第22話 私の愛の定義
風が、舞台の幕を開けた。
夜明けの光は、その力を増し、雲の切れ間から降り注ぐ光の梯子は、屋上という名のステージに立つ三人を、世界の中心であるかのように照らし出していた。眼下の広場に集う無数の観客たちのどよめきが、風に乗って、意味をなさない音の塊となって届く。彼らは、これから始まる審判を、あるいは神託を、固唾をのんで待っていた。
三者は、動かなかった。ただ、その場の空気を、世界の視線を、一身に浴びていた。誰が最初に口を開くのか。その沈黙は、張り詰めた弦のように、極限の緊張を孕んでいた。
その弦を、最初に弾いたのは、エミルだった。
彼女は、静かに、一歩前に出た。それは、ほんの小さな一歩。だが、彼女がこれまでの人生で、自らの意志で踏み出した、最も大きく、そして最も重い一歩だった。
彼女は、もう誰かの後ろに隠れる、か弱い少女ではない。自らの渇望を認め、その渇望の名の下に、世界と対峙することを決めた、一人の人間だった。
その視線は、眼下の観客たちには向けられていなかった。白羽家の医療主任の、怒りに歪む顔など、もはや彼女の目には映っていない。彼女の瞳は、ただ一人、隣に立つ存在だけを、まっすぐに捉えていた。
シノン。
彼女の観測者。彼女の理解者。そして、彼女の渇望の、唯一の対象。
「シノンさん」
エミルの声は、風に掻き消されそうなほど小さかった。だが、それは、この屋上にいる他の二人には、そして彼女自身の魂には、何よりも鮮明に響き渡った。
「私は、ずっと間違っていました」
彼女は、独白を始める。それは、過去の自分自身への、決別の言葉だった。
「私は、他者を癒すことで、自分の価値を証明しようとしてきました。自分の心を空っぽにして、他人の痛みで満たすこと。それが『愛』なのだと、信じてきました。そう、教え込まれてきましたから」
その言葉は、眼下の白羽家の陣営に、鋭い刃となって突き刺さった。医療主任が、信じられないというように顔を蒼白にさせるのが、屋上からでも見て取れた。
「でも、それは偽物でした」
エミルは、続ける。その声は、少しずつ、力を取り戻していく。
「空っぽの器は、何も生み出さない。ただ、他者の感情を消費するだけ。それは共依存という名の、甘い牢獄でした。本当の意味で誰かと繋がることも、本当の意味で誰かを癒すこともできない、孤独な自己満足でした」
彼女は、そっと、自らの胸に手を当てた。
「貴女が、教えてくれた。私自身の、渇望のありかを。最初は、怖かった。自分の中に、こんなにも利己的で、熱いものがあるなんて、知りたくなかった。それは『失敗』なのだと、自分に言い聞かせてきました」
だが、と彼女は顔を上げた。その瞳には、夜明けの光が宿り、涙の膜の向こうで、星のように煌めいている。
「でも、今はわかります。この渇きこそが、私なんです。誰かを求めるこの心こそが、私が生きている証なんです。これを否定することは、自分自身の魂を殺すことでした」
そして、彼女はシノンに向かって、再び一歩、歩み寄った。二人の距離が、規程で定められた二メートルを、静かに破る。だが、もはやその境界線に、何の意味もなかった。
「私は、」
エミルの声が、震えた。それは、恐怖からではない。これから口にする言葉の、そのあまりの純粋さと重さに、彼女自身の魂が打ち震えているのだ。
「私は、あなたを癒したい。そして、あなたに満されたい」
その告白は、雷鳴のように、その場にいた全ての者の心を打った。
ルカは、息を呑んだ。エミルが、これほどまでにストレートな欲望を口にするとは。それは、彼女が知る、あの自己犠牲的な聖女の姿からは、最も遠い場所にある言葉だった。
眼下のゲーデルは、眉をひそめた。やはり、これは規程違反の、危険な感情の暴走なのだと。
だが、エミルの言葉は、まだ終わらない。
彼女は、涙に濡れた瞳で、しかし、人生で最も美しい微笑みを浮かべて、宣言したのだ。
「他者のためじゃない。世界のためでも、理想のためでもない」
「これが、私のための愛です」
その瞬間、エミルの身体から、光が溢れ出した。
それは、あの金色の嵐のような、荒々しいエネルギーの奔流ではない。
静かで、穏やかで、しかし何者にも揺るがすことのできない、強く安定した、純白の光だった。自己犠牲ではない、自己肯定から生まれた光。他者への依存ではない、自立した魂が放つ、共存を求める光。
その光は、屋上全体を、そして眼下の広場までもを、優しく包み込んでいく。それは、負の感情を無理やり浄化するような、暴力的な癒しではない。ただ、そこにある全ての存在を、ありのままに肯定するような、絶対的な受容の波動だった。
広場を埋め尽くしていた憎悪と困惑の空気が、その光に触れ、少しずつ、その毒気を抜かれていくのがわかった。
シノンは、その光の中心で、ただ静かに、エミルを見つめていた。
エミルの告白。その言葉の一つ一つ。そして、彼女が今放っている、この完璧に安定したエネルギー波形。そのすべてが、膨大なデータとなって、シノンの脳内を駆け巡っていく。
美しい。
その、あまりに非論理的な単語が、彼女の思考の中心を占拠した。
これまで彼女が解析してきた、いかなる数式も、いかなる物理法則も、この瞬間のこの光景の、完璧な調和と美しさを、記述することはできないだろう。
感情は、失敗ではない。
それは、世界で最も精緻で、最も高次な、情報伝達のプロトコル。
シノンは、ゆっくりと、手元の端末を操作した。そして、エミルの告白に対する、彼女なりの、最大限の返答を、静かに口にした。
「…データ、取得しました」
その声は、いつもと同じように、平坦で、温度がなかった。
だが、その言葉の奥には、科学者が真理を発見した瞬間の、荘厳なまでの感動が込められていた。
「それは、最も美しい波形です」
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