エンゲージ・ヒューチャーガール2
空調の駆動音が光の鼓膜を叩いた。
聞き慣れた音だ。理科室はいまだに室外機のあるエアコンを使っているから、いつも聞こえてくる。
焦げ臭い匂いが鼻をつく中、光は意識を浮上させた。
重い瞼を開いて周囲を見渡すと、大量の実験器具や薬品が視界を占領する。
周囲を見渡そうとするが、寝ぼけ頭のせいだろう。体が思うように動かない。
ここは理科準備室だろうか? それにしても、どうしてこんなところで寝ているのだろうか。それも椅子の上で。
直前の出来事を思い出そうとし、光は頭を回転させる。
確か、食堂から理科室へ戻っていたはずだ。
理科準備室から大きな音と焦げ臭い匂いがして、それから……
銃を持った不審者!
光は飛び起きようとした。手足を結ぶ結束バンドに阻まれて、前につんのめる。
その時初めて、光は単に椅子に座っているのではなく、拘束されていることに気がついた。
呻き声を上げようとするが、口が開かない。ガムテープで塞がれているからだ。
思わずみじろぎしているところに、背後から声が掛けられる。
「随分お寝坊さんですね。貴方は惰眠を貪ることしか能がないんですか」
光は息を呑んだ。間違いなく後ろに誰かいる。拘束されていることもあるが、視界が届かない場所に誰かがいることがよほど怖かった。
そうして恐怖のあまり硬直していると、謎の人物は続けて話した。
「面倒くさい勘違いをされる前に、自己紹介をしておきましょう。私は2300年からやってきた時空警察の……」
声は女の声だった。銃を持っていた犯罪者だろうか。冷静な思考とは裏腹に、光の感情はそれどころではなかった。声色はともかく、話の内容が全く頭に入ってこない。少女もそれを感じ取ったのだろう、話が途切れる。
「……まったく、あなたは人の話をまともに聞けないのですか。猿ですか。猿ですね」
光の内心は、既に恐怖で埋め尽くされていた。銃を持った不審者によって椅子に縛り付けられ、口をガムテープで塞がれているのだ。怖がらない方が不自然だろう。
そうして震えることしかできずにいると、足音が聞こえてきた。初めは後ろからコツ……コツ……と聞こえていた音が、右を経由しながら前へと移動してゆく。正面に移動しようとしているのだろう。
光は衝動的に目を瞑った。
……まさか、こんなところで生涯を終えることになるとは。
殺すならせめて一撃で殺してくれないだろうか。痛いのは嫌だ。
こんなことになるなら体調管理くらいしっかりしとけばよかった。
……最後に美味しいもの食べておけばよかったな。
そうして死を覚悟していた光の肩を掴み、目の前の少女が声をかけた。
「今の貴方に言っても大した意味があるとは思えませんが、もう一度だけ。自己紹介をしておきましょう。これは必要なことですから」
十数秒経っても特に変化はなく。痛みを感じることもなかった。
光はゆっくりと、震えながら目を開けたs。
視界に飛び込んできたのは、人形のように整った少女の顔だった。
視界の隅を覆う長い白髪は、夏の夕焼けを反射させて輝いているように見える。肌は陶器のように白かった。
だがそれよりも、光の思考を占拠したのは、少女の赤い瞳だった。
……綺麗。
ルビーのように赤い瞳は、少女の白い肌、白い髪と比べて対照的だった。
まるで燃えているみたいだ。照らされてもいないのに輝いているよう。
オーバルカットされた宝石のようで、微塵の翳りも見えない瞳に見惚れている光であったが、優秀な五感の一つがかろうじて少女の声を捉えることに成功した。
光の瞳が、小さな唇が開くのを捉える。
「私の名前はツァイト。時空警察の警視総監より、時空調査の命を受けて2300年から飛んで来ました。あなたには私の現地協力者になってもらいます」
「落ち着いて話を聞く気になりましたか?」
およそ三分後、光の脳は持ち前の優秀な処理能力を取り戻していた。
光が落ち着くのに三分費やしたわけではなく、一向に冷静さを取り戻さない光に対して、ツァイトが痺れを切らすのに三分要したのだ。
