り傷はあったものの、あれだけの惨状を生き抜いた割にはたいしたことはなかった。おそらくは母が身を挺して庇ってくれたお陰だろう。

彼は医術の心得があるようだったが、どうやら魔法使いのようだった。擦り傷に彼が掌を翳すと患部が微かな熱を持つ。興味津々で見つめるネロを可笑しそうに笑った彼が掌をどかすと、患部は何事もなかったかのように綺麗になっていた。

「すごい!魔法は初めて見た!」

「そう。他に痛いところはない?」

「大丈夫!ねえ、皆のことも治せる?」

 もしかしたら、の希望を込めた言葉を、彼が静かに首を振って否定した。失った命を戻すことはできない、と言う哀し気な声は硬く、ネロの心に深く染み入った。そんなことはわかっていたはずなのに、僅かな希望が打ち砕かれたようで哀しくなった。涙で視界が滲んだネロを、彼が優しく抱き締めてくれた。

「失われた命は大地に還るんだ。それから地下の水脈を海へと辿り、空へと戻る。きみは水の民だから聴いたことがあるんじゃないかな?」

「長老様が言っていた気がするけど、よくわからない。ちゃんと教えてもらう前に、皆死んじゃったから、」

 そう言う声が震える。彼が穏やかなリズムであやすようにネロの背を叩いてくれたので、やがて気持ちが落ち着いてきた。父から人前で涙を流してはいけない、と厳しく言われていたが、その父も最早この世にはいないだろう。少しだけ、と言い訳をして彼に縋りつくと、小さく笑む気配が伝わって来た。

 長老はいつだか子供たちを前に、自分たちがこの民族に生まれついた意味を語ってくれた。その話を真面目に聴くにはネロはまだ幼く、この先も同じように口を酸っぱくして言われるのだろうと幼心に思っていた。周りの大人や子供たちも、ネロと同じような気持ちだっただろう。そうやっていつでも、ネロ達の一族は平和だった。長老でさえ記憶がないほど、長らく周辺の領地争いからは無縁だったからだ。

 ネロたちの民族は砂漠地帯の中にある、オアシス地域一帯で暮らしていた。水の民を名乗る彼らは、砂漠地帯においても地下にある僅かな水脈を探し当てる稀有な能力を持つ者が多い。世界中を探してもこの能力を持つ者は水の民を除いて他にはなく、民の中には己の能力に市場価値を見出して、色々な国を旅する者もいたくらいだ。その者たちは今頃も故郷の滅亡を知らずに、どこかで生き永らえていることだろう。

 水の民とひと言に言っても、誰しもがその能力を手にしているわけではなかった。親が能力者であれば子に受け継がれる、というわけではなかったからだ。幸いにもネロはその力を受け継いでいたものの、まだ能力を発揮したことはなかった。ただ生まれてからずっと、大地に眠る水の脈動をすぐ傍に感じて育った。その力は母なる大地と結びつき、やがてその身が亡びるとき、命と共に大地へと還る。能力を継承する仕組みは長老でさえ解き明かせない謎ではあったが、能力を有する者を見分けることは簡単だった。能力を持っている者は皆、どちらか片方の目が澄み渡った深い水の色をしていた。

「僕はきみが亡くした掛け替えのないものを、戻してあげる力は持っていない。でも、これからきみに色々なことを教えてあげることはできるよ」

「これから?」

「そう。きみは生きて行かなければいけない。きみたちの貴重な能力を絶やすわけにはいかないだろ?」

「どうして俺の能力のことを?」

「きみたちはとても保守的な民族だけど、言い伝えられていることもあってね。水に選ばれた者は片方の目が深い水の色をしている、って。きみの目を見ればわかるよ」

 少し身体を離した彼が、そう言って微笑んだ。ネロが慌てて右の目を掌で覆うと、その様子さえ可笑しそうに眺めている。助けてくれたことといい、どうやら彼は本当にネロの敵ではなさそうだった。彼に優しく手をどけられると、じっと見つめてくる瞳に戸惑う自分の顔が映っている。深いルビーレッドの色には、母に見つめられているような優しい慈悲が滲んでいた。

