第5話 水底の祈り


【01】


 山を下りたあとの道は、まるで夢の続きみたいだった。

 焼け落ちた都の白がまだ空に残っていて、それが風に溶けるたびに、月の灰が降ってくるように見えた。


 夜は静かだった。

 虫の声もなく、風も息を潜めている。

 光も音もない場所に立つと、世界が眠っているように感じた。

 ああ、こんな夜をずっと知らなかった。


 やがて、谷の底に水の音がした。

 近づくと、霧の向こうに湖が見えた。

 底が見えないほど深い。

 それなのに、表面はまるで鏡みたいに澄んでいた。


「……ここが、“祈りの湖”か」


 雅が呟く。

 俺はうなずいた。


 湖面に映った月は、形が揺らいでいた。

 まるで、泣いているようだった。

 この水の底には、昔、祈りを捧げた巫女が眠っているという。

 死んでも祈りをやめなかった女。

 神に拒まれ、祈りのまま沈んだ女。


 俺はその話を思い出しながら、膝をついた。

 水面に手を伸ばす。

 冷たい。けれど、心臓の奥が静かになる。

 まるで、この水が俺の中の火を見透かしているようだ。


「焔、顔色が悪い」

「悪くていい」

「死にそうだ」

「死にゃしねぇよ。いまはな」


 そう言いながら、掌に溜めた水を見つめた。

 夜の光を吸ったような、深い青。

 その中に、自分の顔が映っていた。

 見慣れたはずなのに、どこか他人みたいだった。


 水の中で目が合う。

 俺の顔をして、俺じゃない誰かが笑った気がした。


 湖面が波打つ。

 月の影が砕ける。

 その奥で、何かがゆっくり動いた。


「……誰か、いるのか」


 声を出すと、湖が呼吸した。

 水の底から泡が上がる。

 泡の中に、細い指のようなものが見えた。


 手だ。

 白い手が、水の底から伸びている。


「焔!」


 雅が駆け寄る。

 けれど俺は、その手を見て動けなかった。

 ――祈るような手だった。






【02】


 湖の底から伸びてきた手は、

 俺を掴もうとも、引きずり込もうともしていなかった。

 ただ、祈っていた。


 月の光が波に砕け、泡の粒が散る。

 その中から、女が現れた。


 白い髪、閉じた瞳。

 唇は動かないのに、声が流れ込んでくる。

 水そのものが彼女の声だった。


『……祈りを、続けているの』


 声を聞いた瞬間、胸の奥が疼いた。

 それは痛みよりも、懐かしさに近かった。

 聞き覚えのない声なのに、なぜか、ずっと前から自分の中にあった気がした。


「お前が、祈りの巫女か」

『名は、もうないわ。祈りに名前は要らない』


 女は静かに微笑んだ。

 その笑みが、俺の胸の奥を裂いた。


「……なぜ、俺のために祈ってた」

『あなたが、もう祈れなかったから』


 その言葉が落ちた瞬間、水面がわずかに揺れた。

 湖が、息をしたように。


 俺の頭の中に、声が響いた。

 ひとつじゃない。

 幾つもの声が重なり合っている。

 子どもの頃の俺の声。

 泣きながら笑っている母の声。

 怒り、恨み、孤独、すべての音がひとつになって流れ込む。


 ――生きたい。

 ――赦されたい。

 ――誰かに、愛されたかった。


 体の奥で何かが割れた。

 それは光でも音でもない。

 長いあいだ沈めてきた、“人間としての俺”が溢れ出す音だった。


『あなたが忘れた祈りは、ここでずっと、形になるのを待っていたの。』


 巫女の声が静かに響いた。

 その瞬間、理解した。

 この女は、誰かじゃない。

 俺の中に取り残された“祈り”そのものだ。


 壊して、燃やして、踏みにじっても、消えずに残ったもの。

 生きたい、愛されたい――

 そんな“弱さ”のかたまりが、いま、俺の目の前で人の形をしていた。


 水面の上で、雅の声が聞こえた。


「焔、離れるな!」


 その声を聞いた瞬間、巫女の姿が水に溶けていく。


『行きなさい。あなたは、まだ生きている』


 その声が消えるのと同時に、湖の底が開いた。


 水が割れ、闇が呼吸を始める。

 次の瞬間、俺は引きずり込まれた。

 水底の記憶へ――。





【03】


 息をしている。

 水の底なのに、まだ息ができた。

 暗くて、冷たくて、それでもどこか懐かしい匂いがした。


 足もとに、光があった。

 青とも白ともつかない色が、ゆっくり揺れている。

