第49話 「河骨の喉を締める」

 午前を眠りに充て、昼刻。ギルドの裏卓に地図を広げると、川筋に三つの印――港〈封〉、川口〈封〉、そして内陸の集荷場〈河骨〉。セルジオが短く区切る。

「腹はここだ。穀の名目で粉を寄せる“倉”。表は穀印で固め、裏は鈴で動かす。鳴りは“高二→低一”。昨夜の逆」

 レオンが役割を並べる。

「俺とアキラが中。サビーネは屋根。ヘルミナは匂いと手当。衛兵は外で封じ。――クロは先行の鼻と『ぱち』、無理はしない」


 装備は軽く。棒、薄紙束、封札、濡れ布、細い楔。鈴紐の結び目を一度確かめ、革の指当てを締め直す。クロは布襟をきゅっと着け、机の端で前足をそろえて「じゅんび、OK」と尾の先をぴっと跳ね上げた。かわいい。けれど、仕事の顔。


 白樺亭の前でフィオナが小瓶を二つ差し出す。「薄い果実水。猫さんのは塩抜き」

「のむ」相棒は素直に一口。喉がころと鳴って、耳が気持ちよさそうに寝た。


 川沿いの道は、昼でも草が湿っている。昨夜の粉が乾き、甘い匂いが切れ切れに浮いては消える。俺は目地を選び、匂いの帯だけをそっと上へ押し上げた。足下は静か、鼻は荒れない。

 葦の手前でクロがぴたりと止まり、前足を小さく上げて空をちょい、と突く。「いと」

 ヘルミナが藻で湿らせた布を取り出し、俺が指で示した角度にそっと当てる。樹脂糸がふにゃ、と落ちた。

「足止めの浅罠。人を転ばせて鈴へ走らせる、いやな仕込みね」

「切らずに濡らす。跡が残る」レオンが印を付ける。


 “河骨”の集荷場は水車と倉が三棟。表札は穀印、板壁は新しい釘で縁が光る。脇の小屋の軒下には細い鈴が二つ。高い方に煤、低い方は磨かれている。使われ方の差がくっきりだ。

