ただ僕が終わるだけの悪夢
劉崎真一郎
第1話(全)
遠くで風が鳴る音が聞こえた。都会に住んでいてしばらく聞いたことがない、空全体から響く咆哮に聴こえる風の音。
子供の頃に旅行で行った高原でこんな音を聞いた。
遮るものがない所でないとこんな音はしない。雑木林の向こうから漂う不気味な雰囲気にせき立てられ、僕は力の入らない膝を無理やりに立たせた。
草の生い茂る空き地の周囲は全て雑木林に囲まれていた。
街灯の類、人工物は見当たらない。月明かりに照らされた地面と、真っ暗な木々。
霧が出ていた。木々の間を漂う霧は闇そのもののように暗く、不気味に広がってくる。
雑木林の奥に灯りが見える。
ポツンと小さく丸い灯りを見て、心の奥に暖かな気持ちが灯る。僕は人工的な灯りであれば、誰か人がいるだろうと考え、落ち葉の積もった雑木林の中に踏み込んだ。
灯りは小さく、近寄っても距離感がわからない。
雑木林のまばらに生えていた木々の間は、僅かに月明かりに照らされていたが、しばらくするとそれも届かなくなった。
霧が深くなってきた。木々の間に霞がかかって奥まで見通せない。それでも灯りは小さく灯っていた。
やがて、頼りにしていた明かりさえ見えなくなった。周囲は不気味に静まり返り、自分の息遣いさえ煩わしく聴こえる。
木々がこすれ合う大きな音に心臓が飛び跳ねる。音のした正面に目を凝らす。暗闇の中で何かが蠢いているような、そんな雰囲気があった。暗闇に目を凝らしてみても、真っ暗な闇しか見えない。
「くそっ」
恐怖心を叩きつけ、言葉を吐いた。
応じるように不気味に低い唸り声が、木々に間から聞こえてきた。
唸り声は僕の周囲を囲んで聴こえる。右や左から。チラチラと見える黄色く丸い灯り。あれは瞳の反射だ。野犬か、狼か、それとも何かの猛獣。
後ろを手で探って下がる。
唸り声も揺れる。
緊張の糸が切れ、僕は一気に後ろを向いて走り出した。
一方的に降りかかる理不尽な出来事。
「また」だよ。逃げなきゃ。
こういう不幸な出来事に理由なんかないんだ。相手の都合の押し付け。一歩的な暴力。それに振り回されるだけだ。逃げるしかない。
走る。
木の枝が身体にぶち当たるのも構わず走る。
茂みを揺らす音が左右から迫る。
早くも息切れする僕の後ろ、茂みから飛び出す音がして硬いものが背中にぶつかり思い切り前に突き飛ばされる。
毛むくじゃらの何かが覆い被さってきて、その顎を僕に向かって振り下ろす。それは僅かに顔の横に逸れて、落ち葉に噛みついた。
唾液の混じった唸り声。暖かくて生臭い息。
僕はそいつを押し退けようと手を伸ばした。
「ガフっ!」
僕の上に跨っていた巨大な犬のようなものが弾け飛んだ。押さえつけられていた身体が急に軽くなる。
何が起きたか分からず。身体を起こして木の間に目を凝らす。
木を押し除ける音。
甲高いブレーキのような叫び声、木製の板が軋み、壊れるような音。
悲鳴。
細い木の向こうで何かが起きている。黒い山のようなものが動いている。
絶え間なく肌が泡立つ。本能的な恐怖が、地の底から這い上がってきているようだった。
その黒い影となっていた何かは、巨体を起こして立ち上がった。
熊のような毛むくじゃらな体にウナギのような長い首がついている。手についた斧のような大きさの爪からは黒い液体が滴っていた。
いつは顔の先についているクチバシを伸ばして、バラバラにした野犬に喰いついた。
水音と咀嚼音。
あまりの事に動けなかった僕はそいつが食事をする様子をぼんやりと眺めていた。その怪物は太い腕を使って野犬を切り裂いている。
僕は逃げることもできず、よろけて後ろ向きに倒れた。
倒れたところにあった茂みが、大きな音を立て、怪物はその音に対して俊敏に背を起こし、そしてこっちを振り向いた。
僕は、茂みの枝が肌を切り裂くのもかまわずに、必死に立ち上がって逃げようとした。目の前の木の幹を回り込むのと、背後の怪物が甲高い奇声を上げるのとが同時だった。
何故だ。
茂みをかき分け、必死で前に進む。
木を避けられずにぶつかり、服が引っかかり破ける。
こんな理不尽があってたまるか。
寝て起きたら真っ暗闇で、訳のわからない怪物に襲われて逃げなきゃならないなんて。
明日の心配だけしていれば暮らせていたのに、今、アイツから逃げ延びなければ、たぶん命も無い。
あの巨体。しがない会社員の僕何が出来る。
普段から鍛えていけばよかった。息があがる。肺が腹が、全身が締め付けられるように痛い。逃げているだけなのに、ナマクラな体は既に悲鳴をあげていた。
木々の間を大きな音を立ててアイツが迫ってくるのが聞こえる。バキバキと木を薙ぎ倒す音がする。
なんで、
なんで僕ばっかり。
理不尽すぎるだろ。
突然、真横から身体を殴られ、木の間に転がった。木に叩きつけられた衝撃の後に、右腕と腹に衝撃がやってくる。
暗闇がより暗くなった気がした。
見上げると、数メートルはあろうかという熊のような獣が僕の上に覆い被さるように立っていた。魚類に似た頭の先、クチバシがカタカタと鳴っている。
チンピラに絡まれて一方的に殴られた時も、こんな歪な恐怖を感じたりはしなかった。ただ、理不尽で、避ける方法もなく、抗う術もないことは同じだと感じた。
そいつは僕の腕に食いつき、そして引き千切った。
身体ごと持っていかれ、強い衝撃と、肘が砕ける感覚。
あまりの痛みに意識が飛ぶ。
悲鳴をあげて、地面に叩きつけられたのは自分の身体だった。反動で身体が弾む。肺から空気が搾り出されてしまい、呼吸が出来ず、ただ咳き込むだけ。
僕はこんな怪物の餌になるのか。
視界もぼやけてはっきりしないけれど、近くで木々を掻き分ける音が聞こえている。
一方的に降りかかる理不尽な出来事には慣れている。
逆らうことも出来ない蹂躙。助かる希望も無くただ許しを請うだけのみじめな存在が僕だ。ただしこのケダモノに許される余地なんて無い。こいつの食事になるだけだ。
ただひたすら理不尽で惨めで損な役回りだった。何故僕だけが、こんな目に遭わなければいけないのか。
霞む視界の向こうに、巨大なケモノの姿が見えた気がした。
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この短編は、現在連載中の中編のプロローグ部分でした
本編ではスピード感を優先した都合でカットしています。
もしよければ、続きを読んでみてください
ただ僕が終わるだけの悪夢 劉崎真一郎 @sinichiro_R
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