第8話

セラフィーナ・フォン・リヒトハイムは、ここ数日、自身の研究室に籠りきりになっていた。

壁一面を埋め尽くす書棚には、彼女が生涯をかけて集めてきた貴重な文献が並んでいる。その中心にある机の上には、一枚の羊皮紙が広げられていた。そこに描かれているのは、古代文明期に用いられたとされる、高位精霊を召喚するための極めて複雑な魔法陣だ。


これは、彼女が今、最も心血を注いでいる研究テーマ。リヒトハイム公爵家に代々伝わる悲願であり、成功すれば魔法史を塗り替えるほどの大偉業となるはずだった。

しかし、彼女の思考は、研究とは全く別のことで占められていた。


(なぜ……なぜ、あの子が……)


彼女の脳裏に浮かぶのは、図書館で一心不乱に本を写す、あの従者の少女の姿。

昨日、セラフィーナは信じがたい光景を目にした。エラーラが新たに書き写し始めた文献のテーマが、それまでの古代ルーン文字やエーテル力学から、がらりと変わっていたのだ。

そのテーマこそが――だった。


それも、ただの概論書ではない。『精霊言語における第七母音の音韻構造』『魔力触媒としての星屑銀スターダスト・シルバーの可能性』。そのどれもが、セラフィーナが今まさに直面している研究の核心に触れていた。


偶然? あり得ない。

まるで、こちらの思考をすべて読み取った上で、的確に知識を漁っているかのようだ。あの出来損ないの三男坊、リアム・アシュフィールドが、これを指示しているというのか?


「……ふざけないで」


セラフィーナの口から、氷のように冷たい声が漏れる。

もはや、我慢の限界だった。彼女は椅子から立ち上がると、研究室を飛び出し、一直線に王立学院の大図書館へと向かった。謎の答えは、あの少女自身から聞き出すしかない。


◇◇◇


いつものように、エラーラは書架の一角で黙々とペンを走らせていた。

その背後から、怒気を孕んだ影が近づいてくる。


「――あなたに、聞きたいことがあるわ」


セラフィーナの声に、エラーラはゆっくりと顔を上げた。その手元にある羊皮紙には、セラフィーナが見慣れた魔法陣──彼女が研究しているものと酷似した、しかし明らかに術式が描き写されていた。


「なぜ、あなたがそれを……? その文献は、閲覧に特別な許可が必要な禁書庫にあるはずよ」

セラフィーナの声は、怒りで震えていた。


エラーラは、俺が教えた通り、純粋な瞳で、しかし少しだけ困ったように眉を寄せて答えた。


「すみません……。主人が、この本を探すように、と」


「また主人……! いい加減にしてちょうだい! あなたの主人は、一体何者なの!? 私の研究をどこで知ったの!?」


激昂するセラフィーナに対し、エラーラは落ち着き払っていた。そして、俺が彼女に授けた、次の一手を放つ。


彼女は、自分が書き写した魔法陣の一点を、小さな指で指し示した。


「あの……私の主人が、この術式を見て、こう仰っていました」


「……何ですって?」


「この魔法陣は、根本的なエーテル魔力素子の解釈に誤りがある、と」


その瞬間、セラフィーナの頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。

エーテルの解釈に、誤り? リヒトハイム家が百年以上をかけて研究し、改良を重ねてきた秘術に対して、何ということを。


エラーラは、無慈悲な追撃を加える。


「魔力を無理やり精霊界に流し込むのではなく、こちらの世界の理と精霊界の理を繋ぐとなるべき魔力流の経路が、これでは完全に塞がってしまっている、と。……もっと、ずっと効率的スマートな方法がある、とも」


それは、セラフィーナが心の奥底で感じていたが、プライドが邪魔をして認めることのできなかった、この術式の根本的な欠陥そのものだった。

それを、会ったこともない謎の「主人」が、いとも容易く、的確に指摘してみせたのだ。


「な……」


セラフィーナは、言葉を失った。目の前の少女が、悪魔に見えた。いや、その背後にいる、顔も見えぬ主人が。完膚なきまでに打ちのめされたプライドは、やがて燃え盛るような怒りと執着へと変わった。


「……いいわ」


セラフィーナの声は、先ほどまでの激情が嘘のように静まり返っていた。


「あなたの主人に、伝えなさい。リヒトハイム公爵の当主、グスタフ・フォン・リヒトハイムの名で、一度お会いしたい、と。この無礼、直接問いただす必要がある、とね」


父親の名を出したのは、彼女に残された最後の意地だった。


エラーラは、こくりと頷いた。


「承知いたしました。そのように、お伝えします」


嵐のように去っていくセラフィーナの背中を見送りながら、エラーラは小さく息を吐いた。

(……マスターの、言った通りになった)

彼女の心には、師匠への絶対的な信頼と畏敬の念が、さらに深く刻み込まれるのだった。


◇◇◇


夜、タウンハウス。

エラーラからの報告を受けた俺は、満足げにチェスの駒を一つ、盤上で進めた。


「リヒトハイム公爵の名を出してきたか。追い詰められた挙句、親の権威に頼るとはな。天才も、形無しだな」


「マスター。これから、どうするのですか?」


「どうもせんさ。招待状は、受け取らない」


俺の言葉に、エラーラは意外そうな顔をする。


「公爵からの呼び出しを無視すれば、アシュフィールド家がどうなるか。あの令嬢は、そう考えているのだろう。だが、それはが通用する相手の話だ」


俺は立ち上がり、窓の外を見つめた。

セラフィーナは、まだ分かっていない。彼女が相手にしているのが、貴族社会のルールなど何の意味も持たない存在だということを。


「エラーラ。明日、図書館へ行ったら、これをセラフィーナに渡せ」


俺は、一枚の羊皮紙を彼女に手渡す。そこには、俺が記憶から再現した、完璧な高位精霊召喚の魔法陣が、ただ一言の添え書きもなく描かれていた。


これは、最後の挑発。

そして、彼女を俺の駒として引き入れるための、抗いがたいだ。


「公爵の呼び出しには応じない。だが、答えはくれてやる。――プライドを捨てて、教えを乞いに来たければ、いつでも門戸は開いている、とな」


俺は冷たく笑った。リヒトハイム公爵家が持つ、知識、権力、財産。その全てが、もうすぐ俺の手に落ちる。

王都という名の盤上で、俺のゲームは、また一つ大きな局面を迎えようとしていた。

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