第15話 雪の果て
【01】
火の国を離れて、世界は音を失った。
風は燃えず、ただ白い息だけが空にほどけていく。雪は音もなく降り、地平と空の境目を消していった。
焔は歩くたび、足跡の縁から薄い光を零した。皮膚の下の灯が、雪の白に透けて見える。体温が静かに後退し、指先の感覚が遠のく。
「……世界が、まっさらだ」
呟く声さえ吸い込まれて、雪に埋もれる。
雅は肩を寄せ、焔の頬に白い息を当てた。
「春まで生き延びよう。約束だ」
焔はうなずく。約束という言葉が、胸の奥で小さく鳴った。
歩幅は揃っているのに、影は揺れる。太陽は雲の向こうで薄く、ふたりの影は雪の下へ沈みこもうとしている。
焔の呼吸は浅い。吸いこむ冷気が胸の内側を磨き、要らない熱を削ぎ落す。残るのは、灯の芯だけ。
雅の掌が外套越しに脇腹を探り当て、そっと押さえる。そこに、かすかな脈動。
「いる」
雅が言う。
「生きてる」
焔は目を細めて、雪の粒を見た。ひとつ、掌に落ちる。溶ける。消える。けれど水は残る。——消えることと、残ることは、いつも一緒に来る。
遠くで、凍った枝が小さく鳴った。世界に唯一の音のように。
視界は白で満ちているのに、白の中に色がある。灰のような青、乳白の桃色、息の端にひらく薄い金。火の国で見た色が、冷たさのなかで静かに呼吸している。
「雅」
「ん」
「怖くないよ」
「知ってる」
ふたりは歩く。足首まで沈む雪が、一定のリズムで抵抗を返す。その抵抗が、まだ身体がここにあると告げる。
やがて、風向きが変わった。雪の粒が横に流れ、頬を撫でる冷たさが柔らぐ。低い地形のくぼみ——雪に半ば埋もれた石の影。
焔が立ち止まる。
「避けよう。夜になる」
雅は頷き、外套の襟を正して焔の肩に被せる。布の重みが、約束の手触りに似ていた。
白い世界のただ中で、ふたりの灯だけが、消えずに、かすかに燃えている。
【02】
夜がきた。
昼と夜の境など、白い世界にはもう存在しないのに、焔の灯が少しだけ濃くなった。
それが、夜の訪れを知らせる唯一の合図だった。
ふたりは雪に埋もれた祠を見つけた。
石の屋根はひび割れ、木の扉は片方だけ失われている。
けれど、壁の内側にはまだ息があった。
風を遮るだけで、世界はこんなにも静かになる。
焔は崩れた段差に腰を下ろし、外套をほどいた。
薄い光が彼の胸の奥で脈を打ち、衣の隙間から雪の色を照り返す。
指先がかすかに震えている。
雅は焔の隣に座り、膝を寄せた。
「痛む?」
「痛みは、もうわからない。冷たいのも、熱いのも」
その声が小さく揺れた。
雅は焔の背を抱き寄せる。
その腕の中で、灯の熱が自分の心臓と重なっていくのを感じた。
外の風が祠の隙間を鳴らした。
それは遠い鈴の音のようだった。
焔は目を閉じて、息を吸う。
白い気配が肺に満ちていく。
その中に、かすかな声が混じった。
——ありがとう。
焔の睫毛が微かに震える。
耳の奥で、懐かしい祈りの響きが広がった。
花守の谷の女の声。
鏡の湖の囁き。
風葬の丘の歌。
火の国の炎の拍動。
それらすべてが、雪に溶けて焔の中に戻ってくる。
「みんな、いるんだな」
焔の唇がわずかに動く。
「みんな、灯の中で生きてる」
雅はうなずき、焔の頬に手をあてた。
「おまえもだよ。おまえも、生きてる」
雪が降り続く。
音のない夜の中で、ふたりの呼吸だけが微かに重なっていた。
雅は焔の額に額を寄せ、そっと囁く。
「焔。眠れ」
「うん……」
焔の瞼が閉じ、灯の光がやわらかく脈を弱めていく。
祠の隙間から入り込む風が、ふたりの髪を撫でた。
外では、雪が深く積もっていく。
そのすべてが、世界の祈りのようだった。
雅は眠る焔を抱いたまま、空を見た。
白の果てに星はない。
けれど、焔の胸の灯が星のように瞬いている。
それが消えぬようにと、雅はその上に掌を置いた。
——灯よ、消えるな。
——春まで、連れていってやる。
祠の外で風が鳴った。
雪の音が、遠くの夢のように響いた。
【03】
夜がどれほど続いたのか、もうわからなかった。
焔が目を開けたとき、祠の隙間から光が差し込んでいた。
夜明けではない。雪の反射が空気の奥でぼんやりと明るんでいるだけだった。
それでも、その白さはやさしくて、どこか懐かしかった。
雅は眠っていなかった。