「その瞳は隠しておいた方がいいね。あとで方法を考えよう」

「そんなことできるの?」

「どうにかするさ。さて、まずは自己紹介をしよう。僕はアステラ。さっききみを怖がらせたのがマティス。きみは?」

「ネロ」

「ネロか。いい名だ」

 アステラがその目を笑みに細めて、ネロの髪を撫でた。なんだか子供扱いをされているようで恥ずかしくなったが、先ほどまで縋り付いて泣いていたことを思えば今更のような気がする。

「失礼します。アステラ殿、マティス殿がお呼びです」 

 入り口の外から明瞭な声がした。アステラがすぐに行くと返事をすると、行こうかとネロを促す。最初に通された天幕に戻る道すがら、ネロは涙を拭って何事もなかったようなふりをした。アステラの前では弱みを見せてしまったが、マティスの前ではどうにか強がっていられそうな気がしていた。

 マティスは天幕の中心に据えられた、大きな丸いテーブルでふたりを待っていた。彼の前に座るように促されて席に着くと、ネロの前にスープとパンと水が並べられた。そのいい香りそそられるように空腹がぐうと鳴く。向かいに並んだふたりが微笑まし気に笑んで、どうぞとネロを促した。どうしようもなく哀しくて絶望的な気分でも、どうやら腹は減るらしい。ありがたく木の匙を手に取って、スープをひと匙口に含んだ。空っぽの身体に染み渡るスープの味は優しくて、生きているのだと実感する。齧り付いたパンは少しパサついていたが、贅沢は言っていられない。がつがつと平らげながら、ネロの目から涙が零れ落ちた。それを見たマティスが、泣くか食べるかどっちかにしろよと笑った。

 食事を終えると、昨晩なにがあったのかを問われた。わからない、と首を振ると、ふたりがバツの悪そうな顔を見合わせた。その答えを知っている者がいるのなら、ネロが教えて欲しいくらいだ。あっという間の出来事は、今でも悪い夢のように思える。

 これは俺の憶測だが、とマティスが口を開いた。幼いネロを傷つけないように、慎重に言葉を選ぶような口ぶりだ。

「おそらく、きみの一族は領土を巡る争いに巻き込まれた可能性が高い。残念だが、俺たちが見つけた生き残りはきみひとりだ。捕虜として連れて行かれた者がいるかもしれないが、そこまではわからない」

「きみを守ってくれたのはお母さんかな?」

 そうだ、と示すように小さく肯くと、アステラが哀し気な笑みを浮かべた。なにかできることはあるかと問われたので、皆を弔って欲しいと伝えた。その願いはマティスが二つ返事で請け負った。ここからほど近いオアシスに民の墓を立てるつもりなのだと言ってくれた。水の民は水の近くの方が安らかに眠れるだろうから、と。

「ありがとうございます」

「俺たちにはこれくらいしかできねぇからな。お前も気が済むまでここにいるといい。行く宛てもないだろ?」

「でも、迷惑なんじゃ、」

「まさか。生き残った子供を放り出す大人はここにはいないよ。僕たちはエリモスの、」

「まぁしがない盗賊団だけどな。生きる術くらいは教えてやれるし、寝る場所や食べるものには困らない。いい話だろ?」

 アステラを遮ってそう言って笑うマティスに、彼が呆れたような視線を向けた。やれやれという風に溜息を吐いてから、こっちにお出でとネロを別の天幕へと連れて行く。

 その拠点の規模は、小さなネロにとっては広大だった。今までいた大きな天幕を中心に、ふた回りほど小さな天幕が円形に幾つも設置されている。その間の道をたくさんの人々が行きかっていて、さながら小さな町のようだった。