 その中心に、ひとりの少年が立っていた。


 渚――。


 その名を呼ぶ前に、胸が締めつけられた。

 顔も声も、あの夜のままだった。

 俺が陰間茶屋に売り飛ばした、あの時の姿のまま。


 彼は何も言わなかった。

 ただ、笑っていた。

 いつもみたいに。

 俺を責めなかった、あの笑い方で。


「……なんで笑う」


 声が震えた。


「お前、俺を恨んでねぇのか」


 渚はゆっくり首を横に振る。

 その仕草すら、懐かしい。


「俺はお前を――」


 言葉が出なかった。

 喉の奥に熱いものが詰まって、呼吸がうまくできない。


「俺は、お前を壊したんだぞ。売って、捨てたんだぞ。なのに、なんでそんな顔できんだよ!」


 水が震えた。

 怒鳴っているのに、声が届かない。

 渚の表情も揺れなかった。

 まるで、すべてを受け入れているようだった。


『兄さん。』


 声が、頭の中で響いた。

 水の外じゃなく、俺の中から。


『兄さんは、ずっと苦しかったんでしょう。父さんと母さんを殺した夜も、僕を売ったあとも。でもそれでも、僕は兄さんを嫌いになれなかった。だって――兄さんは僕を生かした。』


 「生かした」


 その言葉が、胸の奥で爆ぜた。

 痛みが、温かい。

 自分が一番欲しかった言葉を、

 ずっと聞きたくなかった。


「……赦すなよ」


 泣くように言った。


「お前が俺を赦すから、俺はずっと生きづらかった。恨んでくれたら、どんなに楽だったか……!」


 渚は微笑んだ。


『僕は兄さんの痛みごと、もらったんだ。だから、兄さんはもう祈らなくていい。代わりに僕が、兄さんの中で祈るから。』


 その瞬間、水が光った。

 渚の体が泡のようにほどけていく。

 光の粒が俺の胸の中に流れ込む。

 あたたかい。

 痛いほどに、あたたかい。


 息ができない。

 叫びたいのに、声にならなかった。

 ただ両手を伸ばして、光を抱きしめた。


「……ごめん、渚」


 泡の中で言葉が消える。

 それでも確かに届いた気がした。


 光が消えたあと、胸の奥に脈があった。

 それは鼓動じゃない。

 渚の祈りの音だった。


 ――赦しは、呪いじゃない。

 生きていくための火だ。


 そう思ったとき、水底にあった闇が、静かにほどけた。

 俺は浮かび上がっていった。






【04】


 ――風の音がする。


 いつの間にか、俺は湖の上に浮かんでいた。

 体が重いのに、痛みはなかった。

 水面に月が映っていて、波のたびに形を変える。


 息を吸った。

 胸の奥で、確かに脈があった。

 それはもう、俺だけの鼓動じゃない。

 渚の祈りが、ここで生きている。


「焔!」


 岸の方で、雅の声がした。

 俺は目を開けたまま笑った。


「……寝てた」

「お前なあ、洒落にならねぇぞ」


 雅がずぶ濡れで駆け寄ってきて、そのまま俺を抱き寄せた。


 あたたかかった。

 火よりも、水よりも。


「生きてるな」

「ああ」

「やっとだ」


 雅の手が震えていた。

 その震えが、なんだか嬉しかった。

 俺が生きてることを、この男が確かめてくれている。


「雅」

「なんだ」

「俺さ、やっとわかったんだ。赦されるってのは、許しをもらうことじゃねぇんだな」

「じゃあ、なんだ」

「生きていくってことだ。痛みごと、祈りごと、背負ってさ」


 雅が目を細めた。


「……お前、難しいこと言うようになったな」

「お前がうるせぇから、伝染った」

「生意気言うな」

「惚れてんだろ」

「うるさい」


 互いに笑った。

 夜が明け始めていた。

 湖の水が白く輝いて、沈んだ祈りがひとつずつ光に変わっていく。


 俺は立ち上がって、空を見た。

 雲の向こうに、まだ薄い月が残っている。

 もう誰にも喰われない月。


 胸の奥があたたかい。

 渚も、巫女も、みんなこの火の中で生きている。

 俺はその証を、ちゃんと抱えている。


「行こうか」

「どこへ」

「遥か彼方まで」


 雅が笑ってうなずく。

 朝の風が、髪を撫でた。

 冷たくて、優しかった。


 俺は歩き出した。

 罪も祈りも、もうどちらでもいい。

 この足で、生きていく。

 それだけだ。

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