「表は客の目。裏は“音”」レオンが息を潜める。

 正面は避け、物揚げの側面へ。古い戸の釘穴が増えている。鍵は昼の顔で、甘い。棒先で舌を押し、ひとひねり。かちゃ。音は薄紙一枚ぶんだけ。


 内は冷えた空気。藁と布の匂いの下に、甘さが沈む。棚の足をこん、と叩くと空洞。板を一枚外せば、蜜で固めた塊が二つ、粉袋が六、蝋板が一。

《鈴=高二→低一/夜八/小舟“河骨”/次:丘路・灰》

 最後の一字。“灰”。まだ先に手がいる。


 階段の上で足音。二、呼吸は若くない。

「来る」レオンが指で合図。俺は粉袋の口を結び、棚を元に戻す。サビーネは既に屋根。クロは影に伏せ、瞳だけが真丸に光る。尻尾がぴくり。緊張の合図。

 戸が半分だけ開き、顔が覗く。腕輪。灰の指。

「出荷は夕方だろう」年長の声。

「帳面だけ。鈴の紐を見に来た」レオンが淡々と返す。

 眉がわずかに緩んだ瞬間、屋根から“ことり”。サビーネの合図。上は抑えた。

 年長が一歩入る。若い方が笛へ指を伸ばす――クロが跳んで、前足で笛の口に「ぺた」。爪は出さない。押す角度だけで音を止め、「だめ」と小さく鳴いた。可愛い顔で真剣。

 俺は棒の根で年長の肘を軽く払う。骨を狙わない角度で肩をずらし、短剣は床へ。ヘルミナが背から回り、素早く手首に布。縛りは柔らかいが外れない。


 屋根裏からサビーネの報。

「鈴の引き綱、樋沿い。樹脂。片側で切替え可能」

「鳴りを鈍らせる」ヘルミナが濡れ布で根元を湿らせる。樹脂がきゅ、と冷えた音を立てた。

 外で衛兵の鈴が控えめに一打。封の合図。

 レオンが年長の視線を受け止める。

「蝋板は押収。人は外で預かる。夜八の前に終わらせる」


 戸を閉める前、クロが床板の隙間に鼻先を差し込み、「した」。

 棒で軽く叩く。薄い音。板を外すと、布包み。短い飛針筒と影糸の巻、琥珀膠。

「港と同じ“糸”。川筋の仕立てだ」俺が封札を貼る。

 それから、匂いの向きをもう一度だけ上へ逃がす。甘さが外へ出ないように。


 外へ。河岸の陰に二輪の荷車が三台。軸下に布が巻いてある。巻きが揃いすぎだ。

「鎖で一斉に梶を切る手」レオンがしゃがんで耳を澄ます。「輪の位置は……ここ」

「動いた瞬間に切る。今は触らない」

 橋の向こうで小舟が二、棹を立てたまま待つ。艫には小旗――狐の尾を細く染めた印。

 風の筋が変わる。上流から、鉄と油。合図の刻が近い。


 その時、倉の裏の垣根が、擦れた。音は小さいが、急ぎの歩幅。

 クロの背がふくらみ、尾の先がぱちっと微かに光った。相棒がこちらを見上げる。「くる」

「位置は?」

「みぎ、はやい」

 レオンが頷き、指を二本立てる。通路の左右に俺と彼。サビーネは屋根の角、ヘルミナは鈴の根。走らない。受け止めて止める。

 垣根の影から、布顔が二。ひとりは鈴へ、ひとりは梶棒へ。

 俺は“風”を細く張り、鈴の引き綱と布顔の足の間に見えない“段差”をつくる。足が半拍、沈む。サビーネの矢がその肩の上、板壁へ“こん”。顔が止まる。

 梶棒の男は早い。鎖の端に指。輪に火口が巻いてある――火で楔を焼いて外すつもりだ。

 クロの尻尾が高く立ち、ぱちっ。糸のような青白い火花が輪へ走り、火口がくしゅと潰れる。

 「いまの、ぼく」相棒は胸を張った。可愛い。

「助かった。――レオン!」

「任せろ」彼の刃が輪の“油”だけを切り、鎖は力を失って垂れた。


 倉の表で鈴が一度、乾いた高音。外の見張りが気づいた。返すように、どこかで低音が一打。蝋板の指示“高二→低一”の最初の一歩が踏まれかける。

 ヘルミナが濡れ布で根をさらに湿らせ、鳴りを鈍くする。「次は鳴らない」

 レオンが短く息を整えた。「門のときと同じだ。流れを切る。――アキラ、右へ。クロ、足元」

 俺は棒の握りを確かめ、薄い“風”を通路に置く。匂いと音の“芯”をここで折るため。

 垣根の向こうから、今度は重い足音。軽い鎧ではない。棍棒の木が擦れる太い音――。

「背、でかい」クロが耳を伏せ、小さく唸る。

 川筋の“沼鬼”。引き手に使われることがある。人より一回り大きい。

 サビーネが弦に触れ、矢羽根が小さく鳴った。屋根の角で、彼女の影が低く構える。

 俺は息を一つ吐き、足の裏へ意識を落とす。走らない。受ける。止める。

 ――ここからが、喉だ。



 川沿いの道は、昼を過ぎると音が薄くなる。水車小屋の羽根がきぃと回り、粉を挽く匂いが風に乗った。地図で印を付けた“河骨”はこの先の集荷場――川幅が狭まり、荷をいったん陸に上げる場所だ。


「歩幅はそのまま。声は短く」レオンが言う。

「屋根は私。合図は一度だけ」サビーネが茂みへ消えた。

 ヘルミナは藍布を折りたたみ、俺は棒の握りを一度確認する。クロは前足を揃え、耳を前に向けた。「あまい、すこし。……にがい、すこし」


 苦い匂い――胡椒煙の下拵えだ。粉の匂いに混ぜてくる。深呼吸はしない。川べりの柳まで出て、地面の筋を見た。車輪の跡が二つ、重ねてある。片方は浅く、片方は重い。浅いほうの轍には、わざと鉄釘を踏ませた凹みが残っていた。偽装の“囮”だ。


