第48話 「河骨(かわほね)を折る」

 明け四つ。ギルドの卓に薄紙の地図が三枚重ねで広がる。港と川口に赤い印、そこから内陸へ青の細線がのび、葦原の真ん中に小さく《河骨》――水草の名で呼ばれる集荷所が印されていた。

「昼に受け、夕まずめに流す癖だ」セルジオが短く言い、札に三行だけ書く。〈帳/蝋板/葦札〉。「押さえるのは記録。人は深追いしない。流れを折る」

 レオンが役割を置く。「先触れは俺とサビーネ。アキラとクロは匂いと“音”の刈り取り。ヘルミナは印と樹脂の照合、イリアは掲示と控え。――走らない、声は短く」


 出る前に、ヘルミナが藍布を差し出した。「クロ、“ぱち”は布の上で三回まで」

「うん」

 相棒は前足を揃えて布の端に触れ、尻尾の先を小さく上げる。ぱち、ぱち、ぱち――細い火花が藍に吸われ、焦げ跡は残らない。満足そうに耳がぴんと立つ。かわいい。

「本番は合図を切る時だけ」

「わかってる」胸を張る声が小さいのに頼もしい。


 街外れから葦原に入る。湿った土の匂い、魚油と樹脂の薄い混ざり。風は川上から、音がよく通る日だ。足元に細い鈴蔓(すずつる)が張られている。踏めば高い音が走る。

 サビーネが指で三本、右・中・左。矢の腹で蔓をそっと持ち上げ、俺が“風”でたるませる。鈴は鳴らない。クロが鼻先で節をすんと嗅ぎ、「やに、すこし」。印の樹脂が塗ってある。合図の根。

「根は帰りに落とす。今は通る」レオンが低く言い、影を移す。


 途中、葦の影に黒い舌がちらり――沼蜥蜴(ぬますぎ)だ。背に棘、目が黄色い。成獣なら面倒だが、これは若い。クロの耳がぴたりと伏せ、俺の裾をちょいと引く。「いまは、いかない」

「うん」俺は掌を胸の前で返し、匂いの流れだけをほんの少し上へ押し上げる。沼蜥蜴は空気の変化に舌を止め、ぬるりと別の溝に消えた。――ここは、綺麗事が通らない土地だ。足を一歩誤れば、葦も水も牙になる。


 〈河骨〉は、一見ただの乾場だった。黄色い花の板札、草を干す棚、奥に黒い板小屋。だが棚脚の釘は新しく、地面の踏み目が斜めに流れている。荷車を素早く回す線。棚の柱の内側に、狐の尾を二つ連ねた小さな焼印。風に甘さ。

「見張り二。棒の持ち方が街慣れだね」サビーネが屋根へ視線を滑らせる。小屋の板の継ぎ目で紙がさざめく音。帳場が生きている。火打ちの小さなぱちも一度。煙壺はまだ寝ている。


 俺は門代わりの横木の影にしゃがみ、掌を合わせる。押さない、巻かない。鈴蔓の“喉”だけをつまんで、鳴る角度を一つ上へ。クロが隣で耳を伏せ、尾の先で「いま」。

 ――鈴は鳴らない。草の間を抜け、棚脚の陰へ滑る。足音は短く、石でなく泥。棒の先で土の皮を軽く撫で、ぬかるみを避ける。クロは前足で小さくとん、と合図を刻む。歩幅が合う。


 黒い小屋の手前、板の合わせ目に樹脂糸。濡れ布でふっと触れると、糸が自重で落ちる。扉の上には細い板木。叩けば高い音――偽の鈴替わり。

「合図の枝は二つ。鈴蔓と板木」

「先に“音”を潰す」レオンが顎で合図し、サビーネが屋根。俺は蔓の根に風を入れ、樹脂の節目をほどく支度をする。クロは棚脚の影に座って前足を揃え、目が真丸。「おと、きったら?」

