第22話 悠人の自己犠牲と交通事故。
時間が凍りついた。僕、佐倉悠人の脳裏で、先ほどまでの穏やかな喫茶店の喧騒が急速に色褪せていく。それは、まるで遠い昔の記憶のようだった。目の前には、嫉妬という獣に心を食い尽くされた、かつての親友の歪んだ顔がある。そして僕の背後には、命を懸けて守るべき愛しい少女の存在があった。僕の全身の神経は極限まで研ぎ澄まされ、彼女をあらゆる脅威から守る盾となることだけを、本能が命じていた。
「許さない、だと…?」
僕の低い声に応じたのは、野村健太ではなかった。僕を突き飛ばした、体格のいい方の男だった。彼は僕の抵抗がよほど意外だったのか、あるいは僕の言葉が彼のプライドをいたく傷つけたのか、その顔を怒りと侮蔑の色で醜く歪めていた。
「てめえ、誰に口利いてんだ? ああ? 受験に成功して、いい女まで手に入れて、すっかり王様気取りかよ」
男が一歩、また一歩と、威圧するように僕との距離を詰めてくる。その巨体が、僕の視界を覆い尽くしていく。しかし、僕の心に恐怖はなかった。むしろ僕の心臓は怒りによって、これまでになく力強く、そして冷静に鼓動を刻んでいた。僕の視線は男の肩越しに、怯えた表情で僕を見つめる月島鈴の姿を、確かに捉えていた。大丈夫だ、鈴。俺が必ず君を守る。
その時だった。僕の決意を嘲笑うかのように、男の腕が大きく振り上げられたのは。その握り締められた拳が、スローモーションのように僕の顔面へと迫ってくる。僕は咄嗟に、顔を庇うように腕を上げた。しかし、その拳は僕に届かなかった。
「やめろ!」
その制止の声を発したのは、意外にも健太だった。彼は振り上げられた男の腕を、必死の形相で掴み、その動きを止めていた。
「もういいだろ! こんな店の中で、問題起こしてどうすんだ!」
「ああ!? てめえがけしかけたんだろうが! こいつ、気に入らねえ。少し灸を据えてやるだけだ」
「だから、もうやめろって言ってんだろ!」
二人が、僕の目の前で醜い口論を始める。その隙に逃げるべきだったのかもしれない。しかし、僕の足は地面に根が生えたかのように動かなかった。僕がここで背を向けたら、彼らの怒りの矛先が鈴に向かうかもしれない。それだけは、絶対にあってはならないことだった。
僕が彼らの次の動きを警戒し、全身の筋肉を硬直させていた、その瞬間だった。健太の制止を振り払った男が、僕を殴ることを諦めた。代わりに、憎悪に満ちた表情で僕の身体を不意に、そして力任せに強く突き飛ばしてきたのだ。
「うわっ…!」
それは、全く予期せぬ不意打ちの行動だった。僕は、なすすべもなくバランスを崩す。僕の身体は背後にあった喫茶店のドアを突き破り、そのまま夕暮れの喧騒に満ちた歩道へと投げ出された。
しかし、その時でさえ僕の意識は、ただ一点に集中していた。僕が突き飛ばされたそのすぐ後ろには、鈴が立っていたのだ。僕が彼女のクッションにならなければならない。僕の身体が、彼女を傷つけることだけは絶対に避けなければ。
僕は空中で、必死に体勢を変えようと試みた。そして迫りくる地面の衝撃から彼女を守るため、最後の力を振り絞った。彼女の身体を、自分の腕の中からそっと横へと押しやったのだ。
「鈴…!」
僕の口から漏れた、彼女の名前を呼ぶ声。それが、僕がこの世界で発した最後の言葉となった。
僕の背中が硬いアスファルトに叩きつけられる、その直前だった。僕の視界の端で、何か巨大な鉄の塊が猛烈なスピードで僕に迫ってくるのが見えた。けたたましいクラクションの音と、空気を切り裂くような甲高いブレーキ音。そして僕の全身を襲った、全てを粉々にするかのような凄まじい衝撃。
僕の身体は、紙人形のように宙を舞った。痛みを感じる暇さえなかった。ただ、僕の意識は急速に、白くそして冷たい霧の中へと沈んでいく。薄れゆく意識の中で僕の脳裏に最後に浮かんだのは、僕の名前を呼びながらこちらに駆け寄ってくる、鈴の泣き叫ぶ顔だった。
ごめんな、鈴。一緒に大学、行きたかったな。でも君を守れたのなら…。
それが、僕の最後の思考だった。僕の彼女への純粋な愛と、彼女を守りたいというただ一つの願い。その自己犠牲的な想いが、僕の命の最後の輝きだった。
一方、その全ての光景を月島鈴は、目の前でなすすべもなく見つめていた。悠人が自分を庇い、喫茶店の外へと突き飛ばされる。その瞬間、彼女の心臓は恐怖で凍りついた。やめて、悠人君!
しかし、彼女が悲鳴を上げるよりも早く、事態は彼女の想像を絶する最悪の結末へと突き進んでいく。歩道に投げ出された彼が、さらに車道へと転がり出ていく。そしてそこに、大型トラックが猛スピードで。
駄目だ。
彼女の思考が完全に停止した、その瞬間だった。彼女の身体を、これまで一度も経験したことのない強烈な感覚が襲ったのだ。
それは、まるでずっと自分の身体の一部であったものが、突然根こそぎ引きちぎられてしまったかのような、絶対的な喪失感だった。悠人との間に、初めて出会った日からずっと確かに存在していた、温かく力強い魂の繋がり。それが今この瞬間に、ぷつりとあまりにもあっけなく断ち切られたのだ。
彼の運気が、尽きた。
彼女はそれを、理屈ではなく魂で理解した。彼という存在を成り立たせていた生命の光そのものが、今目の前でふっと消え失せたのだ。
その感覚的な衝撃は、物理的なトラックの衝突よりも遥かに早く、そして遥かに深く彼女の心を貫いた。彼女の耳にはもはや、周囲の悲鳴もトラックのブレーキ音も、何も届いていなかった。ただ、悠人という温かい光が消えた後の、絶対的な無音と絶対的な暗闇だけが、彼女の世界を支配していた。
時間が、再び動き出す。血の匂い。人々の悲鳴。遠くから聞こえるサイレンの音。そしてアスファルトの上に赤い染みを広げながら、動かなくなった愛しい人の姿。
「あ…ああ…」
彼女の喉から、声にならない乾いた音が漏れる。恐怖と衝撃、そして自分のせいで彼が死んだのだという、あまりにも残酷な現実が、彼女の心を粉々に打ち砕いていく。
物語の最大の悲劇。それは、あまりにも突然に、そしてあまりにも残酷な形で幕を開けたのだった。
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