第4話 灯の群れ、君に還る ― 祭の喧騒 ―

八月の陽射しはまだ勢いを失わず、町の空気には夏の息づかいが濃く残っていた。

家々の軒先で蝉が鳴き、遠くの山からは太鼓の練習の音がどんどんと響く。

それだけで胸の奥が少し高鳴った――夏祭りの気配が近い。


咲良が手提げ袋を片手に、縁側に顔を出した。


「ねぇ、今日、神社で祭りの準備をするんだ。よかったら手伝いに来てくれない?」


祖父が新聞をたたみ、湯呑を置く。


「春原さんとこの神社か。……お前も行ってこい。

 家ばかりじゃ、夏が終わってしまうぞ」


雪杜は一瞬考え、それからうなずいた。


「……うん、行ってみる」


御珠はすでに玄関に立っていた。


「祭とは祈りの収穫じゃ。妾も行く。灯と人の理をこの目で確かめねばなるまい」


祖父が苦笑して「神様も働きに行くのか」とつぶやく。


笑い声が重なり、

白い入道雲の下、三人は並んで歩き出した。

風の中に、遠くの太鼓のリズムがまだ鳴っていた。


―――


神社の石段を登ると、陽炎がゆらゆらと踊っていた。

石の隙間から伸びた苔が日差しを受け、緑の匂いが立ちのぼる。

古い平屋造りの社務所からは、お香と木の香りが混じった空気が漂っていた。


咲良がのれんをくぐりながら声を上げる。


「お母さーん!浴衣、持ってきたよー!」


奥から現れたのは、巫女装束に羽織を重ねた女性――春原 みおだった。

笑顔は柔らかいが、その瞳の奥には静かな光が宿っている。


「ありがとう。――さて、あなたが“御珠ちゃん”ね?」


「う、うむ……妾が御珠じゃ。世話になる」


澪は一歩近づき、御珠を見つめた。

その目の奥が、ふっと深くなる。


「なるほど。気配が違うと思った。

 これは“祈りの残り香”――神様が人の姿を取っておられるのね」


雪杜と咲良が息をのむ。


「お、母さん……!」


澪は微笑を崩さないまま続けた。


「神職の家系だから、少しは“見える”の。

 あなたがこの地に現れた理由、なんとなく分かる気がするわ」


御珠は少しうつむき、それから静かに言った。


「妾は……この地で、少しだけ“人の理”を学んでおる。

 いずれ戻る時が来ようが、今はこの子らと過ごしたい」


澪は頷き、やわらかく笑う。


「せっかくだし浴衣を着て祭を見ていらっしゃいな。

 神様にも、少し人の夏を味わってもらわなくちゃ」


御珠は目を瞬かせ、それから小さく頬を染めた。


「……ふむ。妾に“夏”を勧めるとは、ぬしもなかなかの策士じゃの」


「ふふ、似合うと思うのよ。きっと」


「……ありがたく受け取っておこう」


澪は頷き、障子の向こうを指した。


「咲良、御珠ちゃんを奥へ案内してあげて。支度を手伝ってあげなさい」


「うん!」


二人は軽く会釈して、奥へと姿を消す。

障子が静かに閉じられ、布の擦れる音が遠ざかっていった。


その余韻の中で、澪の視線が雪杜へ――ズイと突き刺さる。


「あなたが、天野 雪杜くんね」


声は穏やかだった。

けれどその奥に、鋭い光があった。


「娘が、ずいぶんお世話になっているみたいね」


雪杜は反射的に背筋を伸ばした。


「い、いえ、そんな……!」


澪の笑みは崩れない。

むしろ静けさが増すほどに、言葉が重く沈む。


「……なのに、あの子、よく泣いて帰ってくるのよ」


一瞬、空気が止まった。

胸の奥がひびく。


(咲良が……泣いてた?)


