3月 崖っぷちの官女
2月も過ぎ、イベントにすがる日本人もそろそろ潮時かというときに耳が菱餅になるほど聴いたあの歌が流れてくる。
『お内裏様とお雛様2人並んですまし顔』
お内裏様はとなりの女雛も含めてお内裏様というのだから、これはお内裏様を男雛だと思わせるためのプロパガンダ曲なのかもしれない。
お気に入りのコートを着続けたくて、気温の上昇を憂いている私を知らぬように、割れたコンクリートからは異様に逞しいタンポポが生えてきていた。
奴らはこれだけ逞しいのに、気の抜ける名前をしている。ガガンボと名前を交換すべきだ。
と、私は百貨店のショーウィンドウを見ながら思う。
やはりもう春なのだろうか?
「あなたのコートももうかなり季節外れよ?」
「左様ですか」
「丁寧な言葉遣いね。雛人形の官女が偉いって知ってるのかしら。では上から目線でよろしくて?」
「ひな壇ひっくり返しますよ」
「百貨店のひな壇をひっくり返せる人がいたら驚きだわ。」
やけに元気な官女だ。
ほか二人の官女が冷めた目で見ているような気がするぐらい、元気な官女だ。
「ひな壇なのだから、せっかくなら女雛に化ければ良かったものを。ラブコメによくある『私なんかは釣り合わない』的な感じなのか?」
「それなら私は昼ドラの『社長の不倫相手』かしら?」
ここまで強気な官女を殺す社会とは、愛犬のために大復讐をする伝説の殺し屋も簡単に死んでしまいそうだ。
「汝よ。君も私も、はるか昔に良い人生を捨てている」
映画最長のセリフがこれだなんて驚きだろう?
「まったく、君も私も、はるか昔にいい人生を捨てているよ。」
それは官女さん、あなただけでは?
「そして、その心は?」
「仕事を辞めたんです。専務でした」
官女はそう言って肩を落とす。いや、デザイン的に元から割となで肩なのだけど。
それにしても随分といい役職だ。
しかし、二段目の官女なのだから副社長あたりでは?
「いえ、世間的に官女は『なんか偉そうだけど、影は薄い』というイメージですから。」
女官もこれには激怒するかもしれない。
だが、歴史的な知識を持っている人のほうが珍しいので、諸行無常としておこう。
「いい仕事でしたよ。下とは仲良く、上とは親しく。給料は良かったですが、一人暮らしなので持て余すものでした。」
3月とはいえ、日が照らなければ良い寒風の吹く街並みと、寒がりつつ風のように静かな歩く人々は下を向いているばかりだが、春一歩手前の木々や草木に気づけるのだろうか。
「しばらくしてある程度貯金もたまったので、その仕事を辞めたんです。一人で遊んで暮らしても小銭ぐらいのお釣りが来る余裕はあったので。」
それは余裕があるというわけではない気がするが。
「仕事を辞めた翌日、目覚めてから思ったんです。何をするべきなのかと。何をして生きていけばいいのだと。」
下ばかり見ているのに、見えているのはスマホの画面か、冷たい地面かの二択の現代人は貧しいものだ。
「私が専務だったんじゃなく、専務が私だったんですね。毎日を酷くうつろに過ごして、気づいたら日が落ちているか、日が落ちるのを死んだように待っているか。二択の私は貧しいものでしたね。」
「安定しているように見えて、私は崖っぷちに座っていたというわけです。座っていたから落ちなかっただけで、立ち上がってしまえば、そのあとは酷いものです。」
驚くほど早い開花のタンポポは、『下をよく見ていない通行人』に踏まれながらも、一枚も花弁を落とすまいと風に揺られていた。
言ってしまえばアレだが、タンポポは雑草寄りの雑草なのだから、これぐらい大したことではないのかもしれない。
「いくら酷い死でも、最期ぐらい外で果てたのですから、大往生でしょう。」
割と大きな音を立てて、その官女は落ちていった。
死に際ぐらい、静かにすれば良いものを。
それにしてもひな壇の人形を崖っぷちに座っているお人形として見ている化かした奴は、随分と斜に構えた視点だ。
私が言えたことではないのかもしれない、と思いつつ冷たいショーウィンドウを後にした。
もう少しこのコートは着られるだろうか。
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