第6話「専務の甘い言葉と、芽生える気持ち」
プロジェクトが本格的に動き出して一ヶ月が経った頃、蓮専務の私に対する態度が社内で噂されるようになっていた。
「なあ、聞いたか? 専務、最近白石さんのことばっかり気にかけてるよな」
「うん、見てて思う。会議でも、白石さんにだけはやけに優しいし」
「まさかとは思うけど、専務のお気に入りってやつ?」
そんなひそひそ話が私の耳にも入ってくるようになった。
噂されていること自体はあまり気分の良いものではない。でも、彼らが言うように、蓮専務が私にだけ特別な態度を取ってくれているのは、なんとなく感じていた。
例えば、会議で私が発言すると、彼は他の誰よりも真剣な眼差しで私を見つめ、深くうなずいてくれる。
私が作った資料のどんな小さな工夫も見つけては「ここのデザイン、洗練されていて良いな」と褒めてくれる。
そして、残業している私に、決まって温かい飲み物を差し入れてくれるのだ。
「あまり、無理はするな。君が倒れたら、このプロジェクトは停滞する」
そう言う彼の声は、心配してくれているようで、どこか甘く響く。
(そんなこと……。私がいなくても、このプロジェクトは回るのに)
彼の言葉は少し大げさだ。でも、そうやって私を必要としてくれることが、どうしようもなく嬉しかった。
ある日の夜、いつものように二人で会議室に残り、プレゼンの準備をしていた時のことだ。
私がパソコンの画面を見つめて唸っていると、後ろからすっと彼が身を乗り出して私の手元を覗き込んできた。
「どこで詰まっている?」
すぐ耳元で彼の低い声がした。ふわりと上質な香水の香りがして、心臓がドキリと跳ねた。
「こ、ここのグラフの配置が、どうしてもしっくりこなくて……」
「なるほど。それなら、この二つのデータを統合して一つの円グラフで見せてみてはどうだろう。インパクトが出るはずだ」
彼はそう言うと、私の肩越しに手を伸ばしマウスを操作した。彼の長い指が私の指先に触れそうになる。その距離の近さに息が止まりそうになった。
(近い、近い……!)
顔が熱くなって、彼の顔をまともに見ることができない。
「……どうだ?」
「は、はい! すごく、分かりやすくなりました! ありがとうございます!」
慌ててお礼を言うと、彼はふっと笑みを漏らした。
「君は本当に飲み込みが早いな。教えがいがある」
そう言って、彼は私の頭をくしゃりと優しく撫でた。
「え……!?」
突然のことに体が固まる。まるで子供をあやすような、その仕草。でも、その手つきは驚くほど優しくて、慈しむような温かさがあった。
「……他の男に、君の才能を見せたくないな」
ぽつりと彼がつぶやいた言葉。それはほとんど独り言のようだったが、私の耳にはっきりと届いた。
(他の、男に……?)
どういう意味だろう。その言葉の真意を測りかねて、私はただ彼の顔を見つめることしかできなかった。
彼は私の戸惑いを見透かしたように、すぐにいつもの冷静な表情に戻ると、「さて、今日はこれくらいにしておこう。送っていく」と言って立ち上がった。
「い、いえ! そんな、専務に送っていただくなんて……!」
「夜道は危ない。何かあってからでは遅いだろう」
彼の言葉は、有無を言わせない響きを持っていた。
結局、私は彼の運転する高級外車で、家の近くまで送ってもらうことになった。
静かな車内。流れていく夜景。緊張で、何を話していいのか分からない。
沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「白石さんは……、地味だと言われたことがあるか?」
突然の質問に、私は息をのんだ。翔太くんに言われた言葉が脳裏によみがえる。
「……はい。あります」
正直に答えると、彼はハンドルを握ったまま、まっすぐ前を向いて言った。
「それを言った人間は、節穴だな」
「え……?」
「君が、地味? 冗談だろう。世界中のどんな花よりも、君は美しく気高い。ただ、それに気づかない人間が多すぎるだけだ」
それは、まるで愛の告白のようだった。
信じられなくて、彼の横顔を盗み見る。街の光が彼の整った顔立ちを照らし出していた。その瞳は冗談を言っているようには見えなかった。
(世界中の、どんな花よりも……?)
そんなこと、言われたのは生まれて初めてだ。
胸が、きゅっと締め付けられるように痛い。嬉しいのに、切なくて、泣きそうになる。
「私は、君の本当の価値を知っている。だから、もっと自信を持つといい」
「専務……」
「『蓮』でいい。二人きりの時は、そう呼んでくれ」
「れ、ん……さん……」
名前を呼ぶだけで、恥ずかしくて顔が燃えそうだった。
彼は満足そうに小さく笑った。
車が私の家の近くの通りで、静かに停車する。
「ありがとう、ございました。送っていただいて……」
「ああ。また、明日」
車を降りて、彼の車が見えなくなるまで見送る。
一人になって、ようやく大きく息を吐いた。
(今の、夢じゃなかったよね……?)
頭を撫でられたこと。「他の男に見せたくない」という言葉。「世界中のどんな花よりも美しい」という、甘い囁き。
一つひとつを思い出すだけで、心臓が破裂しそうなくらい高鳴った。
これは、ただの上司と部下の関係じゃない。
もう、自分の気持ちに嘘はつけなかった。
私は、一条蓮さんのことが、好きだ。
その事実をはっきりと自覚した瞬間、嬉しさと同時に大きな不安が胸に広がった。
だって、彼は雲の上の人だ。私なんかとは住む世界が違う。
この気持ちは、決して報われることはないのかもしれない。
それでも。
この芽生えてしまった恋心を、私はもう止められそうになかった。
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