 アステラについて歩きながら、ネロは一瞬のうちになくなってしまった故郷を思った。水の民もここと同じようにオアシスを中心として天幕を組み、小さな町を形成して暮らしていた。小さな商店を営む者もいれば、家畜を飼って生計を立てたり、子供たちに勉強を教える者もいた。砂漠地帯にありながら資源は豊富で、必要な物資や食料は隣国からの行商人が度々売りに来たし、旅人たちが一夜の宿をもとめて来ることもあった。その町の規模は国を持たない民族たちの中では大きい方だったし、栄えていたと言えるだろう。

 マティスはここにいていいと言ってくれたが、その好意に甘えていいものか迷った。どうしてあの場に彼らがいたのかはわからないが、盗賊団だと言うのなら、騒ぎに乗じて金目のものを漁りに来た可能性だって否めない。それにしては拠点の規模が大きすぎるし、見目がよすぎるような気もした。見ず知らずの子供を助けてくれたアステラの背は大きく見えたが、面倒ごとを抱え込む必要性はどこにもない。彼らが本当にしがない盗賊団であるのなら、面倒ごとなどごめんだろう。

「あのっ!」

 勇気を出して声を掛けると、立ち止まったアステラがネロを振り向いた。力強く拳を握り締めると、爪が掌に食い込んで痛い。その痛みは、ネロの萎えそうな心を奮い立たせる。

 ネロと目線を合わせるためにしゃがみ込んだアステラが、どうしたのとその顔を覗き込んだ。肩に触れてくれた手が温かくて、奮い立った心がその優しさに甘えそうになる。

「本当に、ここにいていいの?」

「どうして?」

「面倒ごとを抱え込む必要はないと思って、」

「きみはそんなに厄介な存在なのかい?」

 揶揄するような声音の優しさは、ネロを面喰わせた。アステラが眦を笑みに弛めて、ここにいていいのだと言う。

「マティスはしがない盗賊団、なんて言っているけど、俺たちはエリモス王国の義勇軍なんだ。元々は王国騎士団だったんだけど、マティスが国を護るだけじゃ駄目だって言ってね。エリモスは大王国なんて謳われているけど、ここ最近周りの動きが物騒でね。争いに巻き込まれたきみたちのような人々を護るために、僕たちは旅をしているんだ」

「俺たちの他にもいるの?その、滅ぼされた民が」

「たくさんいるよ。国を持たない民族は数が少なくて希少だ。稀有な能力を持っていることも多いしね。裏では貴族たちに奴隷として高く売れるから、見目が麗しい子供たちが攫われて裏市場に出回っている。きみはとても幸運だった。お母様に感謝しないとね」

「感謝したって、もう戻って来ないのに、」

「そうだね。でも護って貰った命は大切にしなきゃ駄目だ。ここには滅ぼされた民族の生き残りが集まっているし、俺たちと一緒にいればきみの一族を滅ぼした奴らの情報が入ってくるかもしれない。どう?悪い話じゃないだろ?」

 たしかにそれは悪い話ではなかった。今は哀しみに暮れて路頭に迷っているネロに復讐に燃やす気力は残っていなかったが、ことの顛末が明らかになった暁には、奪われた無垢な魂たちの弔い合戦くらいはできるかもしれない。ふと、ネロを護るために身を犠牲にしてくれた、母の身体の重さを思い出した。父はきっと自ら前線に立って、反逆者たちに立ち向かっていたのだろう。威厳があって優しくて憧れだった父も、命を失えばただの骸だ。その姿を最後にひと目だけ見たかった。願わくは母と共に丁重に葬ってやりたい。

「さっきの人が皆の墓を立ててくれるって言っていたけど、俺も一緒に行ってもいい?」

「もちろん。お別れはちゃんと言わないとね」

 あんまり強く握ったら駄目だよと言われて手を開くと、常が食い込んだ部分から血が滲んでいた。その鮮やかな赤色は昨日の残虐を思い起こさせて、ネロはつい目を伏せる。アステラがきみは強いねと言って、その手をそっと握り締めてくれた。