「軽い荷車が先。重いのは隠れて回る」

「分岐、二つ先だな」レオンが頷く。


 分岐の手前、土手道に低い板橋。下は浅い流れ。橋の下に、麻縄が一本ぴんと張ってある。引けば橋桁が落ちる仕掛けだ。縄の付け根には薄い樹脂――琥珀膠。昨夜と同じ匂い。


「切る?」

「待って。手前で音を作る。持ち手を出させる」

 俺は棒の先で橋板をとんと二度叩いた。足音に似せた薄い音。茂みの中で息が一つ動き、縄の先に指が触れる。そこへサビーネの矢がことり――樹の幹の側に“音”を落とした。指が反射で離れた瞬間、ヘルミナが藍布越しに縄を掴み、ぐっとねじ切る。橋は落ちない。仕掛けは死んだ。


 橋を渡ると、土倉の軒先に黒い遮光覆い。“黒灯”の陸用だ。昼でも目くらましになる。覆いの側に、白い粉の皿。胡椒が混ざっている。「鼻を守れ」ヘルミナの声。クロは自分で俺の袖に鼻先を埋め、目を細める。えらい。


 倉の影に三人。袖に灰色の指の輪、ひとりはなし。荷車は一台、帆布で覆い。俺は息を整え、覆いの吸気口へ“風”を逆向きに落とした。光が鈍る。相手の目が細くなった一拍の間に、レオンが前へ。


「止まれ。荷を見せて」


 年配の一人が梶棒を斜めに構えた。踏み込みは低い。脛を狙う癖。棒の根元に“風”を薄くかけ、重心をわずかにずらす。打ちは外れ、板を叩いた。レオンが手甲で根元を弾き、逆手に奪う。もう一人が短剣。躊躇はない。刺す角度。サビーネの矢が袖を浅く留め、刃先が止まる。ヘルミナが胡椒皿に布をかけ、匂いの腹を潰した。


「子どもは下げろ」俺は輪のない若いのに声を落とす。

 若いのは歯を食いしばり、半歩だけ引いた。その足首に、樹脂糸。クロがぱしと前足で弾き、糸が草に落ちる。「だめ」


 帆布をめくる。中は麻袋。粉が十、蜜塊が四。袋口に“河骨”の焼印。底板の桟に薄い木片――蝋板が差してある。抜いて刻みを見る。


 ――《河骨/夕七/粉二十→上手(かみて)二/護送:私兵“菱枝”/合図=鈴高→低》


「“菱枝”……船宿“菱”の陸路の枝か」レオンが眉を寄せる。「港と川、繋いである」


 年配が吐き捨てた。「道は一本じゃない。切っても流れる」

「流れは切れる。――合図は鈴、高→低、だな」俺は倉の梁を見上げる。屋根下に細い鈴が二つ。梁の糸を濡れ布で一度なでる。鳴りは鈍る。替え鈴はない。


 拘束は最小で済ませた。腕輪のある二人を縛り、若いのは座らせる。ヘルミナが喉に水。サビーネは屋根へ戻る。俺とレオンは道標の先、川へ寄る細道を下見した。柳が並び、石の小橋が三つ。二つ目の橋の下――細い鎖が底で光る。流れの“鼻括り”。舟ではなく、荷車の車軸を取る高さだ。引けば一息で列が崩れる。


「鎖は残しておく」レオンが短く言う。「引く“手”を出させる」

「鈴を高→低に改める。合図は任せて」

 俺は川風の筋を読んで、鈴の音が上流へ逃げる瞬間だけ“風”を持ち上げる。鳴りは届かない。合図は切れる。


 刻が傾く。土車の音。囮の浅い轍が先に現れ、帆布の軽い荷車が角を曲がる。手綱は若い。腕輪なし。後ろから重い音。二台目、三台目――護送の私兵。袖口に“菱枝”の縫い返し。梶棒の端に金具。川寄りの男が、橋下へ視線を落とした。


「合図が来ない」私兵の一人が舌打ちした。

 鈴は鳴らない。高→低の順が、風で“消えている”。待つならここで止まる。焦るなら――進む。


「行け」金具の男が囁いた。

 最初の軽い荷車が橋を渡る。二台目が続く。鎖はまだ動かない。三台目が橋に乗った瞬間、土手の影で鎖がぎんと鳴った。引き手が動いた。俺は“風”で鎖の腹を半拍押し下げ、引きの角度をずらす。食い込みは浅い。後輪が一瞬空回りして、橋板に戻る。列の形は崩れない。