「走らない、で折る」囁けば、相棒は胸を張って小さく「うん」。


 そのとき、葦の端から灰色の外套が二つ。腕輪。灰の指。外と内の“音”をつなぐ走りだ。ひとりは若い、左利き。もうひとりは年かさ、顎の角度にためらいがない。

 俺は息を細くし、蔓の根へ風を落とす。鳴らせない角度に変える。同時に、屋根からことり――サビーネの合図。板木の打ち手が顔を上げた瞬間、矢が板の吊り紐だけをすっと撫で、板が斜めに傾いて“音の面”を外す。鳴らない。


 外套の年かさが腰へ手をやる。短剣。踏み込みが低い。俺は棒の先で地面の泥をちょいと弾き、足裏の重心を半拍ずらす。刃は自分の足に触れ、わずかに鈍る。――刺せない角度を作るだけでいい。

「武器を置け」レオンが一歩だけ出る。声は短く、真っ直ぐ。

 若い方の喉が鳴った。蔓が鳴らないことに気づいている。外の合図が死ねば、中は遅れる。彼らの“手順”が崩れる。


 棚の裏で紙の音が止まった。帳場の気配がこちらを見た。いま、帳を閉じられたら終わる。サビーネが屋根のへりに体を伏せ、「入口」と指先で書く。

「クロ、入口の匂い、切って」

「うん」

 相棒が鼻先で土をすっと撫で、尻尾を小さく上げる。ぱち――藍布の上で練習した弱い火が、土の表でほぐれて空気の皮だけを震わせる。甘い匂いが喉から離れ、扉の先に戻る。中の鼻先が一瞬、上を向いた。呼吸が半拍、乱れる。


 レオンがその乱れに合わせ、扉を手の甲でこんと叩く。「帳、こちらへ」

 返事はない。けれど、紙の音がほんの少し近づいた。イリアが棚脚の陰で札を広げ、押収の文言を短く走らせる。〈河骨=押収/帳=優先/蝋板=別袋〉


 年かさの外套が、なおも刃を取る構えを捨てない。足癖は街の棒術だ。脛、手首、のち喉。順が見える。

 俺は棒を縦にして柄尻で脛の外を軽く打ち、刃の根元に“風”を沿わせる。重みの芯だけを横へ外す。刃は石に当たって鈍い音。若い方が息を呑み、半歩引いた。サビーネは矢を番えたまま、矢尻を地面に軽く当てるだけ。威嚇の音で十分だ。走らせない。


 小屋の中から低い声。「……入るなら、火は使うな」

「使わない。帳と蝋板、それだけだ」レオンが短く返し、俺を見る。

 頷いて前へ。扉の鴨居に触れて、静電の“ぱち”がないか確かめる。影糸はない。扉は手前に開く。湿った紙と樹脂と甘粉の匂い。棚の上に小さな秤、脇に蝋の雫が固まった小皿。帳は二冊。厚いほうが古い流れ、薄いほうが今夜の準備。

 クロが鼻先で棚の足をこんと叩く。「した」

 棚の隙に細い板。引き抜くと、狐印の蝋板が三。

 ――《河骨/本日夕四/灯:葦二→一》

 ――《渡し=丘道/荷=砂・粉/狐尾なし》

 ――《次:谷間“樫根”/夜二》


 外でサビーネが短く、「右」と合図。葦の端からもう二。鈴蔓は鳴らないが、足は速い。

「帳、袋へ。――出る」レオンが背で言い、イリアが札を貼る。〈押収済〉の赤。

 俺は蝋板を布で包み、胸の内袋へ。薄い方の帳はヘルミナへ。印の照合は彼女の眼が一番早い。


 扉を出た瞬間、風の向きが変わった。川上からの筋が細く切れて、葦の奥から別の匂い――酒と蜜を荒く混ぜた、鼻を下げさせる“混ぜ粉”。

「風、切り替え」

 掌を胸の前で返し、匂いの帯だけを上へ送る。クロが耳を伏せ、尻尾で俺の手首をちょんと叩いた。「いま、いい」

 若い外套が息を吸いそこね、足が半拍遅れた。年かさが肩で小さく舌打ち。鈴蔓が鳴らず、板木も鳴らず、匂いも効かない。彼らの“音”が、ここで折れる。


 棚の奥で、別の音。木靴が二足、早い。荷台の軸がきぃと鳴った。裏手の丘道から、荷車が一台、鼻先をこちらに向けている。梶棒の根に、見覚えのある金具――鎖一本で三台を同時に切り替える仕掛けだ。

