第4話 月を喰らう都



【01】


 風がやんだあと、しばらく歩いた。

 峠を下りきると、世界がひらけた。

 その先にあったのは、光だった。

 光が街を包んでいた。

 家も道も、空も水も、全部が白に溶けている。


 「……都か?」


 雅の声が遠い。

 俺はうなずいた。

 息を吸うと、肺の奥まで光が入ってくるようだった。

 眩しさよりも痛みが先に来る。

 光は暖かくも、優しくもない。

 生き物の熱を奪うような光だ。


 通りに人影はなかった。

 けれど、窓の中には灯が揺れている。

 灯を持たぬ街。

 光が多すぎて、火がいらない。


「……嫌な場所だな」

「清められすぎてる」

「清めるって、つまり殺すことだ」

「お前、どこでそんな言葉覚えた」

「生きてりゃ勝手に」


 雅が口を結ぶ。

 俺たちはしばらく無言で歩いた。

 靴音だけが白い石畳に落ちて、ゆっくりと吸い込まれていく。


 風が吹かない。

 音も匂いもない。

 それなのに、背筋を伝う寒気は止まらなかった。

 ここは、世界の果てに似ていた。


 広場の中央に、巨大な月の像があった。

 真白い石でできた女神が、天を仰いで口を開けている。

 その口の中で、黄金の球が燃えていた。

 ――月を喰っている。


「祈りの都、って聞いたことある」


 雅が小さく呟く。


「病を癒す祈りを捧げれば、光が身を清めてくれるって」

「癒す、ね」

「嘘だと思うか」

「光がこんなに痛ぇのに?」


 女神像の足元には、祈る人々の影がいくつも刻まれていた。

 跪いたまま、動かない石像たち。

 光を浴びすぎて、魂の形だけ残したもの。


 俺はつぶやいた。


「これが……祈りの果てか」


 雅がこちらを振り向く。


「焔、体が……」


 見ると、手の甲が透けていた。

 皮膚の下で光が滲み出して、白く震えている。


「……また、病か」

「違う。これは“月の病”だ」


 声が遠くなる。

 足もとが崩れていく。

 月の光が俺の血に入り込み、骨を照らしている。


 白すぎる。

 まるで、自分が消えていくみたいだ。


 ――光に還れ。

 頭の中で誰かが言った。

 葵の声にも似ていた。

 でもあれは違う。もっと冷たい、もっと深い。


 光が俺の視界を奪った。

 雅の声が遠ざかる。

 その手を掴もうとしても、もう触れられなかった。


 世界が、音を失った。

 ただ光だけが、祈るように、俺を飲み込んでいった。






【02】


 光に溶けるって、こういうことかと思った。

 皮膚の内側まで白くなっていく。

 骨の奥で光が鳴って、血の色が消えていく。

 熱も、痛みも、息の音さえ遠のいていく。

 ――静かだった。


「楽になれるぞ」


 誰かの声が囁いた。

 母でも、葵でもない。

 もっと深く、もっと冷たい場所から聞こえる声。

 それは、死の底から立ち上がる風のようだった。


 光の中で、俺は自分の手を見た。

 白く透けて、指の輪郭が消えかけている。

 ――ああ、いっそこのまま消えてもいい。

 そう思った。

 それが俺の本音だ。

 祈りなんてくだらねぇ。

 俺は壊してきた。祈りも、願いも、人間も。

 救いたいなんて一度も思ったことがない。

 ただ、どこまでも焼き尽くしたかった。

 この世界も、自分自身も。


 けれど――

 雅の顔が浮かんだ。

 あいつの、あの生意気な笑い方。

 血の匂いの中でも平然と笑う目。

 俺を怖がらなかった唯一の存在。


 胸の奥で、なにかが弾けた。

 こんな俺を信じて、隣に立ってくれたやつがいた。

 それだけで、崩れていた世界の端がわずかに戻る気がした。


 ……もし、誰かのために祈れるとしたら。

 それは、あいつのためだ。

 雅のためなら、俺は祈ってもいいと思った。

 それが、俺の“生きたい”なのかもしれない。


 その瞬間、光の中に影が差した。

 伸ばされた手が見える。

 細く、強く、俺を呼ぶ手。


「――焔!」


 雅の声が、現実を引き裂いた。

 光が揺らいで、世界がひっくり返る。

 俺はその手を掴んだ。

 指先が焼けても、離さなかった。


 光が割れた。

 音が戻る。

 風が頬を打つ。


 目を開けると、そこに雅がいた。

 息を切らして、泣きそうな顔で笑っていた。


「戻ってこい」

「……ああ」