「誰だ」川べりの茂みで、引き手が身を起こす。外套の袖に灰の輪。飛針の筒が上がる。サビーネの矢が先。筒の耳を叩いて狙いを外す。針は飛ばない。茂みの影が走る。橋上の私兵が梶棒を構え直し、囮の軽車を盾にこちらを見た。


「止まれ。荷の封を見せろ」レオンが低く言う。

「関係ねえ」私兵の顎が上がる。「通せ」


 梶棒が脛を狙う角度で来た。避けない。受ける。棒の根で打ち返し、重さだけを外す。俺は刃を抜かない。だが、斬る準備は胸の奥に置いておく。踏み込みが一つ深くなれば、骨に入る角度だ。ここは路の上。崩せば人が死ぬ。崩さず止める。


 クロが橋桁へ跳び、尻尾を高くした。尾の先でぱち、と小さな火花。金具の男の手が一瞬だけ止まる。汗で湿った革に静電。その半拍でサビーネが袖を浅く留め、レオンが梶棒を払った。橋上の列は歩きの形を保ったまま止まる。


「封札を見せろ。菱の枝であろうと、通るには紙が要る」

 俺の声に、若い手綱持ちが視線を泳がせる。腰の袋から札が二枚。うち一枚は印が薄い。関所を通っていない。レオンが受け取り、端を折って匂いを嗅ぐ。蜜で誤魔化した匂い。偽札。


 金具の男の肩が僅かに沈んだ。「……くそ」


 鎖の引き手は逃げた。追わない。列を崩さないことが先。封の薄い荷を別に回し、腕輪の者だけを縄に取る。若い手綱の顔は青い。クロが近づいて靴先をちょんと触れ、「だいじょうぶ」と喉を鳴らした。若いのは力を抜き、手綱を置いた。


 帆布を開く。粉袋十、蜜塊二。底板の桟にまた蝋板。


 ――《河骨/夜:鈴高→低/“骨橋”渡り/次=“河骨裏”/頭印:灰(しるしのみ)》


「“骨橋”がここ。裏は倉の背、谷側の抜け道だ」サビーネが屋根から指で示す。

「先に裏を塞ぐ。橋は歩きのまま通す。――走らせない」レオンが割り振る。


 押収札を貼り、偽札を別袋に。私兵の金具は外し、関所へ送る。鎖は巻き取り、橋の下に隠された小壺を二つ押収。胡椒煙。ヘルミナが手早く封じる。イリアの控え札は門に送ってある――今は俺たちで写す。


「次は“裏”だ」

 川風が少し冷えた。柳が擦れ、薄い鈴がどこかで鳴った――高く、一度。低く、応えない。合図はもう、こちらの手の中にある。クロが振り向き、尻尾の先で小さく合図を返した。「いく」



 “骨橋”を抜けて、倉の裏手へ回る。谷側の斜面は浅くえぐれていて、水抜きの溝が二本。草の上に細い踏み跡。右が本線、左は見張りの足だ。


「右を行く。左は私が上から押さえる」サビーネが低く言う。

「胡椒煙、もう一度ある」ヘルミナが藍布を指でたたむ。

 レオンは梃子棒を肩に、俺は棒の握りを確かめる。クロは鼻をすんと鳴らし、「にがい、すこし」と耳を伏せた。


 谷の影で、鈴が短く一打。高い音。応えはない。合図は切れている。代わりに、草の根で金属がちりと擦れた。罠糸だ。樹脂の匂いが薄く漂う。


「糸、ここ」

 クロが前足で草をちょんと押さえる。触らない。俺は濡れ布で糸の腹を一度なで、重みを与えて落とした。音は出ない。


 裏口の板戸は半開き。内側の敷居の角が新しい。付け直しの跡。人が頻繁に出入りしている。戸の上、梁に小さな鈴が二つ。細い引き糸が壁の裏へ回っている。俺は“風”を細く当てて鳴りを吸い、ヘルミナが濡れ布で糸を一度押さえた。鈴は死んだ。


