第20話 それぞれの正義
最後の扉を前にして、時間は凍りついた。
背後からは、統制を取り戻した保安部隊の足音が、死へのカウントダウンのように迫ってくる。前方には、三つの絶望が、それぞれの正義を纏って立ちはだかっていた。廊下の冷たい空気が、彼らが放つ重厚なプレッシャーによって、鉛のように重く垂れ込める。
「君たちの、愚かな遊びは終わりだ」
マスター・ゲーデルの言葉が、絶対的な法則のように響き渡った。その瞳には、規律を乱す異物を排除しようとする、氷のような殺意が宿っている。
だが、三人はもう、怯まなかった。この絶体絶命の状況こそが、彼女たちが自らの変革を証明するための、最高の舞台だったのだ。
最初に動いたのは、白羽家の医療主任だった。彼女は、まるで哀れな迷い子に語りかけるかのように、エミルに一歩近づいた。その表情は、慈愛に満ちた聖母の仮面を被っている。
「エミルさん。おやめなさい。貴女は、過ちを犯しているのです」
その声は、甘く、そして心を縛る呪詛だった。
「貴女が、そのように利己的な感情に身をやつしている間に、どれほど多くの人々が救いを求めて苦しんでいるか、おわかりですか? 貴女のその力は、貴女自身のものではありません。苦しむ人々を救済するという、我々白羽家が掲げる崇高な理想のために与えられた、神聖な器なのです。さあ、こちらへいらっしゃい。その小さな過ちを悔い改め、再び救済の道に戻るのです」
それは、かつてのエミルならば、抗うことのできなかったであろう、正義の言葉だった。自己犠牲という名の、甘美な毒。だが、今のエミルには、もう通じなかった。
彼女は、医療主任をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、もはや迷いはない。
「…いいえ」
エミルの声は、静かだったが、鋼のような強さを持っていた。
「貴女の言う『救済』は、偽物です」
「な…何を…!」
「誰かの犠牲の上に成り立つ救済など、ただの『消費』です。貴女たちは、私の魂を燃料にして、貴女たちの理想という名の火を燃やしているだけ。私はもう、空っぽの器にはなりません」
エミルは、自らの胸にそっと手を当てた。そこには、確かに、自分自身の「渇望」という名の、温かい熱が宿っている。
「本当に誰かを癒したいのなら、まず自分自身が満たされていなければならない。私は、それをここで学びました。私のこの渇望こそが、本当の意味で誰かと繋がるための、最初の光なのです」
それは、聖女の仮面を脱ぎ捨てた、一人の人間としての、魂の独立宣言だった。医療主任は、信じられないものを見る目でエミルを凝視し、その顔を怒りに歪ませた。
次に、黒羽家の怜悧な男――カゲヤマと呼ばれた彼が、ルカに向かって嘲るように言った。
「……聞いたか、ルカ様。随分と感傷的なお仲間ができたらしいな。いつからお前は、そんな甘っちょろい癒しごっこに付き合うようになった? 『守る』だと? 笑わせるな」
カゲヤマは、一歩前に出た。その全身から、弱者を蹂躙することを至上の喜びとする、純粋な力の信奉者のオーラが放たれる。
「我々黒羽家に宿る力の本質は、支配だ。強者が弱者を喰らう、それが世界の唯一の真実。お前はその頂点に立つべき存在なのだ。その力を、こんなくだらない友情ごっこのために使うなど、血の侮辱だ。さあ、目を覚ませ。そのくだらない幻想を壊し、我々と共に来い。本当の力の使い方を教えてやる」
それは、ルカがかつて信じていたはずの、力の正義だった。
だが、ルカは、その言葉を鼻で笑った。
「……まだ、そんな退屈なことを言っているの?」
彼女は、カゲヤマを、まるで時代遅れの化石を見るかのような目で見つめた。
「貴方の言う支配って、結局は一人ぼっちじゃない。誰にも心を許せず、全てを力で押さえつけるだけの世界。それの何が楽しいの? それは自由なんかじゃない。自分自身が作り出した、もっと大きな牢獄よ」
ルカは、そっと、隣に立つシノンとエミルに視線を送った。その瞳には、これまでにない、穏やかな光が宿っている。
