第6話 蝉の声が止む庭で
朝の光が縁側のガラス戸を白く染めていた。
庭では蝉が鳴き、天野
ちゃぶ台の上には急須と湯呑。扇風機が低く唸り、新聞の端だけがぱらりと揺れた。
晴臣は新聞をたたみ、いつもと変わらない調子で言った。
「……雪杜。明日から、ちょっと入院することになった。二泊ほどな」
声は穏やかだったが、どこか決めてきた人のそれだった。
「え……検査だけじゃなかったの?」
「検査の続きじゃ。少し長くなるそうだ」
風鈴がひとつ鳴る。
雪杜は畳の目を指でなぞりながら、少し考えてから口を開いた。
「……僕、一人で大丈夫だよ」
晴臣はすぐに首を横に振った。
「そうは言ってもな。小学五年生を家に残していくのは無理じゃ。
浜の家のおじさんに便宜を図ろうかと思うとる。あそこなら大人もおるし、海のそばで退屈もせん」
そのとき、障子の向こうで藍の影がふっと揺れた。
「待て。妾がいるぞ」
御珠がすっと部屋に入る。現れた瞬間、空気が少し澄む。
「妾は神じゃ。護りくらい朝飯前じゃ。ぬしが留守の間、この家も、雪杜も、妾が護ろう」
晴臣は目を細めた。
「それはありがたいがな……それでも子ども一人というわけには――」
言い終わる前に、雪杜が顔を上げた。
さっきよりも真剣な目をしていた。
「……おじいちゃん、ダメだよ。他の家は。
僕が行ったらまた“おかしく”なる人が出るかもしれない。
おじさんの家の人たちまで巻き込んだら……」
蝉の声が一瞬だけ遠のいたように感じた。
胸の奥が、去年の夏の記憶を呼び起こす。
あのとき見た、壊れかけた瞳と、怯えた少年の肩の震え。
——あの影が、またこの家に差すのではないか。
そんな思いが、光の中でひそやかに疼いた。
「……そうか。なら、無理にとは言えんな」
御珠がすかさず胸を張る。
「ゆえに妾が守ると言っておる。理が乱れれば妾が受ける。
人の家に災いを持ち込むよりも、この家で妾が抑えたほうがよい」
晴臣は小さく笑った。
「はは……神様にそこまで言われたら、わしも安心するしかないかの」
それでも現実的な部分は忘れない。
「とはいえ、何かあったらおじさんを頼れ。話は通しておく」
「……うん」
雪杜は小さく頷いた。
口では平気そうにしていたが、胸の奥にはぽつりと寂しさが残った。
晴臣は縁側の外に目をやる。夏の光が白すぎるほどに強い。
強い光は、終わりが近いという合図でもある。
───
朝から蝉が鳴いていた。
空はもう白く、遠くの山が霞んで見える。
玄関の戸を開けただけで、湿った熱気が肌にまとわりついた。
砂利道の上でタクシーのエンジンが低く唸る。
排気の熱と、朝日が混ざってゆらゆらと揺れていた。
晴臣は帽子をかぶり、荷物を片手に笑った。
「すぐ戻る。……蝉が鳴きやむ前にな」
雪杜は無言で頷き、靴のつま先で砂を押した。
熱を帯びた空気の中、言葉はどれも溶けていく気がした。
御珠は玄関の柱の陰に立ち、両手を軽く合わせた。
「妾の加護、道を照らさんことを」
晴臣はその姿に目を細め、
「神様に見送られるとはな。……贅沢な出発だ」
晴臣は静かに笑った。
「明日はお見舞いに行くから!」
手を上げて答えると、扉が静かに閉まった。
砂利がタイヤの下で鳴り、エンジンの音が遠ざかる。
排気の煙が白く立ちのぼり、その白さが光の中に溶けていく。
やがて、何も見えなくなった。
蝉の声だけが残った。
あまりにも賑やかで、あまりにも遠い。
その音を聞きながら、御珠は小さく呟いた。
「……静かじゃの」
けれどその声は、蝉のざわめきにすぐ呑み込まれた。
夏の朝は、もう完全に動き出していた。
───
夜の風は、昼よりもやわらかかった。
網戸に小さな蛾がとまり、外では蝉の声がまだ続いている。
昼の喧騒が遠のいたあとの空気は、どこか透明で、音そのものが眠っているようだった。
ちゃぶ台の上には湯呑が二つ。
ひとつは冷め、ひとつは手つかずのまま。
祖父の席だけが、ぽっかりと空いていた。
雪杜はその前で膝を抱え、天井の灯をぼんやりと見上げていた。
「……おじいちゃんのいない夜、なんか変な感じ」
御珠はちゃぶ台を挟んで座る。
灯に照らされた藍の髪が、少し白っぽく見えた。
「雪杜、心細いか?」
「……ううん。怖いとかじゃなくて……静かすぎる」