「ねぇ、ネロ。きみは平民ではないよね?」

「父さんは族長だった」

「そう。じゃあ王子様か」

「父さんは王ではないよ?」

「国を持たない民族にとって、族長は王に匹敵する存在だよ。だからきみは守られるべき命だった。生き残ってくれてきっと皆も喜んでる。きみを護るために犠牲になったことを誇らしげに想う人もたくさんいるだろう。あとでその声を教えてあげるね」

「声?」

「僕には聴こえるんだ、死者の声ってやつが」

 悪戯っぽく笑ったアステラが、行こうかとネロを促した。綺麗に傷が消えた掌になにが起こったのか、ネロには上手く理解ができなかった。アステラに説明を求めても、明確な答えは返って来ないだろう。ネロもどうして水脈がわかるのかと問われても、その理由を答えることはできない。

「アステラは魔法使いなの?」

「そうだよ。落ちこぼれだけどね」

「怪我を治せるのに?」

「僕が治せるのはかすり傷程度だよ。命に関わるような大きな怪我は治せない。魔力の純度が高ければ、それこそ死んだ人を生き返らせることもできるらしいけどね」

「他にはどんなことができるの?」

「そうだなぁ。火を起こしたり、天気や星を読んだり、それくらいかな」

「お金や食べ物を出したりはできる?」

「魔法はなにもないところからなにかを作り出すことはできないんだ。だからお金を作っても時間が経てば消えてしまうし、食べ物はどこからか盗んでくることになる。魔法って言うとすごく便利なように思えるけど、純粋に自分の魔力でできるのはひとつかふたつくらいなんだよ。それが僕の場合は癒しの力と、死者の声を聴くことなんだ」

「そうなんだ。魔法使いっていっぱいいるの?」

 純粋な好奇心でそう問うと、アステラがどうかな、と言葉を濁した。特別な能力を持つ人間は希少価値が高いとされているが、魔法使いはどこに行っても重宝されそうだ。魔法というものがあるらしい、という話は母がよく語って聴かせてくれたが、それはあくまでも物語の中だけの話だと思っていた。考えてみればネロの能力も、呼ぼうと思えば魔法と呼べるかもしれない。

「昔はたくさんいたらしいけどね。今はあまり見かけないかな。大きな国にはお抱えの魔術師がいるみたいだけど、それ以外はあまり自分の能力を誇示するのを嫌う人たちだから」

「そうなんだ」

「昔、砂漠と森林の境に小さな村があったんだ。その一族は代々魔法の力を持って生まれて、高い魔法の技術を誇っていた。僕はその一族の末裔で、落ちこぼれって馬鹿にされていてね。でもある日、その村は一夜にして滅びた」

「俺と同じだ」

 呆気にとられたネロの言葉に、アステラが肯いた。穏やかな表情を浮かべてはいるものの、なにを考えているのか読み取ることはできない。アステラはその体躯から男であるとわかるものの、中性的な容姿をしていた。少し長めの銀髪は陽に透けて綺麗だったし、赤い瞳はその白い肌に映える。ネロの肌も白いが、砂漠地帯に暮らす人々の浅黒い肌の中にいると、一際目立つような気がした。

「大人たちは皆殺されて、子供たちはどこかの街へ連れて行かれた。僕もその中のひとりだった。でも、高い金で売られそうになっていたところをマティスが助けてくれたんだ」

「マティスも同じ民族なの?」

「ううん、彼は王国騎士団長の息子で、こっそり街に遊びに来ていたんだ。それで偶々裏道に入り込んで、偶々僕のことを見つけてくれた。そのときのことは、一生忘れないと思う」

