第7話

セラフィーナ・フォン・リヒトハイムは、生まれてこの方、一度として「敗北」というものを味わったことがなかった。

魔法の実技において、同年代で彼女の右に出る者はいない。魔導理論の分野では、学院の教授陣ですら彼女の鋭い質問に答えに窮することがある。リヒトハイム公爵家という血筋、恵まれた魔力量、そして何より自身の飽くなき探求心──それらが、セラフィーナという天才を形成していた。


――あの従者の少女に会うまでは。


「私の主人は、あなたが一生かかっても理解できないようなことも、全て知っています」


あの言葉が、セラフィーナの頭から離れない。あれは無知な子供の虚勢ではない。あの翠色の瞳には、一点の曇りもない、絶対的なが宿っていた。

あの日以来、セラフィーナは自身の研究をすべて中断し、あの謎の主従の調査に没頭していた。


まず、彼女はリヒトハイム公爵家の情報網を使い、アシュフィールド男爵家について徹底的に調べさせた。

結果は、拍子抜けするほど平凡なものだった。辺境の、特筆すべき点のない貧乏貴族。当主は凡庸、長男と次男は剣の心得があるらしいが、魔法の才能は皆無。

そして、三男のリアム・アシュフィールド。五歳の魔力測定の儀式では「魔力量、人並み。属性適性、土に微少」。成績も凡庸で、目立たない子供。それが、公式な記録の全てだった。


「……あり得ないわ」


セラフィーナは、自室で調査報告書を握りつぶした。あの少女、エラーラが書き写していた本の数々──そのどれもが、並の宮廷魔導師でも一生触れることのないレベルの代物だ。そんなものを、魔力もない平凡な六歳の子供が欲するはずがない。記録が間違っているのか? それとも、何かをのか?


次に、セラフィーナはエラーラ自身の身元を洗った。アシュフィールド領の孤児院出身。両親は魔物に殺され、最近になってリアム・アシュフィールドの従者として正式に雇用された──それだけ。特技も学歴も、何もない。


「情報が、なさすぎる……。まるで、最近になって突然、この世に現れたみたいじゃない……」


調べれば調べるほど、謎は深まるばかりだった。情報が筒抜けであるはずの下級貴族の記録が、まるで鉄壁に守られているかのように何も出てこない。この異常事態そのものが、裏に何か巨大な存在がいることを示唆していた。


業を煮やしたセラフィーナは、最終手段として自身の目で直接確かめることにした。彼女は学院でもトップクラスの魔力探知能力を誇る。あの子が本当に魔法を使えるのなら、その痕跡を捉えられないはずがない。


翌日、セラフィーナは気配を完全に消し、図書館から帰路につくエラーラを密かに尾行した。夕暮れの雑踏に紛れる小さな背中を、彼女は見失わないように慎重に追う。やがて、エラーラは貴族街の片隅にある古びたタウンハウスへと入っていった。

(ここが、奴らの拠点……!)


セラフィーナは近くの建物の屋根に音もなく飛び移ると、そこからタウンハウス全体を魔力でスキャンした。だが──。


「……何もない?」


彼女の探知魔法は、まるで厚い壁に阻まれるかのように、タウンハウスの内部に一切侵入できなかった。それどころか、屋敷そのものから生命反応や魔力の痕跡といった情報が、のだ。

まるで、そこだけが空間ごと切り取られたかのように、完璧な「無」だった。


「結界……? これほどの強力な探知阻害結界、王宮の最深部でもお目にかかったことはないわ……!」


セラフィーナは愕然とした。辺境の三男坊が、これほどの結界を張れるはずがない。では、誰が? あのエラーラという少女が? それとも、その背後にいる、顔も見えぬが?


もはや、疑いは確信に変わっていた。あの主従は、ただ者ではない。彼らは、何かとてつもない秘密を隠している。

そして、その秘密の一端は、エラーラが毎日書き写しているあの膨大な知識の中にあるはずだ。


セラフィーナの心に、焦りと、それ以上に強い好奇心の炎が燃え上がった。魔法の真理を探求する者として、この謎を見過ごすことは、彼女のプライドが許さなかった。


◇◇◇


その夜、タウンハウスの一室。俺は、エラーラが今日一日かけて書き写してきた羊皮紙の束に目を通していた。その完璧な仕事ぶりに満足げに頷く。


「マスター。今日も、あの赤い髪の人が遠くから私を見ていました」

エラーラが、少し不安そうに報告する。

「そうか。気にするな。彼女はまだ、こちらの庭の周りをうろついているだけだ。中へ入る勇気はない」


俺は、セラフィーナの尾行にも、彼女が仕掛けた魔力探知にも、すべて気づいていた。エラーラが毎日通る道筋には、彼女の行動を監視するための、俺の使い魔である極小の風の精霊シルフィードを無数に配置してある。王都の全てが、俺の目であり、耳なのだ。


セラフィーナ・リヒトハイム。予想以上に慎重で、そして優秀だ。だが、それゆえに彼女は、俺が仕掛けた罠の本質にまだ気づいていない。

俺がエラーラに本を写させている本当の目的──それは、セラフィーナのような探求心旺盛な人間を惹きつけるためのであると同時に、彼女自身が持つ知識を、俺たちが逆に吸い上げるためのでもあるのだ。


エラーラが書き写した羊皮紙。そこには、ただ文献の内容が書かれているだけではない。俺はエラーラに、彼女が本を読んでいるときに周囲の人間がどんな本を読み、どんな会話をしていたか、その全てを記憶し報告させていた。特に、あのセラフィーナがどんな分野に興味を持っているのかを。


「エラーラ。明日からは、このリストの本を優先的に探せ」


俺は新しいリストを彼女に渡す。そこには、セラフィーナが最近研究しているであろう「古代精霊魔法」に関する文献が並んでいた。


「はい、マスター」


エラーラは俺の本当の狙いに気づくことなく、純粋な瞳で力強く頷いた。これで、次の餌は撒かれた。プライドが高く、才能に溢れた飢えた猛禽もうきんは、この餌に食いつかざるを得ないだろう。


俺は窓の外に広がる、月明かりに照らされた王都を見下ろす。セラフィーナ・リヒトハイム──リヒトハイム公爵家。駒として飼い慣らすには少々骨が折れるかもしれない。だが、手に入れた時の利益は計り知れない。


「せいぜい、足掻くがいい、天才少女」


俺の唇に、冷たい笑みが浮かんだ。盤上のゲームは、静かに、しかし着実に次の段階へと移行していた。

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