第14話 秋のはじまり
風が冷たい。
ひとつ、季節がめくれた。
草の穂が金色に光り、風の中で千の羽音のように揺れている。
太陽はもう真上にはなく、世界は少し傾いていた。夏の匂いは淡くなり、代わりに土と木の香りが立ちのぼる。
「秋だな」
焔が小さく呟く。
雅は振り返りもせずに頷いた。
「風の音が変わった」
「聞こえる。静かで、やさしい」
ふたりの影は長く伸び、
互いに寄り添うように地を這っている。
灯と影が均しくなり、世界が落ち着いた呼吸を取り戻していた。
道の脇には、赤い実をつけた灌木があった。
焔がひとつ摘んで、陽にかざす。
光を通すと、実の中に微かな火が宿って見えた。
「まだ燃えてる」
「それはおまえの火だ」
「おまえの影と混ざったやつかもな」
雅が笑う。
風が吹き抜けて、実がころりと転がった。
落ち葉がふたりの足元をくるりと巡り、ひとつの輪になって散っていった。
鳥の群れが南へ向かう。
空は高く、光はやわらかい。
その光を見上げながら、焔は言った。
「なぁ、雅」
「ん?」
「死にたいと思ったことがあったんだ」
「知ってる」
「でも、いまは違う。生きることが、こんなにも静かで、あたたかいものだとは思わなかった」
「春の国で言ってたろ」
「?」
「“春は終わらない”って」
雅は笑って、焔の手を握った。
「たぶん、あれは嘘じゃなかったな」
焔は少し照れて笑った。
「俺、そんなこと言ったっけ」
「言ったさ。偉そうに」
「おまえが覚えてるなら、それでいい」
道は丘の上へ続いていた。
登るほどに風が強くなり、木々が枝を鳴らして歌う。
丘の頂には、古い祠があった。
扉は壊れ、屋根も傾いている。
けれど中には、誰かが置いたばかりの灯がひとつ、小さく燃えていた。
焔はその灯を見つめ、そっと手を合わせた。
「……ありがとう」
誰に言うでもなく、ただ息のように。
雅が隣に立ち、肩越しにその火を見つめる。
「旅の終わり、か?」
「いや、まだだ。でも、ひとつの季節は終わった」
「次は?」
「冬を見てみたい。雪って、どんな匂いがするんだろうな」
「冷たくて、静かで、あたたかいらしい」
「それ、どっかで聞いた台詞だな」
「おまえが言ったんだよ」
ふたりは笑い、風に押されるように丘を降りた。
影が伸び、灯がそれを追う。
その先には、見たことのない空が広がっていた。
焔はふと足を止めた。
丘の向こう、白い花がひとつだけ咲いている。
秋に似つかわしくない花。
桃源郷で見た桃の花と、同じ形をしていた。
「……春は、終わらない」
焔がそう呟くと、風が花を揺らした。
花びらが舞い、空に吸いこまれていく。
それを見て、雅が言った。
「ほらな。春はどこにでも咲くんだ」
焔は笑って、その花の下に小さな灯を置いた。
風がまた吹き、灯がゆらゆらと花びらを照らした。
秋の空は高く澄んでいた。
ふたりの影は穏やかに並び、その上に金色の風が流れていった。
——春は、終わらない。
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