第20話 未来の夢と不運の兆候。


 合格発表までの日々は、まるで夢の中にいるかのように、甘く、そして穏やかに過ぎていった。僕、佐倉悠人の心は、月島鈴からの「一緒に暮らさないかな」という、あまりにも幸福な提案によって、これ以上ないほどの希望に満ち溢れていた。もはや、大学の合否に対する不安など、僕の頭の中には微塵も存在しない。僕たちの未来は、光り輝くレールの上を、ただ真っ直ぐに進んでいくだけなのだと、何の疑いもなく信じきっていた。


 僕たちは、来るべき新しい生活への期待に胸を膨らませながら、放課後の時間を共に過ごした。スマートフォンの画面を二人で覗き込み、大学の近くの賃貸物件情報を眺める。日当たりが良さそうな角部屋、少し広めのワンルーム、商店街に近い便利な立地。そんな、まだ見ぬ僕たちの城の情報を一つ一つなぞるたびに、僕の心は、現実感を伴った幸福で満たされていった。


「この部屋、いいな。キッチンが広いから、鈴の手料理がたくさん食べられそうだ」


「もう、悠人君は食いしん坊なんだから。でも、本当だね。二人で並んで料理するのも、楽しそう」


「大学が始まったら、どんなサークルに入ろうか。僕は、映画研究会とか面白そうだなと思ってるんだけど」


「いいね。私は、やっぱりもう一度、テニスをやってみようかなって。今度は、ただ、楽しむために」


 僕たちは、まるで尽きることのない泉から水を汲むかのように、未来の夢を語り合った。同棲後の生活、大学での学び、そして、その先にある、もっと遠い未来。僕が語る輝かしい希望の数々に、鈴はいつも、穏やかな笑みを浮かべて頷いてくれた。その笑顔を見ているだけで、僕は無敵になれるような気がした。この幸福が、僕の努力と、そして何よりも彼女の愛によってもたらされた、正当な報酬なのだと、僕は信じて疑わなかった。


 しかし、その完璧な幸福の裏側で、僕の運命の歯車が、軋みを上げながら、確実に破滅へと向かって逆回転を始めていることに、この時の僕は、まだ気づいていなかった。いや、気づかないふりをしていた、と言うべきなのかもしれない。


 その兆候は、日常の中に、まるで毒のように、少しずつ、しかし確実に染み出すように現れ始めた。それは、冬休み中に頻発した、あの些細な不運とは、明らかに質の違う、もっと悪意に満ちた、明確な「危険信号」だった。


 ある日の放課後、僕たちが図書館で勉強していると、僕が座っていた席の真横にあった、天井まで届くほどの巨大な本棚が、何の前触れもなく、大きな音を立ててこちらに傾いてきたのだ。


「危ない!」


 鈴の悲鳴のような声と、僕の腕を強く引く力強い感触が、ほぼ同時だった。僕は、なすすべもなく、彼女に引きずられるようにして、その場から転がり出る。次の瞬間、僕がほんの数秒前まで座っていた椅子は、倒れてきた本棚と、そこから雪崩のように落ちてきた大量の本の下敷きになり、無惨にもぺしゃんこに潰れていた。


 図書館中に響き渡る、司書や他の生徒たちの悲鳴。床に散らばる本の、乾いた紙の匂い。僕は、自分の身に何が起こったのかを瞬時に理解することができず、ただ、呆然と、その光景を見つめることしかできなかった。もし、彼女が僕を引っぱってくれなければ。そう思うと、背筋を、ぞっとするような冷たい汗が伝った。


「大丈夫…!? 悠人君、怪我はない…!?」


 僕の上から覆いかぶさるようにして、僕を庇ってくれていた鈴が、涙目のまま、僕の顔を覗き込む。彼女の顔は、血の気が引いて、真っ白だった。


「あ、ああ…大丈夫だ。鈴こそ、平気か?」


「私は、平気…。よかった、本当によかった…」


 彼女は、心の底から安堵したように、僕の胸に顔を埋めて、か細く震えていた。僕は、その震える身体を、ただ、強く抱きしめることしかできなかった。


 その後、図書館の職員からは平謝りに謝罪された。原因は、本棚の老朽化によるものだろう、ということだった。僕は、その説明に納得したふりをしながらも、心のどこかで、釈然としないものを感じていた。