「入る。走らない」レオン。

 俺が先に身体を寄せ、戸の隙間へ“風”を落として中の匂いを拾う。粉、胡椒、油、革。火の匂いは薄い。人の息は二――奥に一、右に一。


 右の影が動いた。短剣の抜き音。脛の高さから刺し上げる角度。俺は棒の根で受け、滑らせて壁へ逃がす。レオンが一歩で距離を詰め、手首を払って短剣を落とさせた。拾わせない。足で遠くへ蹴る。男は躊躇がない目。袖の内側に灰の輪。結びが深い。下っ端ではない。


「奥、見張り一」サビーネの声が梁から落ちる。

「任せる」レオンが短く返す。


 奥の棚の陰で、もう一人が壺に手を伸ばした。煙壺。俺は“風”で壺口を上へ押し上げ、ヘルミナが布を上から被せる。火打ちは出ない。音は小さい。クロが棚の足元をとんと叩いて俺を見上げた。「した」


 棚の足の裏に薄い板。差し板を抜くと、蝋板が三枚出る。

 ――《河骨裏/鈴:高→低/夕七》

 ――《骨橋/鎖=二/引き手=白荷(しらに)》

 ――《頭“灰”=明日/印渡し/港戻し》


「“明日”に“印渡し”。ここが印の受け渡しの場だ」レオンが眉を寄せる。「頭が来る可能性」


 抑えた右の男が薄く笑った。唇の端だけ。目は乾いている。

「“頭”は来ない。印だけが動く。ここは骨。折れても替えがある」


「印は押収する」俺は淡々と答える。「替えが何本でも、今は折る」


 男が床を蹴って懐へ。近い。躊躇のない距離。刃は落としているが、肘で喉を狙う角度。俺は棒を短く持ち替え、肘内側を払って重心を崩す。膝が浮く瞬間に肩口へ当て、壁へ落とす。骨は鳴らさない。息を奪うだけで止める。クロが男の手の甲に前足をぺたと置き、爪は出さない。「だめ」


 梁の上、サビーネが低く告げた。「裏坂、二。鈴の替えを持ってる」

「行く」レオンが戸口へ。俺とクロが続く。ヘルミナは押収の封と止血を続ける。


 裏坂は短い。土の斜面に板が二枚、滑り止めの縄。上で鈴が高く一度鳴った。替え鈴だ。引き糸は谷へ向けて張ってある。鳴れば“白荷”の引き手が動く。鎖がまた上がる。


「クロ」

「うん」

 相棒の尾がぴんと立つ。毛が逆立ち、尾の先が小さく“ぱち”。俺はその軌跡を“風”で撫でて、乾いた糸の腹へ静電の針を落とす。金属がきんと小さく鳴り、糸の結びがゆるんだ。鈴は一度だけかすれ、二度目が鳴らない。上の二人が顔を上げる。サビーネが屋根の陰から矢を一本、土の縁にどすと刺して足を止めた。


「鈴は終わり。下りて、手を見せろ」レオンの声は低い。

 一人が棒を構え、もう一人が石を掴む。投石。角度は頭。俺は右手で棒を掲げて風の膜を薄く作り、石の面だけを外へ滑らせる。頭には入らない。棒の男が踏み込む。踏み込みの拍に重さはあるが、足が甘い。レオンが正面から梃子棒を合わせ、柄を滑らせて胸を押し、倒す。縄は使わない。腕を背に回し、膝で押さえる。抵抗の力が落ちたところで布紐を回す。