「私は、見つけたのよ。この力で、守り抜きたいと思えるものを。誰かと共にいて、その温かさを知ること。それは、貴方のような孤独な王様には、一生理解できないでしょうね。そして…」
彼女は、不敵に笑った。
「守るべきものがある人間の方が、ただ壊すことしか知らない人間より、ずっと強いのよ」
それは、破壊者が、真の強さの意味を見出した瞬間の、誇り高き宣言だった。カゲヤマは、自らの信条を木っ端微塵に論破され、その顔を屈辱に引きつらせた。
そして、最後に、マスター・ゲーデルが、シノンへと向き直った。
彼の表情には、もはや怒りも、嘲りもなかった。ただ、深い、深い悲しみが宿っている。
「…やはり、君は行ってしまうのか。あの男と、同じ道を」
その声は、個人的な痛みを伴っていた。
「かつて、私にも友がいた。君のように、いや、君以上に才能に溢れた研究者だった。彼もまた、『恋愛』という感情の奥に、世界の真理があると信じ、我々の警告を無視して、禁忌の実験にのめり込んだ」
ゲーデルの瞳が、遠い過去を見つめる。
「結果は、惨劇だった。彼の暴走した感情エネルギーは、研究施設の一つを丸ごと吹き飛ばし、多くの優秀な人材を道連れにした。彼の愛した被験者も、精神が完全に崩壊し、二度と元には戻らなかった。私は、この目で見たのだ。感情という名の混沌が、我々が築き上げた理性のすべてを、いかに容易く破壊するかを」
彼の言葉は、規程の条文ではない。血を流す、生々しい体験談だった。
「私が守ろうとしているのは、旧い秩序ではない。未来ある若者たちが、同じ過ちを繰り返さないための、最後の防波堤なのだ。君のやっていることは、真理の探求などではない。歴史から学ばない、ただの傲慢だ。なぜ、それがわからない!」
その魂からの叫びは、シノンの心を、確かに揺さぶった。
だが、彼女は、もう引き返さない。
「……委員長。貴方の悲しみは、理解します」
シノンは、静かに言った。
「ですが、貴方とそのご友人が犯した過ちは、感情の深淵に挑んだことではありません。その現象を『失敗』と定義し、理解することを放棄してしまったことです」
シノンは、一歩前に出た。彼女は、もはや被験者の後ろに隠れる観測者ではない。この革命の、先頭に立つ指導者だった。
「貴方がたは、感情を制御不能なカオスとして、ただ封じ込めようとした。ですが、私は、それを解明可能な新しい変数として、私たちの理論体系に組み込もうとしています。過去の失敗があったからこそ、私たちは、より安全に、より深く、その本質に迫ることができる」
彼女の声に、初めて、明確な情熱が宿る。
「貴方が守ろうとしている秩序は、停滞です。そして、停滞は、緩やかな死を意味します。私たちは、歴史を繰り返すのではありません」
彼女は、エミルとルカを見、そして強く頷き合った。
「私たちは、その歴史の定義を、今、ここから、書き換えるのです」
それは、新しい時代の幕開けを告げる、宣戦布告だった。
ゲーデルは、その言葉に、もはや反論する術を持たなかった。シノンの瞳に宿る光が、かつての友が持っていた危険な輝きと、そして、彼が失ってしまった真理への純粋な渇望の、両方を映し出しているように見えたからだ。
彼は、ゆっくりと、そして悲しげに、首を振った。
「……言葉は、もう尽くしたようだな」
彼は、背後の保安部隊に、無言で合図を送った。
捕獲せよ、と。
最後の対話は、終わった。
それぞれの正義が、互いに交わることなく、最後の物理的な衝突へと向かう。
三人は、迫り来る保安部隊を前に、背中合わせに、円陣を組んだ。
絶体絶命。だが、彼女たちの心は、不思議なほどに静かだった。
自分たちが、今、何をすべきなのかを、完全に理解していたからだ。
「行きましょう」
シノンの声が、最後の合図となった。
「私たちの、約束の場所へ」
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