 その日を境に、僕の周囲で起こるトラブルは、さらにエスカレートしていった。二人で並んで歩いていた歩道で、すぐ目の前を走っていた自転車が、突然チェーンが外れて転倒し、僕たちに突っ込んできそうになる。アパートの駐輪場に停めておいた僕の自転車が、戻ってきた時には、タイヤが鋭利な何かで切り裂かれ、パンクさせられている。そして、ある雨の夜には、僕たちが歩いていた真上のマンションのベランダから、植木鉢が、僕のほんの数センチ横のアスファルトに落下し、けたたましい音を立てて砕け散った。


 一つ一つが、命に関わりかねない、重大な事故。それが、偶然とは到底思えないほどの確率で、僕の身にだけ、立て続けに降りかかってくる。僕の楽観的な心も、さすがに、この異常事態を「偶然」や「受験のストレス」という言葉だけで片付けることが、できなくなりつつあった。


 そして、それらのトラブルと並行して、僕の身体を蝕む、あの奇妙な疲労感は、日に日に、その重さを増していった。もはや、それは単なる疲労感などではない。まるで、身体の内側から、生命力そのものを、じわじわと吸い取られているかのような、根源的な倦怠感だった。朝、目を覚ましても、身体は鉛のように重く、起き上がるのが億劫で仕方がない。どれだけ眠っても、眠気が取れることはなく、日中は、常に頭の中に、濃い霧がかかっているかのように、思考がはっきりとしなかった。


 僕は、そんな自分の変化を、必死に楽観で抑えつけようとした。未来への希望を語り、鈴との新しい生活を夢想することで、心の中に巣食い始めた、得体の知れない不安から、必死に目を逸らそうとした。


 しかし、僕のその必死の抵抗も、鈴の前では、何の意味もなさなかった。彼女は、僕の身に降りかかる全ての不運を、その身をもって、共に体験していたのだ。僕が、事故に遭いそうになるたびに、彼女の顔からは、さっと血の気が引き、その瞳には、僕の知らない、深い絶望の色が浮かぶ。彼女は、何も言わない。しかし、その沈黙が、かえって僕の心を、締め付けた。


 彼女は、何かを知っているのだ。この、僕の身に降りかかる、理不尽な不運の連続の、本当の理由を。そして、僕のこの、どうしようもない疲労感の原因を。


 その事実が、僕の心を、どうしようもない焦燥感で満たしていく。彼女は、僕に何かを隠している。僕たちの間に、見えない、分厚い壁が存在する。その壁の向こう側で、彼女が一人で、何か得体の知れない恐怖と戦っている。そのことが、僕には、何よりも辛かった。


 ある夜、僕たちは、また、他愛もない未来の夢を語り合っていた。しかし、その日の僕は、どうしても、いつものように、心から笑うことができなかった。


「なあ、鈴」


「ん?」


「俺たち、本当に、大丈夫だよな…?」


 僕の口から、無意識に、そんな弱音がこぼれ落ちた。その言葉を聞いた瞬間、彼女の瞳が、悲しげに、そして大きく揺らいだ。彼女は、何かを言いかけたように、一度、唇を開きかけた。しかし、結局、何も言うことはなく、ただ、僕の手に、自分の手を、そっと重ねてくるだけだった。


 その手は、氷のように、冷たかった。そして、その冷たさが、僕たちの未来に待ち受ける、残酷な運命を、静かに、しかし雄弁に、物語っているような気がしてならなかった。僕たちの幸福な未来は、もはや、砂上の楼閣のように、脆く、そして儚いものになりつつあった。

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