 谷の底で、鎖が一度ぎんと鳴り、そのまま沈黙した。引き手は動けない。こちらの鈴は死んでいる。


「裏の帳場を見る」

 板戸の内側、小机。札巻が二。封蝋は狐、横に“骨”の焼き込み。小袋に薄い金具――狐尾を二つ重ねた印。その裏に、刻み。

 ――《灰/支払い:銀三/受け:骨》


 印は小さいが、線は深い。見せ札ではない。

「印、押収」レオンが封袋に入れ、紐で縛る。


 床板の合わせ目に、もう一つ薄い板。差し込みは浅い。抜くと、地図が小さく描いてある。谷筋、橋、倉、そして川沿いにもう一つ○がついている。

 ――《骨二(こつふた)/上手(かみて)》

 “河骨”の裏の、更に上流に小さな受け場。二の骨。切っても流れると言った意味がこれだ。


「上手に“骨”がもう一つ。今日中に印を逃がす気だった」

「上手は日が落ちると道が悪い。いま行けば間に合う」サビーネが斜面を見て言う。

「俺とアキラ、クロで先行。サビーネは上から、ヘルミナは押収と衛兵への引き渡し。……走らない。橋を崩さない」レオンが割り振る。


 外へ出る前、押さえた男が低く吐いた。「“灰”は掴めない。お前らが夜に止めるのは、尾ばかりだ」

「尾からでも止める。息が細くなる」俺は短く返す。言葉を増やす意味はない。男は肩を落とし、目を逸らした。


 裏坂を上がる。草の上の踏み跡は浅いが、石の角が磨れている。人が通っている。クロが時々ふり返り、歩幅を合わせてくる。耳は前。尻尾は水平。真剣な顔。息は一定。


 谷が開ける手前、細い板橋がもう一つ。下は水抜きの細い溝。橋桁の片端に鉄の輪。引けば落ちる仕掛け。輪の根に薄い油と樹脂。昨夜と同じ道具だ。俺は棒の先で輪を軽くこつと叩き、“風”を糸に沿わせて結び目の埃だけを払う。埃が落ちる。隠し目印が消える。引き手がここへ来ても、瞬間に迷う。


 橋を渡ると、土の匂いが湿ってきた。川筋が近い。上手の“骨二”は、川べりの浅い窪地と見張り小屋。胡椒の匂いは薄い。代わりに油の匂いがする。灯を早めに起こすつもりだ。


「クロ、匂いは?」

「ひと、ふたり。……あまい、うすい。あぶら、すこし」

「火を先に落とす」レオンが頷く。


 窪地の縁に身を寄せ、覗く。小屋の前に荷車が一。帆布の下は低い。粉袋が六。奥に油皿が二。灯の囲いはまだ開いていない。見張りは二。片方は若い。腕輪なし。もう片方は袖に灰の輪。腰の短剣に飾りがある。下の者より一段上だ。


「合図を切る」

 小屋の軒に、また細い鈴。引き糸は川の葦へ伸びている。俺は呼吸を短く整え、鈴の周りにだけ“風”を落として鳴りを吸う。同時に、クロが葦の引き糸へ前足をそっと触れ、尾の先でぱち。静電をひとつだけ落とす。糸がしゅっと縮み、葦の影で結び目が緩んだ。鈴は鳴らない。


 レオンが手で三つ数え、地面を半歩蹴る。俺も一歩で小屋の陰へ。若い見張りが振り向く前に、レオンの梃子棒が手首を払う。刃は出ない。灰の輪のほうが腰へ手をやる。サビーネの矢が袖を浅く留め、動きを止める。クロが小屋の敷居に飛び乗り、油皿の縁を前足でとんと叩く。皿がわずかに傾いて油が偏り、芯が露出して乾いた。火は入らない。


「武器を置け」

 応じない。灰の輪の男は視線だけレオンの肩を見て、足をひとつ外へ滑らせた。逃げの初動。俺は棒の先で足首の前を薄く払い、重心を戻させる。サビーネが二本目。軒板にどすと刺して退路を消す。ヘルミナの藍布が後ろから来て、口と鼻に押し当てられる。胡椒は使わない。水の匂いだけ。男の肩が落ちた。


 帆布を開ける。粉六、蜜塊一。底板に差し板。蝋板が一。

 ――《骨二/受け:印のみ/“明朝”/川口へ戻し》

 “印のみ”。ここで印を受け、川口へ戻す計画。港も川も封じた今、戻す先はない。


「印の受けは不発。これで“明日”の目は一つ潰れた」レオンが封袋を確かめ、押収印を結ぶ。

「戻る。――河骨の本体に再合流。今日のうちに“印渡し”の線を切る」


 小屋を出る前、クロが葦の陰を見て耳を伏せた。「いと、まだ」

 葦の根に、もう一本細い糸。結びは浅い。引けば川面の薄い板が浮き、鈴の代わりに水音が立つ。俺は濡れ布で糸を一度押さえ、葦の葉を一枚だけ結び目に巻き込んだ。引いても、音は出ない。結び目は葉で空回りする。


