第10話

セラフィーナ・フォン・リヒトハイムが俺の軍門に降ってから、一ヶ月が過ぎた。

王都における俺の「目」と「耳」は、飛躍的にその精度を増していた。


「――以上が、今週の宮廷魔導師団の動向と、貴族派閥の力関係の変化です。マスター」


週に一度、深夜にタウンハウスを訪れるセラフィーナは、もはや以前のような刺々しい雰囲気はなく、従順な弟子として俺に報告を上げていた。赤い髪をきっちりと結い上げ、背筋を伸ばして俺の前に立つ姿は、公爵令嬢としての威厳と、俺の弟子としての忠誠が奇妙な形で同居している。


彼女がもたらす情報は、エラーラが足で稼ぐ断片的な情報とは質が違った。リヒトハイム公爵家が持つ、上流階級の生々しい内部情報。誰が誰と密会し、どの派閥が力を伸ばし、王宮の水面下でどのような陰謀が渦巻いているのか。それらの情報は、俺が王都という名の魔境を支配するための、極めて重要な地図となった。


「うむ。ご苦労だった、セラフィーナ。相変わらず、的確な報告だ」


俺はソファに座ったまま、彼女の報告書に目を通す。その隣で、エラーラが俺のためにお茶を淹れていた。

この光景は、奇妙なものだった。無限の才能を秘めた魔法の天才と、王都随一の頭脳を持つ公爵令嬢。その二人が、辺境貴族の「出来損ないの三男」である俺に、甲斐甲斐しく仕えているのだから。


「それで、マスター。約束の…は、いただけますでしょうか?」


報告を終えたセラフィーナが、期待に満ちた、しかしどこか縋るような目で俺を見る。

彼女にとって、俺への奉仕は苦痛ではない。それは、最高のを得るための、当然の取引なのだ。


俺は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、彼女に投げ渡した。


「今日の報告への対価だ。時空間魔法における座標固定の基礎理論だ。お前が今取り組んでいる転移魔法陣の研究の、良いヒントになるだろう」


「…っ! ありがとうございます、マスター!」


セラフィーナは、まるで聖遺物でも受け取るかのように、恭しくその羊皮紙を受け取った。そこに書かれているのは、この時代の魔法レベルを数百年は超越した、前世の俺の知識のほんの断片。だが、彼女のような天才にとっては、世界の真理を垣間見るに等しい、至上の宝だった。


彼女は羊皮紙を胸に抱きしめ、恍惚とした表情を浮かべている。その姿は、もはやただの弟子というより、狂信的な信者のそれに近かった。知識という麻薬は、時としてどんな忠誠心よりも強く、人を縛り付ける。


セラフィーナが退出した後、部屋には俺とエラーラだけが残された。

エラーラは、静かに俺のカップにお茶を注ぎ足しながら、ぽつりと呟いた。


「…あの人、少し、怖いです」


「怖いか?」


「はい。目が…笑っていません。いつも何かに飢えているような、そんな目をしています」


エラーラの純粋な瞳は、セラフィーナの本質を正確に見抜いていた。

俺は、そんなエラーラの頭を優しく撫でた。


「お前は、そのままでいい。エラーラ。お前は、僕のだ。ただひたすらに強く、鋭く、僕の意のままに全てを斬り裂く刃であればいい」


「はい、マスター」


「そして、セラフィーナは僕のでありだ。あらゆる情報を集め、分析し、僕を外部の脅威から守り、計画を補佐する。それぞれに、それぞれの役割がある」


エラーラは魔法戦闘における圧倒的な実行部隊。

セラフィーナは情報戦と政治工作を担う参謀本部。

そして、その両方を支配し、最終的な決断を下すのが、俺――リアム・アシュフィールド。


俺の計画の骨子は、この一ヶ月で確固たるものとなっていた。だが、盤面はまだ完成していない。決定的に足りない駒が、まだあった。


「エラーラ。お前に、新しい任務を与える」


「任務、ですか?」


「ああ。王都の商業ギルドに、ある人物がいるはずだ。『金色の狐』ゴールデン・フォックスの異名を持つ、若き商人。表向きはしがない両替商だが、裏では王都の闇金融を牛耳っているという噂だ。その男を、探し出せ」


剣と盾だけでは、国は動かせない。

世界を支配するために不可欠なもの。それは、。経済という名の血流を掌握するための、第三の駒が必要だった。


「その男を見つけ出し、僕に引き合わせろ。ただし、相手は一筋縄ではいかない。貴族の権威も、魔法の脅しも、おそらく通用しないだろう。お前のやり方で、彼が僕に会わざるを得ない状況を作り出すんだ」


それは、これまでのように俺が筋書きを用意しない、初めてエラーラ自身に裁量を委ねる任務だった。彼女が、ただの戦闘人形ではなく、自ら考え、行動する駒へと成長するための、最初の試練でもある。


エラーラの翠色の瞳に、強い意志の光が宿った。


「…仰せのままに、マスター。必ずや、成し遂げてみせます」


彼女の返事に、俺は満足げに頷いた。

剣は、自らの意志で鞘から抜け出すことを覚え始めた。

盾は、知識という餌を与えられ、より強固になっている。

そして、次なる駒が加われば、俺の王都における基盤は、盤石なものとなるだろう。


夜の静寂に包まれたタウンハウスで、俺は新たな盤面を思い描き、静かに笑みを浮かべる。

歴史の教科書には、決して載ることのない支配者たちの、静かな会議は終わった。

そして、世界が彼らの意のままに動き出すまで、もういくばくかの時間も残されてはいなかった。

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