「来る」レオンの声。

 サビーネが屋根からひと呼吸ぶんだけ身を起こし、合図も声も出さずに矢を一本、空に立てる。影が動きをためらった、その半拍――


 ここで折る。


 俺は棒の握りを確かめ、風の“喉”を指先に集めた。クロが胸を張り、尻尾の先をほんの少しだけ上げる。ぱち、と小さな電が走り、藍布の気配が指に残る。準備はできている。

 鈴は鳴らない。板木は斜め。匂いは上。合図は全部、こちらの手にある。――“河骨”の根を、今、抜く。



 明け四つ。ギルドの卓に薄紙の地図が三枚重ねで広がる。港と川口に赤い印、そこから内陸へ青の細線がのび、葦原の真ん中に小さく《河骨》――水草の名で呼ばれる集荷所が印されていた。

「昼に受け、夕まずめに流す癖だ」セルジオが短く言い、札に三行だけ書く。〈帳/蝋板/葦札〉。「押さえるのは記録。人は深追いしない。流れを折る」

 レオンが役割を置く。「先触れは俺とサビーネ。アキラとクロは匂いと“音”の刈り取り。ヘルミナは印と樹脂の照合、イリアは掲示と控え。――走らない、声は短く」


 出る前に、ヘルミナが藍布を差し出した。「クロ、“ぱち”は布の上で三回まで」

「うん」

 相棒は前足を揃えて布の端に触れ、尻尾の先を小さく上げる。ぱち、ぱち、ぱち――細い火花が藍に吸われ、焦げ跡は残らない。満足そうに耳がぴんと立つ。かわいい。

「本番は合図を切る時だけ」

「わかってる」胸を張る声が小さいのに頼もしい。


 街外れから葦原に入る。湿った土の匂い、魚油と樹脂の薄い混ざり。風は川上から、音がよく通る日だ。足元に細い鈴蔓(すずつる)が張られている。踏めば高い音が走る。

 サビーネが指で三本、右・中・左。矢の腹で蔓をそっと持ち上げ、俺が“風”でたるませる。鈴は鳴らない。クロが鼻先で節をすんと嗅ぎ、「やに、すこし」。印の樹脂が塗ってある。合図の根。

「根は帰りに落とす。今は通る」レオンが低く言い、影を移す。


 途中、葦の影に黒い舌がちらり――沼蜥蜴(ぬますぎ)だ。背に棘、目が黄色い。成獣なら面倒だが、これは若い。クロの耳がぴたりと伏せ、俺の裾をちょいと引く。「いまは、いかない」

「うん」俺は掌を胸の前で返し、匂いの流れだけをほんの少し上へ押し上げる。沼蜥蜴は空気の変化に舌を止め、ぬるりと別の溝に消えた。――ここは、綺麗事が通らない土地だ。足を一歩誤れば、葦も水も牙になる。


 〈河骨〉は、一見ただの乾場だった。黄色い花の板札、草を干す棚、奥に黒い板小屋。だが棚脚の釘は新しく、地面の踏み目が斜めに流れている。荷車を素早く回す線。棚の柱の内側に、狐の尾を二つ連ねた小さな焼印。風に甘さ。

「見張り二。棒の持ち方が街慣れだね」サビーネが屋根へ視線を滑らせる。小屋の板の継ぎ目で紙がさざめく音。帳場が生きている。火打ちの小さなぱちも一度。煙壺はまだ寝ている。