御珠はしばらく目を閉じ、耳を澄ませる。
風鈴の音、外を行く夜風、遠くの電車の響き。
確かに、すべての音が遠かった。
「静けさとは、命が休む音じゃ」
雪杜が小さく笑う。
「音がないのに?」
「うむ。蝉が鳴かぬ夜は、夏が眠る夜じゃ」
言葉の響きが部屋に染みていく。
それは理屈ではなく、祈りのような温度を持っていた。
雪杜は湯呑の水面を見つめながら、ぽつりと言った。
「ねぇ御珠。御珠がここにいるのに、なんでだろう、寂しいんだ」
御珠のまつげがわずかに震える
「そなた……妾の加護が足りぬと申すか?」
「違うよ。ただね、おじいちゃんの湯呑の音とか、新聞の音とか……
そういうのがないと、家が“動かない”気がするんだ」
御珠は静かにその言葉を聞いていた。
蝉の声が遠のき、風鈴の音だけが細く残る。
雪杜は膝の上で手を握りしめ、ぽつりと呟いた。
「……思い出したんだ。
去年、ここに預けられたときのこと」
声がかすかに震える。
「急に家を出ることになって……何もわからなくて、怖くて。
でも、おじいちゃんは何も聞かずに”ここにいるといい”って言ってくれた。
僕が泣いてても怒らないし、無理に話しかけてもこないで、ただ隣に座ってくれたんだ」
御珠は黙って耳を傾ける。
雪杜の声が、少しずつ幼くなっていく。
「学校に行けなくなったときも、怒らなかった。
何も言わずに“行く日が来る”って信じてる顔をしてた。
ちゃんと、毎朝ごはんも作ってくれた。
食べることなんてほとんどなかったのに……」
唇をかむ音がした。
視界がにじみ、畳の目が波打つ。
「大晦日の夜もさ……僕、急に山の中に飛び出して、一晩中帰ってこなかったのに。
帰ってきたら“無事でよかった”って、抱きしめてくれたんだ」
そこまで言うと、声が途切れた。
ぽたり、と膝の上に涙が落ちる。
「……いなくなったら、どうしよう。
帰ってこなかったら、どうしたらいいの……」
嗚咽がこぼれ、肩が震える。
その小さな背中を、御珠は見つめていた。
御珠は迷いながらも、そっと手を伸ばした。
指先が雪杜の頬に触れる。
冷たい涙の感触が、指を伝って落ちていった。
「……これが、人の痛みか」
呟きながら、御珠の胸がかすかに震える。
その震えが、彼女の神性をほんの少し削っていった。
「……泣いてよい。
涙は、そなたの心が生きておる証じゃ。
妾が見ておる。夏の夜は、泣くためにある」
雪杜は涙の中でうなずき「……ありがと、御珠」と絞り出す。
御珠は何も言わず、ただその言葉を胸の奥で受け止めた。
涙の跡を照らす灯が、静かに揺れている。
蝉の声がやみ、夜の空気が深くなる。
風鈴がひとつ、かすかに鳴った。
御珠はその音に目を細め、小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「……妾がそなたと共におれる時間は、長くはない……」
声は風に溶け、夜の端に消えた。
その瞬間、勾玉がわずかに光を失う。
雪杜はそれに気づかないまま、涙のあとの静けさの中で眠りに落ちていった。
――二人の夏が、静かに短くなっていった。
───
昼の光は、病院の白い壁に滲み、消毒液の匂いと混ざっていた。
蝉の声は遠くで細く続き、世界の呼吸が少しだけ遅く感じられる。
雪杜と御珠は並んで廊下を歩き、足音が床に静かな律動を刻む。
「……この匂い、苦手だな」
「命と薬の匂いが混じっておる。……生と死の境目の香じゃ」
「そんなふうに言われると、余計に怖いよ」
彼の声には、まだ子どもの震えが残っていた。
御珠は黙って、ただ歩調を合わせた。
——病室。
六人部屋。白いカーテンの隙間から光が流れ込み、その光が点滴の滴を一粒ずつ照らしている。
ゆっくり落ちるその粒は、まるで命の秒針のようだった。
晴臣は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと身を起こした。
「おう、来たか。ゆっくりしていくとええ」
「うん。検査はもういいの?」
「ああ。結果を待っとるところだ」
晴臣は雪杜の顔を見つめて、ふっと目尻を細めた。
「……夜は寂しくなかったか?」
その問いに、雪杜の肩がぴくりと動いた。
昨夜のことが一瞬で蘇る。
