第23話 自由の防壁

エミルの告白が放った純白の光は、ゆっくりとその輝きを収束させていった。だが、その残響は、屋上だけでなく、眼下の広場に集う人々の心にも、確かに届いていた。憎悪と困惑に満ちていた空気は、奇妙な静けさに支配されている。まるで、激しい嵐が過ぎ去った後の、世界の朝のように。人々は、ただ呆然と屋上を見上げ、先程の現象の意味を測りかねていた。


だが、その静寂は、指導者たちの理性を麻痺させるには至らなかった。

「…見たか」

黒羽家のカゲヤマが、忌々しげに吐き捨てた。

「あれこそ、感情干渉の真の恐ろしさだ。大衆の心を、いとも容易く扇動する。もはや猶予はない。何としても、あの二人を確保しろ!」


「お待ちください」

白羽家の医療主任が、それを制した。その顔は蒼白だったが、瞳には未だ狂信的な光が宿っている。

「エミルさんは、混乱しているだけです。これ以上の刺激は、彼女の精神を回復不可能な領域へと追いやるかもしれない。ここは、穏便に…」


「黙れ!」

その二人を、マスター・ゲーデルの厳しい声が断罪した。

「君たちの家の思惑など、どうでもいい! あれは、もはや管理可能な現象ではない。学院の秩序を根底から覆しかねない、制御不能な脅威だ! 保安部、これより最終鎮圧プロトコルに移行する! いかなる手段を用いても、被験者三名を無力化せよ!」


ゲーデルの命令は、絶対だった。

広場に集結していた保安部隊が、一斉に動き出す。彼らの迷いは、より強力な命令によって上書きされた。彼らは、感情を再びオフにした機械の兵士となり、中央棟の入り口へと殺到し、屋上へと続く最後の階段を駆け上がってくる。その軍靴の響きは、大地を揺るがすようだった。


最後の防衛線が、破られようとしている。

エミルは、迫りくる脅威に、思わず身を固くした。せっかく掴んだ光が、再び暴力によって踏み消されようとしている。


その彼女の前に、そっと、一つの影が立った。

黒羽ルカだった。

彼女は、エミルとシノンを守るように両腕を広げ、屋上への唯一の入り口である扉を、たった一人で塞いでいた。


「……いいステージだったわよ、エミル」

ルカは、振り返ることなく、言った。その声には、いつものような皮肉ではなく、戦友を労うような、穏やかな響きがあった。

「あんたの愛の定義、悪くなかった。ちょっと甘すぎて、私には眩しすぎるけどね」


「ルカさん…」

「光の出番は、もうおしまい。ここからは、闇の時間よ」


ルカは、ゆっくりと首を巡らせ、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。

「あんたが世界を肯定したんだから、私が、その世界からあんたたちを守る防波堤になってあげないとね。フェアじゃないでしょう?」


そして、彼女は再び、迫りくる脅威へと向き直った。階段を駆け上がってくる、無数の足音。金属とコンクリートがぶつかり合う、無機質な響き。もう、扉のすぐ向こうまで迫っている。

ルカの唇が、獰猛な、そして歓喜に満ちた笑みを刻んだ。

守るべきものがある。そして、そのために振るう力がある。彼女は今、自らの存在理由の、そのど真ん中に立っていた。


やがて、屋上の扉が、外側から凄まじい力で蹴破られた。

武装した保安部隊員たちが、雪崩を打って屋上になだれ込んでくる。彼らの目は、規律と命令だけに支配された、ガラス玉のような瞳だった。


「さあ、いらっしゃい」

ルカは、両手を広げたまま、その濁流を前にして、一歩も引かなかった。

「この場所に、誰の理屈も持ち込ませない」


彼女の声は、静かだった。だが、その言葉は、見えない力の波となって、空間全体に広がっていく。


「ここが、私の自由だ」


その宣言が、引き金だった。

ルカの身体から、闇が溢れ出した。それは、エミルの光とは対極の、全てを飲み込み、全てを疑わせる、濃密な挑発のオーラ。だが、その力は、もはや特定の個人を破壊するための、鋭利な針ではなかった。

それは、屋上全体を覆う、巨大な、不可視の壁となったのだ。


なだれ込んできた保安部隊員たちの足が、ぴたりと止まる。

彼らの目に、困惑の色が浮かんだ。前に進めない。物理的な障害物は何もない。だが、彼らの精神が、前進することを、頑なに拒否しているのだ。


ルカの囁きが、彼らの脳内に直接響き渡る。

『本当に、撃てるのか?』

『お前たちが守ろうとしている秩序とは、一体なんだ?』

『その命令は、本当に正しいのか? お前自身の意志は、どこにある?』


その問いは、彼らが職務の名の下に封印してきた、最も根源的な疑念だった。エミルの光が人間性を呼び覚ましたのに対し、ルカの闇は、その人間性が持つ、矛盾と欺瞞を暴き立てる。

男たちは、互いの顔を見合わせた。これまで絶対的な仲間だと思っていたはずの同僚の顔が、今は得体の知れない他人のように見える。こいつは、俺を裏切るのではないか。こいつは、俺を犠牲にして手柄を立てるのではないか。

疑心暗鬼の毒が、彼らの精神を内側から蝕んでいく。統一されていたはずの意志は、無数の個別の不安へと分裂し、彼らはもはや一つの部隊として機能することができなくなっていた。


「通すわけないでしょう?」

ルカは、凍りついた彼らを見下ろし、嘲るように言った。

「貴方たち、命令と自分の意志の区別もつかないの? そんな空っぽの人形に、私たちの聖域を踏ませるわけにはいかないわ」


他者の本質を暴く力。それは今、聖域を守るための、絶対的な防壁へと転化していた。

ルカの背後に、まるで黒い翼の幻影が広がっていくのを、エミルは確かに見た。それは、かつて彼女が恐れていた、破壊の象徴ではない。全てを拒絶し、大切なものを守り抜くための、誇り高き守護の翼だった。


眼下の広場で、指導者たちは、その信じがたい光景に愕然としていた。

精鋭であるはずの保安部隊が、たった一人の少女を前にして、進むことも退くこともできず、立ち尽くしている。何が起きているのか、彼らには理解できなかった。だが、自分たちの権威の象徴である「力」が、完全に無力化されていることだけは、嫌でも理解できた。


シノンは、その一部始終を、冷静に、しかし内なる興奮と共に記録していた。

これだ。これこそが、彼女のテーゼの、最後のピース。

エミルの光が、異なる存在を「調和」させ、一つの肯定的な世界を創り出す。

そして、ルカの闇が、その調和した世界を守るための「境界」を創り出し、外部からの理不尽な干渉を拒絶する。

受容と拒絶。光と闇。

それは、対立する二つの力ではない。一つの健全な精神、一つの健全な世界を成り立たせるために、不可欠な両輪だったのだ。


舞台は、整った。

光の告白と、闇の宣言によって、旧い世界の攻撃は完全に封じられた。

あとは、この現象に、新しい名前と、新しい定義を与えるだけ。


シノンは、そっと、一歩前に出た。

彼女の手に握られたデータパッドには、今まさに完成した、世界の新しい設計図が表示されている。

彼女の最後のプレゼンテーションが、今、始まろうとしていた。

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