 戻り道は、来たときより人の音が増えていた。谷の下で衛兵の短槍が光り、押収の荷が運ばれていく。ヘルミナが手を振る。

「蝋板の写し完了。印の袋も封済み。――裏の男二、拘束。若いのは関所送りで別扱い」


「助かる」レオンが頷き、帳場の小机に“骨二”の蝋板を並べる。

 机の天板の裏に、もう一枚薄い紙。貼り紙だ。剥がすと、簡単な表。

〈受け:印/渡し:灰/日:明・朝〉

 日付けの横、薄い×印。俺たちが切った線に、別の誰かが×を付けている。内通。関所側ではない。骨の中で“明朝”を中止しようとした手がある。


「誰かが止めたがってる」ヘルミナが眉を寄せる。

「それでも流れは切る。――“明日”にならないうちに」レオンが短く締める。


 表へ出ると、風が少し冷えた。日が落ちる。“河骨”の喉は締まった。残るのは“印渡し”の線一本と、“灰”の影。クロが肩にぴょんと乗り、耳の内側で小さく言う。「もうすこし」


「もう少し」

 歩幅を崩さず、俺たちは門へ報告に戻った。続きは、この夜のうちにやる。



 関所へ戻ると、鈴は平時に落ちていた。セルジオが帳面を開き、写しを順に受け取る。

「“骨”本体・“骨二”とも押収印済み。合図は全滅。――残りは“印渡し”一本だけだな」

「蝋板は『明朝』。でも、港と川を切ったせいで“今夜に前倒し”の可能性がある」レオン。

 イリアが新しい版木札を柱に結んだ。

〈骨=封/骨二=封〉

〈“印渡し”監視:骨橋/裏坂/川縁〉

 ランベルトは衛兵二組を輪に配し、「走らせない」を徹底させる。サビーネは屋根筋、ヘルミナは押収袋と応急。俺とクロは“鈴殺し”と糸の処理。短い割り振りのあと、すぐ動く。


 骨橋へ戻る道で、風が一段冷えた。谷底の影が伸び、草の匂いが落ち着く。裏坂の鈴はすでに死んでいるが、替え糸が残っている。クロが鼻を近づけ、前足でちょん。「ここ、あたらしい結び」

 結び目だけを濡れ布で落とし、葦へ紛れさせる。鈴は再起しない。


 “骨”の裏手で待つあいだ、谷の上から低い足音がひとつ。走らない。歩幅が細かい。腕輪はない。年若い運び手だ。肩から袋を提げ、表へ出ずに裏坂だけを使う歩き。合図が落ちたときの“内部渡し”の手順。袋口に藍糸が一本、目立たないよう縫い込まれている。昼に見つけた×印と同じ藍だ。中に“止める手”がいるのは確かだ。


 戸口の影で、レオンが囁く。「取る。怪我はさせない」

 運び手が板戸に手をかける瞬間、俺は隙間へ“風”を落として、室内の空気を外へ少し吐かせた。胡椒も油もない匂い。安全の合図だ。相手の肩の力が半拍だけ緩む。その一拍でレオンが手首を軽く返し、袋をはずす。サビーネが梁から降りて戸を押さえ、逃げ場を消す。クロが前足をぺたと靴先に置き、「とまって」と短く鳴いた。運び手は硬直し、すぐに両手を上げた。


 袋の中は薄い木箱一。封蝋は狐、その上に“骨”の焼き。箱の底に小袋――狐尾を二連にした金具、小型の印台、薄い銀板二。銀板の片方の裏に、細い刻み。

 ――《灰/明朝/受けのみ》

 もう片方には浅い“×”。内側の誰かが箱を開け、刻みを付けて戻した痕だ。止めたい意思は本物だ。


「押収」ヘルミナが封を増し、控えを走らせる。

〈印台一/銀板二/狐尾二連一〉

 運び手の喉が上下した。「……俺は、渡すだけだ」

「知ってる。名前は聞かない。――腕輪がない者は、区別して扱う。関所で」レオンが簡潔に告げる。運び手の肩の力が落ちる。


 その時、裏坂の上で草がわずかに鳴った。軽い足運び。先ほどの運び手とは違う。外套の裾が短く、投げの姿勢が静か。飛針の角度だ。俺は身を寄せ、クロが耳を伏せる。尾の先が「ぱち」と小さく光った。影から針が一。狙いは袋。

