第18話 雨音のプレリュード

夜が、学院を冷たい雨で洗い流していた。


それは、静かに世界を濡らす慈雨ではない。窓ガラスを絶え間なく叩き、屋根を打ち、排水溝を駆け下る、激しく、そして執拗な雨だった。その音は、これから始まる出来事を予告する、壮大なプレリュード。旧い世界の罪を洗い流し、新しい秩序のための地ならしをする、荒々しい浄化の儀式。学院全体が、この雨音の支配下に置かれ、息を潜めていた。運命の夜明けを前にした、最後の静寂だった。


独房に戻されたシノンは、机に向かっていた。灰色の部屋には、地下の資料保管庫から持ち出すことを唯一許可された、一枚のデータパッドだけがある。その画面に、彼女は文字を刻んでいた。それは、もはや観測者としての客観的なレポートではない。自らが発見した「温度」を、自らの内なる理性の炎で練り上げた、一つの理論。一つのテーゼ。世界の定義を書き換えるための、彼女の魂そのものだった。


『序論:感情エネルギーにおける『失敗』の再定義について』

『第一章:共感場理論における高次安定平衡モデル』

『第二章:受容(光)と挑発(闇)の相互作用がもたらす精神境界の再構築』

『第三章:観測者効果の能動的介在と、それによって生じる『共鳴的理性』という新概念』


雨音が、彼女の思考のリズムを刻む。これまで彼女が築き上げてきた論理のすべてが、今、エミルとルカという二つの特異点を通して、そして自分自身の内に芽生えた未知の感情を通して、再構築されていく。それは、冷たい数式に、生きた血を通わせる作業だった。彼女は、もはや現象を記述しているのではない。これから創造する未来の、設計図を描いているのだ。その横顔は、かつてないほどに真剣で、そして美しかった。


同じ雨が、エミルとルカを閉じ込める、厳重な隔離室の窓を叩いていた。

地下での再会と結束の後、二人は抵抗することなく保安部に身を委ねた。そして、移送前夜の最終措置として、二人きりでこの部屋に入れられたのだ。それは、委員会にとっては効率的な管理でしかなかったが、二人にとっては、嵐の前の最後の対話の時間となった。


部屋には、ベッドが二つあるだけ。殺風景な空間の中央で、エミルは窓際に座り、ガラスを伝う無数の水滴の軌跡を、ぼんやりと目で追っていた。一粒一粒が生まれ、他の粒と合流し、やがて大きな流れとなって下へと消えていく。まるで、人の想いのように。

彼女は、祈っていた。だが、それはもう、誰かに救いを求めるような、か弱い祈りではない。自らの内にある「渇望」という名の光を、その一点に集中させるための、静かで力強い瞑想だった。守りたい。あの場所を。あの時間を。シノンと、そして隣にいるこの片割れと共にいる、この奇跡を。その想いが、彼女の精神を、これまでにないほど強く、そして透明に研ぎ澄ませていく。彼女はもはや、他者の感情を受け止めるだけの器ではない。自らの意志で、世界に働きかけるための、光のレンズとなっていた。


部屋の隅の暗がりで、ルカはベッドの縁に腰掛け、静かに爪を研いでいた。

その手にあるのは、ベッドフレームの裏側から剥ぎ取った、小さな金属片。武器と呼ぶにはあまりに粗末な、ただの鉄の欠片。だが、彼女はその鋭利な切っ先を、まるで己の魂を研ぐかのように、一心不乱に磨き続けていた。

シュッ、シュッ、という微かな金属音が、雨音の合間に響く。

彼女の心は、驚くほどに静かだった。父が提示した「壊す自由」でも、学院が押し付ける「奪われる自由」でもない。自らが見出した「守る自由」。その目的が定まった今、彼女の精神から、かつて常に渦巻いていた焦燥と苛立ちは消え去っていた。破壊衝動は、その指向性を変え、一点を守るための、恐るべき集中力へと昇華されていた。彼女はもはや、他者を傷つけるための毒牙ではない。大切なものを守るためならば、自らが砕けることも厭わない、鋼の盾となっていた。


雨は、学院の外の世界にも、等しく降り注いでいた。

倫理委員会の審問室。マスター・ゲーデルは、一人、窓の外の闇を見つめていた。その顔には、勝利の確信ではなく、むしろ深い苦悩の色が浮かんでいる。「感情は人を狂わせる」。彼の脳裏に、遠い過去の記憶が蘇る。才能に溢れ、しかし禁忌に触れて破滅した、かつての同僚の姿。シノンを断罪することは、彼にとって、過去の過ちを繰り返させないための、苦い責務だったのだ。


白羽家の医療施設。医療主任が、一本のアンプルを冷光に翳していた。中には、無色透明の液体。『再調整』のための、精神初期化剤。エミルという奇跡の器から、自我という名の不純物を取り除き、再び完璧な「救済の道具」へと戻すための、最後の仕上げ。彼女の瞳には、理想に殉じる聖職者のような、狂信的な光が宿っていた。


学院を見下ろす丘に停められた、一台の黒いリムジン。その中で、黒羽玄真は、グラスの中の赤い液体を、楽しげに揺らしていた。彼の計画は、最終段階にあった。学院が双子を持て余し、その管理を放棄した時こそ、彼が合法的に二人を回収する絶好の機会。娘のささやかな反逆は、むしろ彼の計画を早めるための、良いスパイスでしかなかった。


それぞれの正義と、それぞれの野心が、この雨の夜を舞台に、夜明けという名の開戦時刻へと向けて、着々と準備を進めていた。


隔離室の静寂を、最初に破ったのは、エミルだった。

彼女は、窓から視線を外し、暗がりの中にいるルカへと、そっと問いかけた。


「…怖い?」


その声は、囁くように小さかったが、この静かな部屋では、驚くほど鮮明に響いた。

ルカの、爪を研ぐ手が、ぴたりと止まる。

彼女は、顔を上げないまま、短く、吐き捨てるように答えた。


「別に」


それは、いつものルカなら、相手を突き放すための、冷たい拒絶の言葉だったはずだ。だが、今のその声には、刺がなかった。ただ、自らの弱さを認めまいとする、子供のような意地だけが、微かに滲んでいた。


長い、沈黙が落ちた。

外では、雨が少しずつその勢いを弱め始めている。世界が、次の段階へと移ろうとしている気配。

エミルは、再び、窓の外に視線を戻した。ガラスに映る自分の顔は、青白く、頼りない。だが、その瞳の奥には、もう迷いはなかった。彼女は、自らの恐怖を、そして隣にいる片割れの恐怖をも、すべて受け入れる覚悟ができていた。


「…私も」


その言葉は、肯定でも、同情でもなかった。

ただ、同じ場所に立ち、同じ嵐に立ち向かう、対等な魂としての、静かな宣言。

私たちは、一人じゃない。

その、たった一つの事実が、言葉にならない膨大な情報となって、二人の間を行き交った。多くを語らずとも、互いの覚悟は、完璧に共有されていた。


ルカは、もう何も答えなかった。ただ、止まっていた手を再び動かし、最後の仕上げをするかのように、金属片の切っ先を、一度だけ、鋭く磨き上げた。


やがて、雨は完全にその音を消した。

東の空が、夜の闇を洗い流し、鉛色の、冷たい光を滲ませ始める。

夜明けだ。


その瞬間、隔離室の重厚な扉が、警告音と共に、けたたましい金属音を立てて解錠された。

最後の契約の場所へ。

三人の、そして世界の運命を決める、最後の朝が、来た。

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