「マティスはアステラのヒーローなんだね」

「そうかもね。あの日マティスが助けてくれなかったら、今の僕もいなかったわけだし」

 アステラはそれ以上過去のことを教えてはくれなかったが、ふたりがネロによくしてくれるのは義勇軍としての義務や使命を除いても、同じ境遇を辿った過去があったからだろう。一族を滅ぼされたネロの気持ちが、アステラには人一倍わかるのだ。自分もネロと同じように、滅ぼされていた一族の生き残りだったから。

 くねくねとした細道を擦り抜けた先の天幕は、少し外れた場所に立っているせいかよく目立った。大きさは中心のそれと同じくらいだろうか。どうぞ、とアステラが入り口の幕を捲り上げて、ネロを招き入れてくれた。内側は広くよく片付いていたが、先ほどの天幕とは違い、生活に必要なものが一式揃っている。旅をしている、と言っていたから持ち運べるような簡素なものだったが、それでも充分過ぎるくらいに豪華だ。

「ここは僕とマティスの家だからすきに使ってくれていいよ。部屋は余っているし」

「部屋?」

 円形の空間にはテーブルと柔らかそうな絨毯が敷かれているだけで、寝床がどこにもなかった。こっちだよと言われてついて行くと、側面の一部の布が間仕切りになっていて、その先には小さな空間があった。柔らかそうな寝台が設えられているだけの空間だったが、同じような空間があとふたつあるらしい。あつえられている布は柔らかな手触りで、上等なものであることが知れる。

「共同宿舎もあるけど、大勢と生活するよりはこっちの方が気楽だろ?食事は食堂で取れるからあとで案内するね」

 少し休むといいよと言って、アステラはネロを残して出て行った。ひとりになってようやく、すべてを失った実感が足下から迫上がってくる。柔らかな寝台に腰掛けると、そのまま仰向けに倒れた。もうなにもないのだなと思うと、虚無感と絶望がごちゃ混ぜになった感情が、ぐるぐると腹の中に渦巻いた。彼らの優しさに甘えることしかできない、幼い自分が不甲斐なかった。けれどその曖昧な感情の中に、明確な意志が生まれていることも感じる。

 もしこの先仇の存在が明らかになったら、この手で必ず復讐を遂げよう。その為だけに、母がこの命を護ってくれたような気がしてくる。そうでなければたったひとり生き残った絶望に、どう立ち向かえと言うのだろう?



 天幕を出たところで、アステラはマティスが所なさげにうろうろしているのを発見した。入ってくればよかったのに、と笑うと、どうしたらいいかわからなかったんだよと困ったように頭を掻く。先ほどはネロを前に威厳を保っていたくせに、ふたりきりになった途端にこれなのだから可笑しかった。普段は気を張って頼れる男であるくせに、アステラの前だけでは気を抜いて素を見せてくれるのだった。

 マティスを伴って中央の天幕に戻ると、中に誰もいないことを確認してから慎重に声を潜めた。そこは主に会議を開く場所で、大規模な遠征があるとき以外はあまり使われていない。隣り合って座ると、これからどうする?とマティスが問うてきた。

 ネロを匿うことに決めたのはいいものの、このままずっとそうだというわけにもいかない。水の民が滅ぼされた以上、王国に報告しないわけにはいかなかった。国を持たない民族たちはどの国にも属してはいなかったが、エリモスはその存在を認め、友好関係を築いていた。水の民もそのひとつで、つい最近族長の娘と王子の婚約を結んだくらいだ。それ程に王が心を砕く一族が壊滅させられたとあれば、只事では済まされない。

 族長の娘がどうなったのかは定かではないが、ネロも族長の息子だ。それにアステラが見る限り彼は無頓着だが、随分と見目麗しい容姿をしていた。透き通るような白い肌に、烏の濡れ羽色の髪がよく映えた。瞳は左が黒曜石で、右が深い水の色だ。その珍しさと能力が噂になれば、その身に危険が及ぶのは時間の問題だろう。