 “風”で針の腹だけを外へ滑らせる。石面にちっと刺さり、糸が伸びたまま戻らない。サビーネの矢が陰の根元へどすと落ち、肩だけを土へ縫う。うめき声。レオンが坂を二歩で詰め、手首を押さえる。外套の内側に灰の輪。結びが深い。

「確保」短い声。針筒は空にする。糸はヘルミナが布で包み、樹脂を拭い落とす。


 帳場に戻り、印台と銀板を改めて封する。イリアが写しを急ぐ。セルジオへの報せは短い文で走らせる。

〈“印渡し”押収/運び手=腕輪なし一・拘束/飛針=腕輪有一・拘束〉

 ランベルトから返しが早い。

〈門=平時/“印”保管庫渡し可〉

 動線が開いた。小箱は関所の保管庫へ直送。途中は衛兵二、屋根からサビーネ、後尾に俺とクロ。走らない。人混みを割らない。


 橋を越える前、草むらで一瞬だけ低い口笛。狐尾の符丁ではない。港で使われた“使い走り”の連絡。影が一つ、谷の向こうへ退いた。追わない。今は荷が先だ。


 保管庫に入ると、ランベルトが自ら封鎖を確認し、印を棚の奥へ納める。二重の鍵、札を二枚。

〈印台=保管/渡し不可〉

〈銀板=保管/照合待ち〉

 セルジオが朱で欄を一本増やした。

〈“印渡し”=遮断/骨列=封〉

「河骨は折れた。港と川も封。――“灰”は名だけ残す」短い総括。必要十分。


 ギルドへ戻る。ミレイユが掲示の“港/川/門”の隣に“骨”の札を打つ。

〈河骨=封〉〈印=保管〉〈明朝の渡し=無効〉

 控えは口で通す。

 レオン「『骨橋・骨二、封。運び手一拘束、飛針一拘束』」

 俺「『印台と銀板を押収、保管庫渡し。内通の“×”痕あり』」

 サビーネ「『鈴の替え糸無力化。屋根上異常なし』」

 ヘルミナ「『負傷軽微。樹脂糸と針筒押収』」


 短い粥。クロは塩抜きの水を三口。尻尾で椅子をとん、とん。「おわり?」

「“骨”は終わり。明朝の渡しもない」

 相棒は胸を張り、前足で俺の指をちょんと押す。真面目な顔で喉がころと鳴る。きちんと可愛い。


 道具を整える。棒の革を拭き、鈴紐の目印糸がずれていないかを見る。押収袋は事務へ。イリアが版木札を一枚増やす。

〈次:照合=銀板/“灰”の印〉

 “灰”の名は蝋板と外套の裏、そして銀板の刻みで一致した。場所は出ていない。だが、線は薄くなった。港・川・骨の三段が折れて、渡しの芯が消えた。


 白樺亭に戻ると、マルタが「顔色は夜のまんまだよ」と粥を二人分盛り、リナがクロの頭を軽く撫でる。「きょうもえらい」

 相棒は目を細め、前足をそろえて座り直す。「あした、やすむ?」

「午前は休む。午後は“銀板の照合”だけ」

「うん」


 寝る前に、簡単に手帳へ記す。

・骨=二拠点封/合図死

・印=押収(印台・銀板)/保管

・内通“×”痕あり

・拘束=腕輪有一・無一

 鈴が一度、低く鳴った。街の音は落ち着いている。窓の外は川風。港の匂いは薄く、谷の土の冷えが戻ってきた。


 灯を落とす。クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点で俺の腕をとん、とんと押す。「ねる」

「寝る」

 息を揃えた。今夜はここまで。明けたら“印”の照合へ進む。次の線は、そこから見える。

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