その光景を思い浮かべた瞬間、喉の奥が熱くなった。

あの明るい笑顔の裏で、そんな痛みを抱えていたなんて――。

息を吸うことすら、少し怖くなった。


澪は雪杜の表情を見て、ふっと目を細める。


「責めてるわけじゃないの。

 ただ――あの子は優しいから、自分の気持ちをうまく隠してしまうのよ」


言葉が静かに落ちた。

その声色には、母としての慈しみが混じっていた。


「……だからね。もしあの子がまた誰かのために泣くなら、その涙を無駄にしないであげて。

 それだけ、覚えておいて」


雪杜は息をのんで、ただ頷いた。

言葉にできない何かが、胸の奥でゆっくりと滲んでいく。


澪は小さく笑った。


「さ、嫌な話はここまで。お祭りなんだから、明るい顔をしなさい」


その一言で、張りつめていた空気が少しだけ和らぐ。

外から風鈴の音が流れ込み、障子の向こうから布の擦れる音が戻ってくる。


「……神様の浴衣、似合うかしらね」


澪が冗談めかしてつぶやいた。


雪杜は答えられなかった。

胸の奥に、まだあの言葉の余韻が残っていた。

口を開こうとして、声が出ない。


そんな雪杜を見て、澪がふっと微笑む。


「……ふふ。いいのよ、今はそれで。

 言葉より、顔にちゃんと出てるわ」


彼はようやく小さく息を吐いた。

その瞬間、外から風鈴の音が流れ込み、障子の向こうから布の擦れる音が戻ってくる。


澪はその音に耳を澄ませながら、


「さ、あの子たちを迎えに行ってあげて。

 ――お祭りの支度、まだ途中でしょう?」


雪杜は静かにうなずいた。

立ち上がると、光が背中に差し込む。

夏の白が、胸の奥の痛みをゆっくり照らしていった。


―――


夜の風が、紙の鈴をやわらかく鳴らした。

参道の両脇に連なる提灯が、まるで金色の河のように続いている。

焼きとうもろこしの匂いと線香の煙が交じり、人の声と笑いが波のように押し寄せては引いていく。


御珠はその真ん中に立ち尽くしていた。

浴衣の裾を揺らしながら、目を細める。


「……これが、人の“祭り”というものか」


雪杜が横でうなずく。


「うん。夏になると、町のみんなが集まるんだ」


咲良が笑って言葉を添える。


「亡くなった人や、大切な人のために灯すんだよ。……それが、この町の夏」


御珠はしばらく黙っていた。

提灯の光が瞳の奥で瞬く。


「灯が多い……まるで祈りが地を歩いておるようじゃ」


その声には、少しだけ懐かしさのような響きが混じっていた。


太鼓の音が鳴った。


ドン、ドドン――。


境内の空気がひとつに震え、灯がいっせいに揺れる。


人波が押し寄せ、祭りの熱が肌にまとわりつく。

笑い声、笛の音、金魚すくいの水音、焼けた砂糖の甘い匂い――

それらがいっぺんに押し寄せ、世界がひとつの呼吸を始めたみたいだった。


「御珠、離れないで。人、多いから!」


「分かっておる。妾を誰と思う。……神じゃぞ?」


雪杜が笑い、咲良と目を合わせた。

そのほんの一瞬、御珠はつられて微笑んだ。

その瞬間だった。


太鼓のリズムが急に跳ね上がり、音の壁が押し寄せる。


「ドンドン、ドドン――!」


世界が爆ぜた。

風が逆巻き、浴衣の袖が引かれる。

人々の笑い声が一斉に弾け、音が渦を巻く。


「ぬ……?」


御珠は思わず足を止めた。

熱気が押し寄せ、光が滲む。

まぶしさに目を細めた瞬間、空気がねじれた。


(……うるさい。胸の奥が、ざわめく)


視界が白くかすみ、世界の輪郭が歪んだ。

声が遠い。

伸ばした指先が、掴もうとしたものをすり抜ける。


「……ぬし?」


返事は、ない。

代わりに太鼓の音が近づいてきて、足もとから地面が脈打った。


御珠の手が離れた。

ほんの一瞬のことだった。

それなのに、灯の群れが遠ざかっていくように感じた。


誰かの肩がぶつかる。

その衝撃で、勾玉がかすかに鳴った。

音の波が引いていく――残ったのは、自分の鼓動だけ。


胸の奥で、何かが小さく裂けた。

熱を持った息が喉の奥で震え、吐き出せないまま残る。


(おかしい……妾は神じゃ。怖れなど、持たぬはず……)


けれど足が勝手に止まる。

指先が冷たい。

身体の輪郭が、灯の中に溶けていくようだった。


「ぬし……どこじゃ……?」


声は人の喧騒に飲み込まれる。

誰もこちらを見ない。

誰も、神を知らない。


途端に、心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。

“理”ではなく、“命”の音。

自分の中に流れるそれが、どうしようもなく怖かった。


(妾の中で、人の音がしておる……)

(ぬしの隣で笑っていたせいで、神の理が溶けてしまったのか……)


頬を伝うものがあった。

指で触れると、冷たい。

涙――そんなもの、流すはずがない。

神に涙は不要だ。祈られる側が泣いてどうする。


なのに、止まらなかった。


「……ぬし、見つけてくれぬと……妾……壊れてしまう」


震える声が、誰の耳にも届かない。

祭り囃子は遠ざかり、太鼓の残響だけが胸の中で鳴り続ける。

その音が、まるで“神を呼び戻す呪文”みたいに痛かった。


提灯の光が途切れ、暗がりに足を踏み入れた瞬間、世界の温度がすっと下がった。


川のせせらぎ。

水面に浮かぶ灯籠の群れが、風に揺れながら光っている。

遠くの灯が涙の粒のように見えた。


「……これが、祈りの形なのか」


人はこうして光を流して、誰かを想う。

妾はその“想い”に触れた。

そして――自分の中にも、同じ熱があることを知ってしまった。


(これが……恋ならば、妾はもう神ではない)


唇がわずかに震えた。

夜風が髪を撫で、涙の跡を冷やす。


それでも歩き出す。

ぬしの声を探して。

闇の向こうから、確かに水音が答えた気がした。


「……雪杜」


初めて、人の呼び方でその名を口にした。

その瞬間、胸の奥で何かが柔らかく光った。

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