焔の頭を膝に乗せ、外の雪を見ていた。
その瞳は静かで、どこか遠くを見ている。
「……生きてるな」
焔が笑うと、雅は小さく頷いた。
「まだ、生きてる」
焔はゆっくりと起き上がり、胸に手を当てた。
灯の脈が、薄い。
自分の息が光になって、皮膚を透かしていく。
「雅。もし、これが消えたら——」
「消させない」
雅が遮るように言った。
焔は首を振る。
「違う。もし、だ。この灯が消えるとき、きっとおまえの中に移る。……そういうふうに、できてる気がする」
雅は沈黙した。
その沈黙に、雪の音だけが降り積もっていく。
「渡すってことか」
「ああ。俺の中の灯は、もう“喰うため”のものじゃない。渡すために、生まれ直したんだと思う」
焔は掌を広げた。
指先から、淡い光が零れ落ちる。
雪の粒と混ざって、白い霧のように溶けていく。
光は冷たくない。
触れた雅の手のひらに、微かな温もりが残った。
「……これは、おまえの?」
「ちがう。祈りの形」
焔の声は、雪の中でもはっきりと聞こえた。
「おまえに渡す。この旅で拾った灯を、全部まとめて。俺じゃ抱えきれなくなった。だから——おまえに託す」
雅は焔の手を握った。
指先の光が雅の胸へと流れ込んでいく。
痛みもなく、熱もなく、ただ深く沈んでいく。
胸の奥で、心臓がひとつ脈を打った。
それは自分の音であり、焔の音でもあった。
「……あたたかいな」
雅の頬に涙が一筋落ちた。
焔は笑って言った。
「灯は、泣いても消えないよ」
その瞬間、風が止んだ。
祠の外の雪が一斉に揺れ、世界が光で満たされた。
焔の身体がゆっくりと透けていく。
雅の腕の中で、重さが少しずつ軽くなっていく。
風が止んだ。
祠の外の雪が一斉に揺れ、世界が光で満たされた。
焔の身体がゆっくりと透けていく。
雅の腕の中で、重さが少しずつ軽くなっていく。
「焔……!」
「大丈夫。どこにも行かない。おまえの中に、いる」
光は穏やかだった。
痛みも、恐れもない。
まるで長い旅の終わりに訪れる、深い眠りのように。
焔のまぶたが静かに閉じる。
胸の灯はまだ弱く脈を打ち、その鼓動が雅の胸にやわらかく重なった。
「焔……眠ってるだけだな」
雅は掌を焔の胸にあて、確かめる。
ゆっくりとした、けれど確かな呼吸。
そのたびに、灯が微かに光る。
「そうか。……休んでいいよ。春が来るまで。」
呟いた声が雪に溶けて、光をやさしく包む。
外では、夜明け前の風が流れた。
祠の中には、ふたりの灯が寄り添うように揺れている。
世界は静かだ。
でも、確かに——生きている。
【04】
夜は、音のない器だった。
器の底で、雅は息を潜めていた。腕の中の焔の身体はまだ温かく、胸の奥で灯がかすかに脈を打っている。
その呼吸が途切れるたび、雪の音がそれを補うように降ってくる。
世界全体が焔の代わりに息をしている気がした。
——生きてる。
雅はその確信の中で、静かに目を閉じた。
やがて、雪明りが色を帯びた。
白の内側に、ごくうすい桃色が滲む。夜と朝の境目は線にならず、布のほつれのようにほどけていく。祠の口から差す光はまだ弱く、しかし確実に、世界の温度を一度引き上げる。
雅は焔の髪を撫で、囁いた。
「もうすぐ朝だ。……春が来る」
焔の唇がわずかに動いた。声にはならないが、かすかに息が返る。
それだけで充分だった。
雅は外套を整え、焔をそっと抱き上げた。
雪の白が広がり、風が止む。
足跡が二つ、祠の前から並んでのびていく。
世界はまだ眠っている。
けれど、確かに“息をしている”。
雪の下では水が動き、地の底で種が目を覚ましはじめていた。
雅は胸の中の灯を抱えながら、遠くの空ににじむ桃色の気配を見つめた。
東の端がかすかに明るんでいる。
白の中に春の色が差し込んでいく。
「帰ろう、焔」
小さくつぶやくと、腕の中の身体がわずかに動いた。
雪を渡る風が、その動きに合わせてやさしく鳴る。
——灯は消えていない。
まだ、生きている。
雅は微笑み、ゆっくりと歩き出した。
雪は深く、道はまだ遠い。
けれど、胸の灯が道を照らしている。
白い世界の端で、うすい春の匂いがした。
それは、たしかに“生きている”証の香りだった。
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