ちゃぶ台の前で、御珠に「いなくなったら、どうしよう」と言って涙をこぼしたこと。
布団の中でもこっそり枕を濡らしたことまで思い出してしまい、耳まで熱くなる。
「ぜっ……ぜんぜん!全然寂しくなかったよ!」
慌てて声を張る。
言った瞬間、自分でも少し笑ってしまった。
晴臣は目を細め、やさしく笑う。
「そうかそうか。ならええ」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
御珠も小さく微笑み、そっと晴臣の枕元へ歩み寄る。
「……理の糸はまだ温い。命は流れ続けておる」
晴臣は彼女を見上げて、ゆっくりと息を吐いた。
「神様まで見舞いに来てくれるとは、贅沢だな」
そして微笑みながら言う。
「けどな、神様。人はな、祈りすぎると弱くなる。
頼りきったら、足が動かんようになるんだ」
御珠は息を止めた。
誰かに言葉で抗われることなど、これまでなかった。
けれどその声には、怒りも恐れもなかった。
ただ“人の理”としてまっすぐに届いていた。
「ぬし……妾の加護を疑うか?」
「違う。信じてるからこそ、頼りすぎんようにしてるんだ。
自分の足で歩けるうちは、歩いて見せんと」
その言葉に、御珠はゆっくりと瞳を伏せた。
蝉の声が細くなる。
病室の光が、白から金へと移ろう。
「……妾は理を守るために在る。
けれど、人の理は、妾の理より強いのかもしれぬな」
晴臣は笑ってうなずいた。
「そうかもな。神様も、時々は人間の顔を見に来るといい」
御珠は一瞬だけ目を見開いた。
それは、堕ちることを許されたような言葉だった。
御珠は小さく息を吐き、笑みをこぼした。
胸の奥のこわばりが、ゆるやかに解けていくようだった。
雪杜は喉の奥が熱くなるのを感じ、小さく息を吸った。
「……また、みんなでご飯食べようね」
晴臣は目を細めて、うなずいた。
「なに。明日には帰る予定だ。心配いらんよ」
御珠が小さく笑って言う。
「約束じゃな」
「神様との約束なら、破れんな」
その言葉が、夏の光に溶けていく。
窓の外で、蝉の声が止まった。
風がカーテンを揺らし、白い布の影が壁をゆらゆらと泳ぐ。
——光が消えたのではない。
ただ、聞こえぬほど小さくなっただけ。
病室の静けさは、祈りの終わりではなく、
人がもう一度、生きようとする“始まりの音”だった。
───
夜の空気はまだぬるかった。
障子の向こうでは網戸が張られ、そこから細い風が静かに入ってくる。
虫の声が外で重なり合い、風鈴の音と混ざって消えていく。
ちゃぶ台の上には、麦茶のコップ。
氷はすっかり溶けて、水面に灯りがゆれていた。
その静けさが、家全体の呼吸のように見えた。
御珠は畳の上に座り、風の流れを見つめていた。
「……明日、退院なんだって」
雪杜が言うと、御珠は軽くうなずいた。
「うむ。よきことじゃ。……けれど、妙じゃの」
「なにが?」
「風の音が違う。いつもの風ではない。理が少し薄い。……境が近いのかもしれぬ」
雪杜は笑って首をかしげる。
「“境”って、どこの?」
「この世と、その少し向こうの層じゃ。妾の声が届かぬ場所」
雪杜の指が、コップの縁をなぞる。
「……怖いこと?」
御珠は首を振った。
「いや、悪くはない。風がやわらかいのぅ。……妾も、眠くなるほどに」
風が吹き、灯がゆらめく。
御珠の髪がわずかに揺れ、光が藍から白へとほどけた。
「妾もようやく、“人の夜”というものに慣れてきた。
そなたと語り、風を聞き、眠る――それだけで理がほどけていく」
「ほどけるって、悪いこと?」
「分からぬ。けれど、悪くはない。……温かいからの」
風鈴が鳴った。
御珠はその音に目を細め、ふっと息を吸う。
「雪杜。もし妾がいなくなっても、この風は残る。
妾の名を呼ばずとも、風はそなたの頬を撫でる。
それは……妾が好きだった音じゃ」
雪杜は少し戸惑いながら、コップの水面を見た。
「……どういう意味?」
御珠は首を傾げ、微笑む。
「分からぬ。ただ、言いたくなっただけじゃ」
風がふっと強まる。
網戸がかすかに鳴き、御珠の影が一瞬だけ薄れた。
雪杜の胸に、名のない不安が広がる。
「御珠……?」
「……疲れただけじゃ。妾は神ぞ。すぐ戻る」
雪杜はその言葉を胸の奥で反芻した。
(……戻る?)