首筋に手を添える。そこは十数秒前、ツァイトに注射器を刺された場所だった。
ツァイトの言葉を信じるならば、中身は未来の鎮静剤らしい。実際、先ほどまでの興奮が煙のように霧散している。
刺すまえに一言くれても良いのではないだろうか? とも思わずにはいられなかったが、不機嫌そうな少女の表情を見るに、言ったところで意味はないだろう。火に油を注ぐことはしたくない。
確かツァイトとか言ったか。可憐な見た目に騙されそうになったが、銃を持っていた。少なくとも犯罪者である。不審者どころではない。
頭の中でツァイトを不審者から犯罪者に格上げしつつ、光は考える。
そもそもツァイトの目的はなんなのか。確か時空警察? で、2300年からやってきた、みたいなことを言っていたような気がする。
……頭が残念な人なのだろうか? そうでなければ、適当に嘘を吹き込まれているか。
後者だとしても、もっとましな嘘をつけよとは思うが。
あれこれ思考を巡らせる光に、ツァイトが声をかける。
「私のことを疑っているのでしょうか事実です。私は2300年から来訪した未来人であり、貴方と不慮の接触を起こしました」
毅然とした態度でツァイトは言った。
「貴方の疑問はもっともです。ことの重大さから先に説明したいところですが、今の貴方に説明してもどうせ理解できないでしょう。あまり時間を無駄にしたくはないのですが、先に私が2300年から来たことを証明することとします」
そう言いながら、ツァイトは見覚えのある携帯を取り出した。
背面が透明なケースに入れられた、ピンク色の携帯を慣れたように操作する。
どこからどう見ても、あれは光の携帯だった。
驚く光をよそに、ツァイトが携帯の画面を見せてくる。顔認証でもするのかと思っていたら、その必要はなかったらしい、ロックは既に解除されていた。
「これから貴方を解放してあげます。携帯を使って好き放題されたくなければ、また三日後にここへ来てください」
その後、光は解放されたのちに新聞を三部ほど渡された。
ツァイトの言葉を信じるならば、新聞は明日から明々後日のものらしい。日付もちゃんと未来のものだ。
新聞を鞄にしまいながら、溜め息をつく。本当は警察に通報するべきなのだろうが、光にその勇気はなかった。
結局、携帯を返してもらえなかったのだ。デジタル化が進んだ現代社会において携帯端末を盗まれることは、まともな日常生活が送れなくなることを意味する。関東圏だと尚のこと、電車もまともに乗れない。その上何故だか知らないが、ロックも解除されていた。どうやらパスワードが知られているらしい。
あまりの不運に泣きそうになってきた。帰ったら甘いものでも食べることにしよう。
拘束のせいで体の節々が痛みを訴えているが、光は無視して帰路につくことにする。実験レポートの存在は忘れることにした。どうせこの疲労では碌に書けまい。
帰宅準備を整え、光は帰路についた。
これほど徒歩圏内に住んでいることに感謝した日はない。不幸中の幸いだろう。
今日は帰るのが遅くなりそうだ。光は空模様を確認するため、空を見上げる。
ほんの数時間前まで綺麗な夕日を写していた空色は、いまや六割ほどが雲に覆われている。珍しいことに、天気予報が外れたようだ。
西の方へ視線を動かすと、赤黒い夕焼けが目につく。
地獄の門のような濃い赤色。とても美しさを感じる情景ではなく、むしろ不吉さを感じる。
すっかり暗くなってしまった帰路を歩きながら、光は仮想ディスプレイを操作して時間を確認する。
無情にも、優秀なデジタル時計は十九時であることを光に教えてくれた。家に着く頃には二十時半を過ぎているだろうか。今日は洗濯機を回せそうもない。
何度吐いたかわからない溜め息を吐きそうになった時、頬に冷たいものが当たった。そうして上を見上げていると、雨音が聞こえてきた。通り雨だ。
このまま豪雨になったら目も当てられない。疲れた体に鞭を打ち、光は走り出すほかなかった。
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