第5話 灯の群れ、君に還る ― 灯の川 ―
川風が吹いた。
さっきまでの熱気が嘘のように、頬を撫でる風が冷たかった。
提灯の並ぶ道が途切れ、闇がひらける。
そこには、川があった。
水面に、無数の灯籠が浮かんでいる。
朱、白、金――灯りがひとつひとつゆらめきながら流れていく。
その光が、夜の川をゆっくりと撫でていた。
御珠は立ち尽くす。
浴衣の裾を風が揺らすたび、心臓の奥で何かがひとつ、ずれる。
(……これは、祈りの河か)
灯籠が小さく揺れ、返事をするみたいに光った。
その動きが、まるで誰かの息みたいに感じられた。
少し先に、ひとりの影が見えた。
川沿いの柵のそばに立ち、灯籠を見つめている。
光の輪郭が滲む。
見間違うはずもない。
「……ぬし」
声がこぼれた瞬間、雪杜が振り向いた。
驚いた顔が灯籠の光に照らされる。
「御珠……探したんだ。人が多すぎて」
「妾もじゃ。ぬしの灯を探しておった」
ふたりの間を、ひとつの灯籠が静かに流れていく。
水音が、心臓の鼓動と重なっていた。
雪杜が言う。
「みんな、自分の願いを灯して流すんだって」
御珠は水面を見つめた。
灯のひとつひとつが、命みたいに見えた。
儚く、けれど確かにそこにある。
「ぬし……人は何のために灯を流す?」
「たぶん……忘れたくないから。
消えちゃうのを怖がるから、光を残すんだと思う」
御珠の指が、そっと水面に触れる。
灯の波が指のまわりで円を描く。
その光が、彼女の手を透かして流れた。
「……妾の身も、やがてこの灯のように流れ去るのかの」
雪杜は少し間を置いて答える。
「……消えるわけじゃない。
形が変わっても、ちゃんと残るよ。
アイスだって、溶けても味は消えなかったでしょ?」
御珠が息を呑む。
その言葉は、夏の初めに聞いた“約束”の音をしていた。
「……ぬし、またそのように言うか」
「うん。御珠も、ちゃんと残るよ」
彼の声が水面を渡り、灯籠がひとつふっと揺れた。
御珠の頬が光に照らされ、笑みが滲む。
「生きるとは……灯を渡すこと、か」
「え?」
「誰かの灯を受けて、自らの灯をまた誰かへ渡す。
その連なりこそ、祈りじゃ。
……妾は、ぬしから灯を受けたのじゃな」
微笑んだ唇の端で、光がかすかに滲んだ。
最初は灯籠の反射かと思った。
だがそれは――涙だった。
雪杜は息を呑む。
けれど何も言わない。
声にしてしまえば、この瞬間が壊れてしまいそうで。
ただその光を、祈るように見つめていた。
雫は顎の端で止まり、風に吹かれて消えた。
その瞬間、灯籠のひとつがふっと明るくなる。
まるで世界が、その涙を受け取ったかのように。
御珠は気づかぬまま空を仰ぐ。
「……ぬし、見つけてくれぬと……妾……壊れてしまうと思っておった。
じゃが、いまは違う。
ぬしの灯がここにある限り、妾は流れても消えぬ」
雪杜は静かに微笑む。
何も言わず、ただその涙の名を胸の奥に刻んだ。
風が頬を撫で、灯籠が流れていく。
「……雪杜」
初めて、“ぬし”ではなく名前で呼ばれる。
その一言が、夜の水面を震わせた。
灯籠がひとつ、強く光って流れていく。
――その光はもう、神の理ではなく、人の祈りの温度だった。
―――
太鼓の音が遠くに滲み、境内の灯がひとつ、またひとつと息を引き取るように消えていった。
夜風が抜け、提灯の赤が淡く揺れる。
その残り火のような光を背に、咲良は社務所の脇、石段の影に身を寄せていた。
川辺では、雪杜と御珠が並んで灯籠を見送っている。
水面の灯がふたりの肩を照らし、影を溶かしていく。
まるで光そのものが祈りの形を取っているようだった。
背後から足音。巫女装束の裾が夜風をすくい上げ、鈴の音がかすかに鳴る。
澪がそっと隣に立った。
「――あの子、御珠ちゃん。もう長くは人の姿を保てないでしょうね」
咲良は短く息を吸い、目を伏せる。
「……分かってる。でも、あの顔を見たら、なんか……もうそれでいいって思った」
言葉にしてみた途端、胸の奥に小さな痛みが広がる。
まぶたの裏に、季節の景色がゆっくりと浮かび上がっていった。
春の遠足で見た、山の緑と空の青。
林間学校の夜、焚火の向こうで恋に焦がれた横顔。
三人で食べたアイスの冷たさと、商店街の午後の匂い。
海で跳ねた波しぶき、眩しい光、寄り添う影。
ひとつひとつが、光の粒みたいに胸を流れていく。
けれど、それらはもう、指先で掬えない。
灯籠のように、静かに流れて遠ざかっていく。
(……この夏が終わったら、きっともう戻らないんだ)
咲良の目に滲んだ涙が、頬を伝って落ちた。
それでも彼女は笑おうとした。
澪はそんな娘を見て、そっと言葉を置く。
「祈りってね、終わりじゃないの。
形を変えて、また誰かの心に戻ってくるの。
だから……そんなに悲しまなくていいのよ」
咲良はその言葉を聞きながら、灯籠の流れを見つめた。
水面に映る灯が風に揺れ、彼女の瞳の奥にも小さな光が揺れる。
「うん……ありがとう、お母さん」
澪は静かに頷いた。
「――あの子たちの灯が消えるころ、この夏の祈りも静かに閉じる。
でも、風は残るわ。あの子たちの息みたいに」
咲良はふっと笑う。
その笑みには少しだけ寂しさがあったが、痛みはもうなかった。
「……風、か。だったら、私もその風でいたいな。
あの二人を、そっと見守る風になれたら、それでいい」
川辺の方で、淡い灯がまだ揺れている。
二人の影が寄り添い、まるで光が呼吸しているようだった。
咲良は目を細めた。
その小さな背中の向こうに、これから訪れる季節がぼんやりと見えた気がした。
きっとこの先、ふたりには数えきれない困難がある。
別れも、涙も、そしてそれを越えてゆく朝も。
――そう想像しただけで、胸の奥が熱くなった。
再び、涙が溢れた。
けれどそれは悲しみの涙じゃない。
祈りの代わりにこぼれた、静かな願いの滴だった。
咲良はそっと唇を開き、震える声で囁く。
「……御珠ちゃん、雪杜くん。どうか、強く生……き……」
その先の言葉は、風に溶けて消えた。
声にならなかった祈りだけが、夜の空気に残る。
澪は傍らで泣き崩れる咲良の背を撫でながら、静かに呟いた。
「神さまの灯は消えないわ。
見えなくなっても、ちゃんと人の心に残るものだから」
遠くで太鼓が一度だけ鳴った。
夏の終わりを告げる合図のように。
そして夜は、静かに澄み渡っていった。
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