ただその響きだけが心に残り、なぜだか胸の奥がひやりとした。
意味は分からない。
けれど、その瞬間の静けさだけは深く刻まれた。
御珠はゆっくりと立ち上がり、網戸の前へ歩み出る。
夜風が頬を撫で、藍の髪がさらりと揺れた。
外には虫の声。内には灯のゆらぎ。
その狭間に立つ姿は、まるで“境界の灯”のようだった。
「……夏の夜は、長いのぅ」
その声は確かにそこにあった。
けれど、響きだけが少し遠かった。
——その夜、雪杜は眠れなかった。
網戸越しの風を頬に感じながら、目を閉じても、御珠の気配が消えなかった。
まぶたの裏で、藍の髪がゆれる音だけが続いていた。
───
朝の空気は、昨日よりも澄んでいた。
蝉の声はもう聞こえず、代わりに鈴虫の細い音が庭の草陰からこぼれている。
光はまだ夏の名残を抱いていたが、その白さにはどこか秋の気配が混じっていた。
玄関の戸が軋む音。
晴臣が帽子を押さえながらゆっくり入ってくる。
その足取りはまだおぼつかないが、顔色は穏やかだった。
「……ただいま」
その一言に、家の空気がやわらかく揺れた。
雪杜はぱっと顔を上げ、駆け寄って荷物を受け取る。
「おかえり!」
「大げさだな。たかが検査帰りじゃ」
晴臣は苦笑して靴を脱ぎ、縁側へ向かう。
その背を、御珠が静かに見守っていた。
「検査とはいえ、命の再確認じゃ。祝いの儀に相応しい」
「はは、神様にそう言われちゃ敵わん」
縁側に腰を下ろした晴臣が、外の空を見上げる。
庭の緑は深く、風の中でゆっくりと揺れていた。
「……蝉がいなくなったな」
「うん。かわりに鈴虫。季節、変わったね」
「夏が眠り、秋が目覚めたのじゃ」
御珠の声は、どこか遠い。
その横顔を見つめながら、雪杜は湯呑を差し出した。
晴臣が受け取り、湯気の向こうで目を細める。
「……やっぱり家の茶がいちばん旨い」
「おじいちゃん、無理しないでね」
「心配するな。わしは自分の足で歩く。――加護を信じすぎると、人は弱るからな」
その言葉に、御珠が小さく笑った。
「ふむ、人は強情じゃのう。……じゃが、それでよい」
縁側を吹き抜ける風が、障子を軽く鳴らす。
その音が、まるで“季節の呼吸”のように静かだった。
雪杜はふと、耳を澄ませる。
「……音が変わったね」
「うむ。夏の音は遠ざかり、秋の祈りが始まる。
妾たちの季節も、少しずつ色を変えてゆくのじゃろうな」
晴臣は湯呑を置き、笑みを浮かべた。
「変わるのはええことだ。生きとる証じゃ」
その言葉を合図にしたように、光が縁側を満たしていく。
三人の影が重なり、ゆるやかに溶け合う。
風鈴が、最後の音をひとつ鳴らした。
――季節は終わる。
光が滲み、縁側の影がふっと薄れる。
次の瞬間、御珠の姿が霞のように透けた。
雪杜が息を呑む。
「……御珠?」
返事はなかった。
風だけが、彼の頬を撫でて通り過ぎる。
その風の中に、微かに祈りの残響が混ざっていた。
――この日を最後に、御珠はいなくなった。
―――
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
第3章、これにて終幕です。
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