第5話「輝き始めた私と、焦る影」

 蓮専務にレポートを絶賛されてから、私の会社での立場は少しずつ、しかし確実に変化していった。

 プロジェクトの定例会議で、私は蓮専務に指名され、レポートの分析結果を発表することになった。各部署のエースたちを前にして心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張したが、蓮専務が隣で静かにうなずいてくれているのを感じ、なんとか最後までやり遂げることができた。

 発表が終わると、会議室は驚きと称賛の声に包まれた。


「すごい分析だな……。うちのマーケティング部でも、ここまで掘り下げたことはなかった」

「このデータは、今後の商品開発に大きく貢献するぞ」


 今まで雲の上の存在だと思っていた人たちから、次々に声をかけられる。私はただ恐縮して頭を下げることしかできなかった。


(私が、褒められてる……?)


 地味で目立たなくて、誰からも注目されることのなかった私が。まるで夢を見ているような気分だった。


 この日を境に、社内での私の扱いは明らかに変わった。廊下を歩けば「白石さん、この前の発表素晴らしかったよ」と声をかけられ、他部署の社員から仕事の相談をされることまであった。

 そして、変化は仕事面だけではなかった。

 自信がついてきたからか自然と背筋が伸び、うつむきがちだった顔もまっすぐ前を向けるようになった。すると、周りの景色が以前よりもずっと明るく見えることに気づいた。

 ある日の昼休み、同僚の女性に「白石さん、最近なんだか雰囲気変わったね。すごく綺麗になった」と言われた。

 お世辞だと分かっていても、嬉しくて頬が緩む。家に帰って鏡を見てみたら、確かに以前の自分よりも表情が明るくなっている気がした。


(もしかしたら、私、変われるのかもしれない)


 新しい服を買ってみようか。いつもと違う髪型に挑戦してみようか。そんな、以前は考えもしなかったような前向きな気持ちが次々と湧き上がってくる。

 私の世界は、蓮専務という太陽に照らされ、少しずつ色を取り戻し始めていた。


 もちろん、その変化を快く思わない人間もいた。

 高坂翔太くんと、姫川莉奈ちゃんだ。

 私がプロジェクトチームで活躍しているという噂は、すぐに彼らの耳にも届いていたらしい。


 ある日、給湯室で莉奈ちゃんと二人きりになった。彼女はいつもの猫なで声で私に話しかけてくる。


「紬せーんぱい。最近、すっごく頑張ってるんですねぇ。専務に、気に入られちゃったんですかぁ?」


 その言い方には、あからさまな棘があった。嫉妬と、探るような視線。


「……専務は、私の仕事ぶりを評価してくださっているだけです」


 私が冷静に返すと、莉奈ちゃんは唇を尖らせた。


「ふーん……。でも、あんまり調子に乗らない方がいいと思いますよぉ? 専務みたいな雲の上の人が、先輩みたいな地味な人を本気にするわけ、ないじゃないですかぁ」


「地味」という言葉がチクリと胸を刺す。でも、以前のような深い痛みは感じなかった。


(今の私は、もう地味なだけの私じゃない)


 蓮専務が、私を「宝石の原石だ」と言ってくれた。その言葉が私のお守りになっていた。


「ご忠告ありがとう、莉奈ちゃん。でも、私は自分の仕事に集中するだけですから」


 毅然とした態度でそう言うと、莉奈ちゃんは一瞬驚いたような顔をした。いつもおどおどしていた私にはっきりと意見を言われたのが意外だったのだろう。彼女は悔しそうに顔を歪めると、「知りませんからねっ!」と捨て台詞を残して給湯室を出て行った。

 少し、胸がすっとした。


 翔太くんの態度は、もっとあからさまだった。

 彼は私が他の社員から褒められているのを見かけると、あからさまに不機嫌な顔をするようになった。廊下ですれ違っても無視されることが増えた。


(どうして、そんな顔をするんだろう)


 私を捨てたのは、翔太くんの方なのに。私が地味でつまらないから別れたんじゃなかったの?

 私が変わっていくのが、面白くないのだろうか。

 彼の態度は正直に言って理解できなかった。でも、もう彼のことで心を悩ませるのはやめようと思った。今の私には、もっと大切で集中すべきことがあるのだから。


 プロジェクトの仕事は、ますます面白くなっていた。

 蓮専務は私に次々と新しいタスクを与えてくれた。市場調査の企画立案、新しいブランドコンセプトの策定、プレゼン資料の作成……。どれも私にとっては初めての経験で難しいことばかりだったが、彼の的確なサポートのおかげで一つひとつ乗り越えることができた。

 仕事が終わった後、二人で会議室に残って遅くまでディスカッションをすることも珍しくなかった。


「白石さん、このキャッチコピーは悪くないが、もう少しターゲットの心に刺さる言葉が欲しい。君なら、どんな言葉を思いつく?」

「そうですね……。例えば、『書く、を愛するすべての人へ』というのは、いかがでしょうか」

「……ほう、面白い。続けてみてくれ」


 彼はいつも私の意見を真剣に聞いてくれる。頭ごなしに否定したり馬鹿にしたりすることは絶対にない。対等なパートナーとして私を扱ってくれる。

 その時間が、私はたまらなく好きだった。

 彼と話していると、自分の中にこんなにもたくさんのアイデアや言葉が眠っていたのかと驚かされる。蓮専務はまるで魔法使いのように、私の潜在能力を次々と引き出していく。


 気づけば、私は彼のことばかりを考えるようになっていた。

 これは、尊敬? それとも、憧れ?

 あるいは……。

 その答えを見つけるのが少し怖くて、私は自分の気持ちに気づかないふりをした。

 ただ、ひたむきに仕事に打ち込む。それが、今の私にできる精一杯のことだった。

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