第21話 決定的な悪意の衝突。


 三月、卒業式を数日後に控えたその日、僕たちの通う県立富岳高校は、解放感と、別れを惜しむ感傷、そして未来への漠然とした期待が入り混じった、独特の浮ついた空気に包まれていた。授業はもうない。生徒たちは、卒業アルバムに寄せ書きをしたり、仲間たちと最後の時間を惜しむように語らったり、あるいは、もう二度と足を踏み入れることのないかもしれない校舎を、名残惜しげに歩き回っていた。


 僕、佐倉悠人と月島鈴もまた、その喧騒の中にいた。僕たちの大学合格は、すでに学校中に知れ渡っていた。特に、僕の奇跡的な成績の伸びは、教師たちの間でも大きな話題となり、僕は、少し気恥ずかしい思いをしながらも、その賞賛を素直に受け止めていた。全ては、鈴が僕の隣にいてくれたおかげなのだから。


 しかし、僕の心は、その輝かしい未来への期待とは裏腹に、晴れることのない、重く湿った霧に覆われていた。日に日に増していく、身体の芯から生命力を奪われるような、あの得体の知れない疲労感。そして、僕の身にだけ立て続けに降りかかる、悪意に満ちた不運の数々。僕の楽観は、もはや限界に達していた。何かが、おかしい。僕たちの未来は、僕が思い描いているような、光り輝くものなどではないのかもしれない。そんな、根拠のない、しかし確信に近い不安が、僕の心を蝕み始めていた。


 その日の放課後、僕たちは、最後の思い出作りに、学校の近くにある、昔ながらの喫茶店に立ち寄っていた。レトロな雰囲気の店内には、僕たちと同じように、制服姿の生徒たちが何組か、楽しそうに談笑している。僕たちは、窓際の席に座り、クリームソーダを飲みながら、他愛もない話をしていた。


「卒業したら、この制服を着ることも、もうないんだな」


 僕が、少しだけ感傷的な気分で言うと、鈴は「そうだね」と、静かに微笑んだ。


「でも、これからは、もっと自由な服が着られるよ。悠人君の、私服姿、楽しみだな」


「僕の方こそ、鈴の私服、もっとたくさん見たいよ。一緒に、買い物にも行きたいな」


 そんな、どこにでもあるような、恋人たちの甘い会話。しかし、その時だった。僕たちの穏やかな時間を、無遠慮に切り裂く声が、背後から聞こえてきたのは。


「よう、佐倉。お前も、来てたのか」


 その声の主が誰であるかなど、振り返るまでもなかった。僕の親友であり、そして、僕の成功を、最も複雑な思いで見つめていたであろう男。野村健太だった。彼の声は、いつもよりも、数段低く、そして、棘のある響きを帯びていた。


 僕が振り返ると、そこには、歪んだ笑みを浮かべた健太が、腕を組んで立っていた。その隣には、彼の仲間であろう、僕の知らない顔の男子生徒が、二人、面白くなさそうな顔で、こちらを睨みつけている。


「健太。お前もか。奇遇だな」


 僕は、努めて平静を装い、いつものように声をかけた。しかし、僕の心臓は、嫌な予感を覚えて、大きく、そして不規則に鼓動を始めていた。健太の瞳の奥には、僕が今まで一度も見たことのない、暗く、そして澱んだ光が宿っていた。それは、嫉妬という名の、醜い感情の光だった。


「奇遇、ね。俺は、お前を探してたんだよ。佐倉『先生』に、一つ、ご教授願いたいことがあってな」


 彼は、僕の肩を、馴れ馴れしく、しかし、侮蔑を込めて、強く叩いた。


「どうやったら、お前みたいに、奇跡的な大逆転合格なんてものが、できるのかなって。何か、特別な裏技でも、使ったのか?」


 その言葉に含まれた、明確な悪意。それは、僕の心を、鋭く、そして深く抉った。僕の隣に座る鈴の身体が、ぴくりと、微かに強張るのが、触れ合う肩を通して伝わってくる。


 その瞬間、鈴の身体を、まるで冷たい氷水を浴びせられたかのような、強烈な悪寒が襲っていた。野村健太から放たれる、純粋な悪意。嫉妬、憎悪、侮蔑。それらの負の感情が、見えない毒の矢となって、彼女の身体に突き刺さる。駄目だ。この感覚は、知っている。これは、私の体質が、悪意を感知した時の、危険信号。私の意思とは関係なく、この悪意を、その源泉へと、何倍にもして跳ね返そうとする、呪われた力の、発動の予兆。


「裏技なんかじゃない。俺は、俺なりに、必死で頑張っただけだ」


 僕の声は、自分でも驚くほど、冷たく、そして硬質な響きを持っていた。健太の侮辱は、僕一人が受けるのであれば、まだ我慢できたかもしれない。しかし、彼の悪意は、明らかに、僕の隣にいる鈴にも向けられていた。彼女の努力を、彼女の存在そのものを、汚すような、その言葉だけは、絶対に許すことができなかった。


「頑張った、ねえ。よく言うぜ。お前が、この『幸運の女神サマ』と付き合い始めてから、急に成績が上がったのは、この学校の七不思議の一つだって、もっぱらの噂だぜ?」


 健太の指が、嘲るように、鈴の方を指し示す。その下卑た視線が、僕の心の奥底に眠っていた、怒りの導火線に、火をつけた。


「やめろよ、健太! 鈴は、関係ないだろ!」


 僕が、立ち上がって叫んだ、その時だった。健太の隣にいた男の一人が、僕の胸を、強く突き飛ばしてきたのだ。


「うわっ!」


 僕は、なすすべもなく、体勢を崩し、テーブルに背中を強く打ち付けた。ガラスのコップが床に落ち、けたたましい音を立てて砕け散る。店中の視線が、一斉に僕たちに突き刺さった。


「悠人君!」


 鈴の悲鳴が、僕の耳に届く。僕は、痛みよりも、彼女を恐怖に晒してしまったことへの、激しい後悔と、そして、目の前の男たちへの、燃え盛るような怒りで、全身が震えていた。


 僕は、彼女を庇うように、彼女の前に、立ちはだかった。僕の身体は、不思議と、恐怖を感じてはいなかった。ただ、僕の後ろにいる、この愛しい少女を、絶対に守らなければならないという、本能的な正義感と、彼女を傷つけようとする者への、純粋な怒りだけが、僕の全てを支配していた。


「お前ら、いい加減にしろよ。これ以上、鈴に近づいたら、俺が、許さない」


 僕の声は、自分でも信じられないほど、低く、そして凄みを帯びていた。僕のその、一点の曇りもない、純粋な善意。鈴を守るためだけに放たれた、その聖なる光。


 それが、引き金だった。


 鈴の身体の中で、何かが、決定的に変わる。健太たちから放たれる、強烈な「悪意」。そして、僕から放たれる、それを凌駕するほどの、純粋な「善意」。その二つの巨大な力が、彼女の身体を触媒として、激しく衝突し、そして、これまでとは比べ物にならないほどの、凄まじいエネルギーを生み出したのだ。


 鈴の全身を、経験したことのないほどの、強烈な力が駆け巡る。それは、快感でも、不快感でもない。ただ、絶対的な、抗うことのできない、運命の力そのものだった。


 ああ、駄目だ。


 彼女は、直感した。


 悠人君の、最後の運気が、今、この瞬間に、全て、私の中に。


 彼女の瞳に映る僕の姿が、一瞬だけ、陽炎のように、淡く、そして儚く、揺らめいた。僕たちの運命の歯車が、最後の時を刻む、破滅の音が、彼女の耳にだけ、確かに、聞こえていた。

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