第21話 風の吹く場所

最後の扉は、力では開かれなかった。

背後から迫る保安部隊の足音。前方には、三つの正義が壁となって立ちはだかる。絶体絶命の袋小路。だが、三人は、もう物理的な突破など考えてはいなかった。


「今です」

シノンの静かな声が、合図だった。

三人は、背中合わせの円陣を組んだまま、そっと瞳を閉じた。そして、自らの魂を、一つの点へと集中させる。

エミルの内なる「渇望」。それは、シノンに認められたい、繋がりたいという、光の奔流。

ルカの内なる「守護」。それは、この三人の聖域を、何者にも侵させないという、闇の絶対的な防壁。

そして、シノンの内なる「探求」。それは、二つの感情が融合した先にある、新しい世界の定義を見届けたいという、理性の最も純粋な情熱。


三つの異なる意志が、一つの目的のために、共鳴した。


それは、あの金色の嵐の再現ではなかった。嵐のように無尽蔵にエネルギーを放出するのではない。全ての力を、針の先端よりも鋭く、一点に集束させる。

彼女たちの周囲の空間が、歪んだ。

それは、物理的な現象ではない。その場にいた全ての人間――ゲーデルも、医療主任も、カゲヤマも、そして保安部隊の職員たちさえも――の精神に、直接、一つの「感覚」が叩きつけられたのだ。


それは、恐怖でも、歓喜でもなかった。

ただ、圧倒的な「存在感」。

まるで、自分たちの目の前に、人間ではない、何か神聖で、侵すべからざるものが降臨したかのような、根源的な畏怖。彼らの敵意も、殺意も、その絶対的な存在感の前では、あまりに矮小で、意味をなさなかった。

誰もが、金縛りにあったように動けなくなった。スタンロッドを握る手が震え、呼吸さえも忘れる。


その、永遠にも思える一瞬の隙。

三人は、目を開けると、誰にも見咎められることなく、凍りついた敵たちの間をすり抜け、最後の扉を開けて、その向こう側へと駆け抜けていった。


旧東寮の屋上にたどり着いた瞬間、三人の肺を、雨上がりの冷たく清浄な空気が満たした。

じっとりとした廊下の空気とは全く異なる、生命の匂い。雨に濡れたコンクリートの匂いと、微かな金属臭。そして、全てを洗い流すように吹き抜けていく、強い風の音。

空は、分厚い雲が切れ始め、その隙間から、夜明けの、まだ力の弱い太陽の光が、幾筋もの光の梯子となって地上へと降り注いでいた。


三人は、しばらくの間、言葉もなく、ただその光景の中に佇んでいた。

走り続けた身体が、ようやく休息を求めて悲鳴を上げている。緊張の糸が切れ、安堵感が、疲労と共に全身を支配していく。

たどり着いた。

自分たちの、唯一の聖域へ。約束の場所へ。


「…やったのね、私たち」

ルカが、ぜいぜいと息を切らしながら、信じられないというように呟いた。その顔には、いつものような不敵な笑みはなく、ただ純粋な達成感が浮かんでいる。

「はい…」

エミルもまた、膝に手をつきながら、何度も頷いた。その瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。それは、悲しみや恐怖の涙ではない。自らの意志で、運命を切り開いたことへの、歓喜の涙だった。


シノンは、二人から少し離れた場所で、フェンスに寄りかかり、静かに眼下を見下ろしていた。

彼女の予測通り、学院の中枢は、今、大混乱に陥っていた。自分たちを追っていた保安部隊が、持ち場を放棄して右往左往している。中央棟からは、けたたましい警報音が鳴り響いている。

そして、屋上の真下の広場には、三つの勢力が集結しつつあった。

倫理委員会の部隊。

白羽家の医療チーム。

黒羽家の私兵。

彼らは、皆、憎悪と困惑の入り混じった表情で、この屋上を、まるで神の裁きを待つ罪人のように、見上げていた。


世界が、私たちを見ている。

その事実に、シノンは、これまで感じたことのない種類の、武者震いに似た感覚を覚えていた。

安堵感は、急速に薄れていく。代わりに、より大きく、より根源的な緊張感が、彼女の心を支配し始めた。

これは、終わりではない。本当の始まりなのだ。


「二人とも」

シノンは、振り返ることなく、静かに言った。

「見てください。あれが、私たちの観客です」


その言葉に、エミルとルカも、恐る恐るフェンス際へと近づき、眼下の光景を目にした。無数の人間が、蟻のように広場を埋め尽くし、一点だけを見つめている。この、屋上を。


「……何よ、これ…」

ルカが、呆然と呟いた。

「まるで、公開処刑じゃないの」


「いいえ」

シノンは、静かに首を振った。そして、初めて、彼女は振り返り、二人の仲間を、まっすぐに見つめた。そのガラス玉のような瞳の奥で、理性の炎が、かつてないほど激しく燃え上がっている。

「これは、処刑台ではありません。舞台です」


彼女の声は、風の音に負けないほど、凛と響き渡った。


「世界が、私たちを見ている。新しい定義が生まれる瞬間を、固唾をのんで見守っている。ここが、私たちの研究成果を発表する、最高の舞台です」


その言葉は、三人の戦いの意味を、完全に再定義した。

これは、もはや逃走劇ではない。個人の自由や生存を賭けた、ちっぽけな抵抗でもない。

世界の旧い秩序に対し、新しい真理を提示するための、公開討論会。アカデミックなプレゼンテーションなのだと。


その瞬間に、エミルとルカの中から、最後の迷いが消え去った。

恐怖も、不安も、まだ残っている。だが、それ以上に、自分たちが今、歴史的な瞬間の当事者なのだという、誇りと責任感が、彼女たちの魂を満たした。

自分たちの個人的な渇望も、守りたいという願いも、すべては、この世界をより良い場所へと更新するための、壮大な実験の一部だったのだ。


風が、一層強く吹いた。

それは、三人の髪を乱し、頬を叩き、そして、彼女たちの内なる決意を、世界へと運んでいくようだった。

三人は、もう何も言わなかった。ただ、眼下の世界を、そしてその世界にこれから叩きつけるべき真理を、静かに、そして力強く、見据えていた。


最後の契約は、言葉もなく、交わされた。

この場所で、自分たちのすべてを懸けて、世界の定義を、書き換える。

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