第11話
エラーラにとって、リアムから与えられる任務は、世界の全てだった。
魔法の修業は、彼女に力を与えてくれた。図書館での筆写は、知識を与えてくれた。だが、今回の任務は、それらとは全く異質のものだった。
――
それは、彼女が初めて、己の意志で道筋を考え、行動することを求められた試練だった。
翌日から、エラーラの行動パターンは変わった。図書館へは向かわず、彼女は王都で最も金と欲望が渦巻く場所――商業ギルドとその周辺地区へと足を運ぶようになった。
しかし、彼女は闇雲に聞き込みなどしなかった。マスターの教えは、まず観察すること。
彼女は、パン屋の店先でパンをかじりながら、大通りを行き交う商人たちの顔と服装を記憶する。裏路地の酒場の窓から漏れる、酔っ払いたちの自慢話や愚痴に、魔法で集音した風を送り込んで耳を傾ける。衛兵の巡回ルート、用心棒たちの力関係、そして何より、金の流れ。誰が誰に頭を下げ、誰が誰から金を受け取るのか。その金の流れの先に、目当ての人物はいるはずだった。
三日後。エラーラは、ついにその中心点を見つけ出した。
商業地区の表通りから一本外れた路地にある、小さな両替商。『ヴァレリウス商会』という、ありふれた看板を掲げたその店は、しかし、人の出入りが絶えなかった。
出てくる者は皆、一様に安堵の表情か、あるいは絶望の表情を浮かべている。そして、時折、明らかにカタギではない、屈強な男たちが店主と短い会話を交わしては、満足げに去っていく。
エラーラは、物陰からじっとその店の主を観察した。
年の頃はまだ若く、二十歳前後だろうか。プラチナブロンドの髪を後ろで緩く束ね、金縁の眼鏡の奥で、全てを見透かすような金色の瞳が静かに輝いている。身なりは良いが、これみよがしな装飾品はない。彼はただ、指先で金貨を弄びながら、客の話を静かに聞いているだけだ。
だが、エラーラの本能が告げていた。あの男こそが、
問題は、ここからどうやって彼をマスターの元へ引きずり出すか。
セラフィーナが相手だった時のように、知識で圧倒することはできない。暴力で脅しても、彼の背後にいるであろう裏社会の人間が出てくるだけだろう。
(マスターなら、どうする……?)
エラーラは目を閉じ、リアムの教えを反芻する。
――相手の土俵で戦うな。自分の土俵に、引きずり込め。
レオ・ヴァレリウスの土俵は、「金」と「取引」。
ならば、その土俵そのものを、こちらの魔法で揺るがしてやればいい。
その日の深夜。
エラーラは、再び『ヴァレリウス商会』の前に立っていた。もちろん、リアムに教わった隠蔽魔法で、その姿は誰にも見えない。
彼女は店の壁にそっと手を触れると、意識を集中させた。目標は、店の奥にあるであろう、最も重要なものを保管している場所――金庫室。
彼女は、攻撃魔法を使ったわけではない。破壊などすれば、ただの賊の仕業で終わってしまう。
彼女がやったのは、もっと陰湿で、そして魔法的な嫌がらせだった。彼女は、金庫室の扉に使われている金属の分子構造に、極めて微弱な魔力で干渉し、その結合をほんのわずかだけ歪ませたのだ。それは、物理的には何の変化ももたらさない。だが、その扉を開けるための「鍵」が持つ、固有の魔力波長とは、完全にズレてしまう。
つまり、
これは、どんな鍵師にも、どんな盗賊にも、そしてどんな物理的な手段をもってしても、決して開けることはできない。原因が、魔法にあるのだから。
◇◇◇
翌朝。『ヴァレリウス商会』の店内は、静かなパニックに陥っていた。
「…レオ様。ダメです。どの鍵を使っても、びくともしません…!」
屈強な用心棒たちが、汗だくで報告する。
レオ・ヴァレリウスは、金色の瞳を細め、腕を組んで鉄製の巨大な金庫の扉を睨みつけていた。傷一つない。だが、開かない。
彼は、これがただの故障ではないと、瞬時に理解していた。昨日の夕方までは、何の問題もなかったのだ。
これは、何者かによる攻撃。それも、自分たちの理解を超えた、不可解な手段による。
その時、店の入り口のベルが、ちりん、と鳴った。
レオが視線を向けると、そこに立っていたのは、場違いなほど小さな、亜麻色の髪の少女だった。
「何か、お困りですか?」
その少女――エラーラは、純真無垢な子供の顔で、しかし、全てを知っているかのような口調で言った。
レオの部下たちが「子供はあっちへ行け」と追い払おうとするのを、彼は手で制した。
「…君は?」
「私の主人が、あなたとお話があるそうです」
「君の主人? 残念だが、今は取り込み中でね。子供の使いに付き合っている暇はないんだ」
レオが冷たくあしらうと、エラーラは少しも怯むことなく、続けた。
「その金庫、もう開きませんよ。どんなことをしても」
その言葉に、レオの金色の瞳が、初めて鋭い光を宿した。
「…君が、やったのか?」
「いいえ。でも、どうすれば開くかは知っています。私の主人が、教えてくれました」
エラーラは、一歩前に出る。
「私の主人は、あなたに取引を持ちかけたいそうです。金庫を元に戻すこと。それが、取引のテーブルに着くための、こちらからの手土産です」
レオは、目の前の少女をまじまじと見つめた。
子供の悪戯ではない。彼女の瞳の奥には、自分と同じ種類の、冷徹な光が宿っている。そして、その背後には、得体の知れない強大な存在がいることを、肌で感じていた。
これは、脅しだ。だが、同時に、これはビジネスの誘いでもあった。
「…面白い」
レオの口元に、初めて笑みが浮かんだ。それは、彼の異名である狐のように、狡猾で、好奇心に満ちた笑みだった。
「分かった。君の主人の話を聞こう。…案内してくれ」
その日の夕方。
エラーラは、プラチナブロンドの若き商人を連れて、タウンハウスの扉を開けた。
リビングのソファで本を読んでいたリアムは、顔を上げると、にこりと笑った。
「ようこそ、
第三の駒は、自らの足で、チェス盤の上へと上がってきた。
剣と盾、そして金。王都を裏から支配するための役者は、今、この瞬間に揃ったのだ。
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