第19話 中央棟の攻防
夜明けの鉛色の光が、解錠された扉の隙間から、一本の鋭い剣のように差し込んできた。
その光は、始まりの合図だった。
「行くぞ」
ルカの低い声と共に、三人は同時に独房から躍り出た。冷たく、長い廊下。その先には、予測通りの数の保安部職員が、感情のない壁となって立ちはだかっていた。彼らの手には、精神活動を一時的に麻痺させるための、特殊なスタンロッドが握られている。
絶望的な戦力差。だが、三人の瞳に、もはや恐怖の色はなかった。地下の資料保管庫で交わした、あの最後の契約。それが、彼女たちを一つの、完璧に連携する生命体へと変貌させていた。
「左へ」
シノンの声は、囁くように小さく、しかし絶対的な確信に満ちていた。彼女の脳内では、この中央棟の全設計図が、無数の脱出ルートと敵の配置予測と共に、高速でシミュレートされている。彼女は、この戦いの頭脳だった。
エミルとルカは、その指示に寸分の迷いもなく従った。三人は、まるで訓練を積んだ特殊部隊のように、音もなく廊下の角を曲がる。だが、その先にも、別の部隊が待ち構えていた。彼らは、三人を包囲するように、じりじりと距離を詰めてくる。
「シノン!」
エミルが叫ぶ。
「問題ありません。計算通りです。エミル、彼らの敵意を」
「はい!」
エミルは、深呼吸すると、瞳を閉じた。そして、自らの内にある光――かつては他者を癒すためだけに使ってきた、あの受容のエネルギーを、全く異なる形で解放した。
それは、祈りではなかった。攻撃でもない。
ただ、純粋な共感の波動となって、空間全体に拡散していく。
「貴方たちも、辛いのですね」
その想いは、言葉にはならなかった。だが、保安部職員たちの精神に、直接届いた。命令に従うだけの機械であるはずの彼らの心に、エミルの光が、温かい雫のように染み込んでいく。
規律と職務の裏に隠していた、個人的な疲労。家族への想い。将来への不安。忘れかけていた人間的な感情が、不意に呼び覚まされる。
「…っ!?」
男たちの動きが、ほんの一瞬、鈍った。スタンロッドを握る手に力が抜け、その瞳に戸惑いの色が浮かぶ。敵意という名の硬い殻に、微細な龜裂が入ったのだ。
それは、わずかコンマ数秒の隙。だが、それで十分だった。
「今!」
ルカが、その隙を見逃すはずがなかった。
彼女は、エミルが生み出した龜裂に、쐐を打ち込むように、自らの挑発の力を解き放った。
「仲間を疑いなさい。貴方の隣にいるその男、本当に信用できるのかしら? 貴方の手柄を、横取りしようとしているんじゃないの?」
その囁きは、悪魔の毒だった。エミルの光によって人間性を取り戻しかけていた彼らの心に、疑心暗鬼という名の種子が植え付けられる。
「何を言っている…!」
「俺を疑うのか?」
「お前こそ、さっきから動きがおかしいぞ!」
男たちは、互いに顔を見合わせ、その目に不信の色を浮かべ始めた。完璧だったはずの包囲網が、内側から崩れていく。連携が乱れ、陣形が崩れる。
「素晴らしい連携です」
シノンは、その光景を冷静に分析しながら、次の指示を出す。
「中央階段は封鎖されています。西側の第二メンテナンス用通路へ。そこから上階を目指します」
三人は、混乱する職員たちの脇を、風のように駆け抜けた。
光が敵意を和らげ、闇が混乱を引き起こす。そして、理性がその混沌の中から、最適解を導き出す。それは、三人が初めて意識的に行った、完璧な共闘だった。
中央棟は、巨大な迷路だった。規則と管理によって張り巡らされた、無機質な回廊。その一つ一つが、彼女たちを捕らえ、その自由を奪うための罠。だが、今の彼女たちにとって、その迷路は、自らの能力を最大限に発揮するための、最高の狩場となっていた。
「もっと効率的なルートはないの!? このままじゃ、ジリ貧よ!」
狭い通路を走りながら、ルカが苛立ちを隠さずに叫んだ。追手の数は、減るどころか、徐々に増えている。学院全体のセキュリティシステムが、本格的に彼女たちを「脅威」として認識し始めたのだ。
「最短ルートは、敵の予測範囲内です。彼らの思考の裏をかく必要があります。次の角を、右へ」
シノンの指示は、常に冷静で、数学的だった。
だが、その角を曲がろうとした瞬間、ルカが叫んだ。
「待って! 右じゃない!」
「…何?」
「私の勘が言ってるのよ! 右は罠だわ! 左よ、今すぐ左に飛び込みなさい!」
それは、論理に対する、直感の反逆だった。
シノンの脳内シミュレーションでは、左のルートは行き止まりであり、生存確率は3%未満。右が、97%の確率で正解のはず。
だが、シノンの脳裏に、あの屋上でのルカの言葉が蘇った。
『壊すだけの自由は、もう退屈だ』
『あの場所を、守るのも悪くない』
この直感は、もはや単なる破壊衝動の産物ではない。守るべきものを見出した魂が放つ、未来予知にも似た、鋭敏な感覚。
シノンの思考は、一瞬で結論に達した。
「…了解しました。左へ」
彼女は、自らの計算を捨て、ルカの直感を信じたのだ。
三人は、左の扉へと飛び込む。その直後、右側の通路で、閃光と共に凄まじい電磁パルスが炸裂した。保安部が仕掛けた、高出力のスタンフィールド。もしあちらへ進んでいれば、三人まとめて意識を刈り取られていただろう。
「…ふん。私の勝ちね」
息を切らしながら、ルカが不敵に笑う。
「…ええ。貴女の直感という変数を、私の計算式に組み込みます。これより、ルート選定の優先権の一部を、貴女に委譲します」
「せいぜい、使いこなしてみなさいな」
理性と直感。これまで決して交わることのなかった二つの力が、極限状況の中で、初めて互いを認め合い、そして融合した。
それは、彼女たちが「共鳴的理性」という新しい段階へと、さらに一歩近づいた瞬間だった。
追手を振り切り、欺き、時には正面から突破しながら、三人は上へ、上へと向かう。目指すは、旧東寮へと繋がる、最上階の連絡通路。あと、もう少し。
だが、最後の扉を前にして、彼女たちは完全に足を止められた。
その扉の前には、これまでの保安部職員とは比較にならない、重厚なオーラを纏った一人の男が、腕を組んで立ちはだかっていた。
倫理委員長、マスター・ゲーデル。
その隣には、白羽家の医療主任と、黒羽家の怜悧な男が、まるで地獄の番人のように控えている。
「…そこまでだ、反逆者たち」
ゲーデルの声は、地響きのように、廊下全体を震わせた。
「君たちの、愚かな遊びは終わりだ」
その瞳には、もはや憐れみの色はない。ただ、規律を乱す異物を、完全に排除しようとする、冷徹な殺意だけが宿っていた。
三人は、追い詰められた。背後からは、追手の足音が迫ってくる。前には、絶対的な壁。
緊張と焦りが、高揚感を飲み込んでいく。
この絶体絶命の状況で、三人は、言葉もなく、互いに視線を交わした。
そして、静かに頷き合った。
ここが、正念場だ。
それぞれの正義と、それぞれの野心が、今、この場所で最後の火花を散らすのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます