第9話

翌日、王立学院の大図書館。

セラフィーナ・フォン・リヒトハイムは、いつもより早くからそこにいた。研究のためではない。ただ一点、書架の一角に座るであろう少女を、待つためだけに。

彼女の心は、嵐のように荒れ狂っていた。昨日、父の名で突きつけたはずの要求は、何の返答もなく無視された。それはリヒトハイム公爵家に対する、明確な侮辱。本来であれば、家の総力を挙げて相手を社会的に抹殺してもおかしくない事態だった。


だが、今のセラフィーナにとって、そんなことは些末な問題だった。


やがて、見慣れた亜麻色の髪の少女、エラーラが姿を現す。セラフィーナは逸る心を抑え、彼女がいつもの席に着くのを待った。エラーラは、セラフィーナの存在に気づいているのかいないのか、いつも通りに静かに席に着くと、鞄から羊皮紙とペンを取り出した。

しかし、今日彼女が広げたのは、書き写すための魔導書ではなかった。


一枚の、簡素な羊皮紙。

それを、エラーラはセラフィーナの方へ向けて、机の上にそっと置いた。

セラフィーナは、吸い寄せられるようにその席へと歩み寄り、羊皮紙を覗き込む。


「―――っ!」


息を呑んだ。

そこに描かれていたのは、魔法陣だった。

彼女が、そしてリヒトハイム家が百年以上をかけて追い求めてきた、高位精霊召喚のための術式。だが、それは彼女が知るものとは、似て非なるものだった。無駄な経路がすべて削ぎ落とされ、魔力の流れは淀みなく、術式の隅々にまで揺るぎない理論的裏付けが感じられる。美しい。神の設計図とは、きっとこのようなものなのだろう。


これは、ただの改良ではない。次元が違う。

子供の落書きと、芸術家が描いた名画ほどの差が、そこにはあった。


そして、セラフィーナは悟った。

これは、公爵家への返答などではない。これは、彼女――セラフィーナ・フォン・リヒトハイム個人に対する、であり、そして抗いがたいなのだと。


「…案内、しなさい」


絞り出すような声で、彼女は言った。プライドも、公爵令嬢としての立場も、今はどうでもよかった。

知りたい。この術式を描いた人物に、会わなければならない。

エラーラは、すべてを予期していたかのように静かに頷くと、無言で立ち上がり、図書館を後にした。


◇◇◇


夕暮れ時。貴族街の片隅にある、古びたタウンハウス。

セラフィーナは、昨日、探知魔法を完全に弾き返された、あの忌々しい建物の前に立っていた。エラーラが扉をノックすると、中から静かに扉が開かれる。


中に入ると、そこは質素だが、塵一つなく整頓された空間だった。そして、リビングの中央にあるソファに、一人の少年が座っていた。

アシュフィールド男爵家の三男、リアム。年の頃は、まだ六つか七つ。資料で見た通りの、平凡で、何の変哲もない子供。


――その、琥珀色の瞳を除いては。


彼の瞳は、子供が持つべき純真さや好奇心とは無縁だった。そこにあるのは、まるで悠久の時を生きてきたかのような、全てを見透かす深い叡智と、底知れない静かな闇。

セラフィーナは、その瞳に見つめられた瞬間、蛇に睨まれた蛙のように身体が動かなくなった。


「ようこそ、セラフィーナ・フォン・リヒトハイム嬢。僕の聖域サンクチュアリへ」


子供のか細い声。だが、その響きは、魂に直接語り掛けてくるかのような重みを持っていた。

セラフィーナは、かろうじて言葉を紡ぎ出す。


「あなたが…リアム・アシュフィールド? あの魔法陣は、あなたが?」


「いかにも」


リアムは、表情一つ変えずに肯定した。

セラフィーナは、信じられなかった。信じたくなかった。自分の生涯をかけた研究を、目の前の子供が、まるで遊びのように凌駕してしまったという事実を。


「…あなた、一体、何者なの…?」


「僕は、リアム・アシュフィールド。ただの、魔法を愛する者だ。そして、君と同じく、世界の真理を探求する、しがない研究者だよ」


リアムはソファから立ち上がると、セラフィーナの前まで歩み寄る。


「君の術式は、惜しかった。発想は悪くない。だが、根本が間違っている。精霊とは、魔力で召喚するものではない。彼らの世界の理を理解し、敬意を払い、対等な立場で呼び出すものだ。君の術式には、その思想が決定的に欠けていた」


それは、彼女が心のどこかで気づいていたが、プライドが邪魔をして認めることのできなかった核心だった。

目の前の少年は、その全てをお見通しだったのだ。


「さて、本題に入ろうか」


リアムは、小さな体には不釣り合いな、尊大な態度で言った。


「君は、知識が欲しい。僕は、君という駒が欲しい。実に、分かりやすい関係だ」


「駒ですって…!?」


「他に何と呼ぶ? 君は、僕が撒いた餌にまんまと食いつき、こうして自ら出向いてきた。違うか?」


ぐうの音も出ない。事実、その通りだった。

セラフィーナは、人生で初めての、完全なに唇を噛んだ。


「君に、二つの道を与えよう」


リアムは、小さな人差し指を一本立てる。


「一つは、このまま何も聞かなかったことにして、ここを立ち去る道。君は公爵令嬢としてのプライドを守れるだろう。そして、生涯、答えに辿り着くことのない研究に、その才能を浪費し続けることになる」


彼は、二本目の指を立てた。


「もう一つは、僕の協力者となる道。僕の目となり、耳となり、時には手足となって、王都の情報を集め、僕の指示に従う。その見返りに、僕は君にを与えよう。君が一生かかっても辿り着けない、魔法の深淵を、その片鱗を見せてやる」


それは、悪魔の契約だった。

プライドを捨て、この幼い魔王の軍門に降るか。それとも、真理への道を永遠に閉ざされるか。

だが、セラフィーナにとって、答えは初めから決まっていた。魔法の探求者である彼女にとって、知識への渇望は、他の何物にも勝る本能なのだ。


「…分かり、ましたわ」


セラフィーナは、ゆっくりと膝を折り、目の前の少年に頭を垂れた。それは、公爵令嬢が、生涯で誰にも見せたことのない、完全な臣従の礼だった。


「私を、あなたの道具としてお使いください。…師匠マスター


その言葉を聞いて、リアムは初めて、かすかな笑みを浮かべた。

それは、新たな駒を手に入れた、チェスのプレイヤーが浮かべる、冷徹で、満足げな笑みだった。


「歓迎するよ、セラフィーナ。僕の二人目の弟子。――そして、二人目の駒」


こうして、王都最強の天才少女は、歴史の影に潜む元大賢者の支配下に落ちた。

リアムの計画は、また一つ、大きな歯車が噛み合った瞬間だった。

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