 アステラは考えた末に王国で保護してもらった方がいいのではないかと提案した。彼は今まで保護してきた生き残りたちを束にしても敵わない程の、希少価値を秘めていた。

「王に報告を上げるのは気が進まねぇなぁ」

「なにを言っているんだ。あの子の安全が第一だろ。それに、この件はクリソベリルの仕業に違いない。次はどこを襲うのかはっきりする前に、身軽になっておいた方がいいんじゃないか?」

 そうだな、とマティスは応えたが、その表情は先程よりもずっと浮かなそうだった。王国を頼ることがマティスにとってどれほど気が進まないことなのかを、アステラはよくわかっている。彼がどれだけ国のことを想っていたとしても、その気持ちが報われることはなかった。砂漠の果てからクリソベリル率いる蛮族が民族地域に攻め入って来たとき、王国軍は動こうともしなかった。当時第二騎士団を率いていたマティスが王に直談判し、ようやく出陣を認められたくらいだ。それでも最低限の兵の数しか許されなかったため、一端勢力を押し戻すことが精一杯で、防衛線を築くこともできなかった。それを発端とした侵略戦争が、今もまだ続いている。

 第二騎士団長だったマティスが義勇軍を募った際、王はいい顔をしなかった。あくまでも騎士団は国を護ることが使命であり、周辺民族を護ることは職務に含まれていないと言うのだ。この戦いの先にあるのはエリモスだとマティスがどれだけ力説しても、王は全く聴く耳を持たなかった。王国騎士団長の父でさえ、エリモスが陥落するとは考えてもいないようだ。結局マティスは騎士団長を解任され、その代わりに義勇軍を組織した。国民からは危険を顧みず民族を救う英雄として祀り上げられたし、第二騎士団の騎士たちは皆マティスと運命を共にしてくれた。けれど、それだけだ。

 これまで各地を転々としながら、義勇軍はクリソベリルから幾つもの民族を救ってきた。救えた民もあれば救えなかった民もあった。滅びた民族もひとつやふたつではない。その奮闘虚しく、クリソベリルは支配地域を広げ、支配民族が組み込まれた軍はどんどんと膨れ上がっていった。もはや義勇軍だけでは防ぎきれず、今回のように後手後手に回ることも多くなってきている。それでも王は見て見ぬふりを決め込んでいた。

「そんな顔するなって。お前がしていることは正しいよ。それは僕が保証する」

「それはわかっているんだが、」

「いつか王もわかる日がくるさ。それに、王子殿下が王位に着いたらすべて丸く収まる」

「それを待っていたら国が滅びるかもしれないぜ?」

「そうならないように、頑張っているんだろ。マティスに救われた人はたくさんいる。少なくとも、俺の世界を救ってくれたのはお前だろ?」

 浮かない顔をする頬を指で抓むと、たいして痛くないくせに大袈裟な反応を寄越した。ようやく笑ったその顔は少々不満そうだったが、王都に戻ることには同意した。

「早くこの戦いが終わるといいな。ネロのためにも」

「そうだね。それでいつか、しあわせにしてくれる人に出逢えたらいいな」

 僕がマティスに出逢えたみたいに、と言うと、彼が擽ったそうに笑ってアステラを抱き寄せた。そのまま眦へと唇が落ちてくると、そのこそばゆさに笑い声を上げる。物騒な世の中で生きてはいても、確実に安らげる時間が誰にでもある。そんな平和が続く時代を作りたいからこそ、マティスは戦い、アステラは彼が死なないように見守っている。

 彼の義勇軍に同行すると言ったとき、彼は頑として反対した。アステラの能力を見くびっているからではなく、大切だからこそ危ない場所へ連れて行きたくなかったからだ。けれどアステラも頑として譲らず、結局は反対を押し切ってついてきた。自分だけ安全な場所にいて、どこか知らない場所でマティスが死んでしまうのだけは耐えられなかった。護られるだけの存在にはなりたくなくて、こっそり武術や攻撃魔法の練習をした。護られる身に甘んじてはいても、いざとなったらマティスを庇う気概だけは持っている。


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