 その声に、俺はようやく息をした。

 肺の奥で灯がひとつ、また息を吹き返す。

 まだ小さいけれど、確かに燃えている。






【03】


 光の底から浮かび上がったとき、世界はもう形を変えていた。


 都は崩れ、白い建物は灰のように崩れ落ちている。

 空には巨大な月。

 金色の輪郭を保ったまま、ゆっくりと欠けていく。

 その光を飲み込むように、女神が天を仰いでいた。


 月を喰っている。

 祈るたび、女神の喉が光る。

 声とも悲鳴ともつかない音が響き、空気が震える。


 俺は息を吸い、立ち上がった。


「……これが、祈りの果てか」


 女神は俺を見下ろしていた。

 目がない。

 けれど確かに、俺を見ていた。


『灯を寄越せ』


 声が、月光を割る。


『お前の灯は穢れている。火をもって清めよ』


 雅が刀に手をかける。


「焔、下がれ」

「下がらねぇ」


 女神の声は、葵の声にも、母の声にも、

 死んでいった者たちの声にも似ていた。

 清めよ。終われ。休め。

 光のくせに、やけに甘い。


 ――そうか。

 こいつが俺の中の“死”だ。


「光に喰われるのは、もうごめんだ」


 俺は煙管を抜き、指先で火を起こす。

 掌の上に小さな灯が生まれる。

 女神の光とは違う。

 熱を持ち、揺れて、生きていた。

 雅がくれた“生きるための火”だ。


『それは穢れの灯』

「そうだよ」


 俺は笑った。


「穢れでできてる。血と、痛みと、俺自身でな」


 女神の光が襲いかかる。

 世界が白く爆ぜ、皮膚が焼け、血が蒸発する。

 それでも火は消えなかった。


 俺はその灯を、女神の胸へと放った。


 光がぶつかる。

 轟音が響き、空が裂ける。

 女神の体が白い灰に変わっていく。


『なぜ抗う』

「抗ってんじゃねぇ。生きてんだよ」


 光が散った。

 崩れた街の屋根に火の粉が降る。

 燃えるんじゃない。

 灯がひとつずつ芽吹くように、

 都の隅々で小さな光が咲いていった。


 雅が、息を呑む。


「……やったのか」

「いや。焼いたのは神じゃねぇ。俺自身の“死”だ」


 空にあった月が、ゆっくりと沈む。

 夜が戻り、風が吹いた。

 焼けた匂いの向こうに、桃の花の香りが混じっていた。






【04】


 静けさが、耳の奥まで沁みた。

 光が消えたあとの世界は、まるで呼吸を忘れていた。

 夜が戻ってきたのに、俺たちの影はどこにも落ちなかった。


 風が吹いた。

 崩れた神殿の石を撫で、遠くの街の方まで抜けていく。

 風が生きている。

 そのことが、こんなにも優しいと知らなかった。


 雅は隣にいた。

 刀を収め、空を仰いでいる。

 血の匂いがまだ漂っているのに、

 あいつの横顔は、不思議なほど穏やかだった。


「……終わったな」

「ああ」

「神を殺すってのは、こんな気分か」

「神を殺したわけじゃねぇ。俺が“死”を殺しただけだ」

「らしいな」


 雅が笑う。

 その笑い声が風に溶けて、少し遅れて月が顔を出す。

 金でも銀でもない、柔らかな光。

 今度の月は、誰にも喰われない。


 俺は地面に腰を下ろした。

 掌の上で、小さな灯がまだ揺れている。

 さっきまで女神の胸を焼いた火。

 それでも、燃え尽きてはいなかった。


 生きてる。

 俺の中にも、世界のどこかにも。

 穢れたままでも、生きていい火がある。


 雅が俺の肩にもたれた。

 互いの息が触れ合う距離。


「なぁ、焔」

「ん」

「これから、どうする」

「知らねぇよ。……けど、もう死に場所探すのはやめた」

「じゃあ、生き場所か?」

「そんなもんがあるなら、見てみてぇな」


 あいつが微笑む。

 その笑顔を見て、胸の奥でなにかが鳴った。

 それはたぶん、心臓の音。

 まだ生きてる証だ。


「行こうか」

「どこへ」

「……遥か彼方まで」


 雅が頷いた。

 風がまた吹く。

 崩れた都を越えて、夜の海のような空へと抜けていく。

 その風の中で、俺たちは歩き出した。


 もう祈らない。

 もう赦さない。

 それでも、灯を絶やさずに生きる。


 穢れた火を抱いて、

 それを誇りにして、

 俺は、俺のまま、前へ進む。

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