 俺は門代わりの横木の影にしゃがみ、掌を合わせる。押さない、巻かない。鈴蔓の“喉”だけをつまんで、鳴る角度を一つ上へ。クロが隣で耳を伏せ、尾の先で「いま」。

 ――鈴は鳴らない。草の間を抜け、棚脚の陰へ滑る。足音は短く、石でなく泥。棒の先で土の皮を軽く撫で、ぬかるみを避ける。クロは前足で小さくとん、と合図を刻む。歩幅が合う。


 黒い小屋の手前、板の合わせ目に樹脂糸。濡れ布でふっと触れると、糸が自重で落ちる。扉の上には細い板木。叩けば高い音――偽の鈴替わり。

「合図の枝は二つ。鈴蔓と板木」

「先に“音”を潰す」レオンが顎で合図し、サビーネが屋根。俺は蔓の根に風を入れ、樹脂の節目をほどく支度をする。クロは棚脚の影に座って前足を揃え、目が真丸。「おと、きったら?」

「走らない、で折る」囁けば、相棒は胸を張って小さく「うん」。


 そのとき、葦の端から灰色の外套が二つ。腕輪。灰の指。外と内の“音”をつなぐ走りだ。ひとりは若い、左利き。もうひとりは年かさ、顎の角度にためらいがない。

 俺は息を細くし、蔓の根へ風を落とす。鳴らせない角度に変える。同時に、屋根からことり――サビーネの合図。板木の打ち手が顔を上げた瞬間、矢が板の吊り紐だけをすっと撫で、板が斜めに傾いて“音の面”を外す。鳴らない。


 外套の年かさが腰へ手をやる。短剣。踏み込みが低い。俺は棒の先で地面の泥をちょいと弾き、足裏の重心を半拍ずらす。刃は自分の足に触れ、わずかに鈍る。――刺せない角度を作るだけでいい。

「武器を置け」レオンが一歩だけ出る。声は短く、真っ直ぐ。

 若い方の喉が鳴った。蔓が鳴らないことに気づいている。外の合図が死ねば、中は遅れる。彼らの“手順”が崩れる。


 棚の裏で紙の音が止まった。帳場の気配がこちらを見た。いま、帳を閉じられたら終わる。サビーネが屋根のへりに体を伏せ、「入口」と指先で書く。

「クロ、入口の匂い、切って」

「うん」

 相棒が鼻先で土をすっと撫で、尻尾を小さく上げる。ぱち――藍布の上で練習した弱い火が、土の表でほぐれて空気の皮だけを震わせる。甘い匂いが喉から離れ、扉の先に戻る。中の鼻先が一瞬、上を向いた。呼吸が半拍、乱れる。


 レオンがその乱れに合わせ、扉を手の甲でこんと叩く。「帳、こちらへ」

 返事はない。けれど、紙の音がほんの少し近づいた。イリアが棚脚の陰で札を広げ、押収の文言を短く走らせる。〈河骨=押収/帳=優先/蝋板=別袋〉


 年かさの外套が、なおも刃を取る構えを捨てない。足癖は街の棒術だ。脛、手首、のち喉。順が見える。

 俺は棒を縦にして柄尻で脛の外を軽く打ち、刃の根元に“風”を沿わせる。重みの芯だけを横へ外す。刃は石に当たって鈍い音。若い方が息を呑み、半歩引いた。サビーネは矢を番えたまま、矢尻を地面に軽く当てるだけ。威嚇の音で十分だ。走らせない。


 小屋の中から低い声。「……入るなら、火は使うな」

「使わない。帳と蝋板、それだけだ」レオンが短く返し、俺を見る。

 頷いて前へ。扉の鴨居に触れて、静電の“ぱち”がないか確かめる。影糸はない。扉は手前に開く。湿った紙と樹脂と甘粉の匂い。棚の上に小さな秤、脇に蝋の雫が固まった小皿。帳は二冊。厚いほうが古い流れ、薄いほうが今夜の準備。

 クロが鼻先で棚の足をこんと叩く。「した」

 棚の隙に細い板。引き抜くと、狐印の蝋板が三。

 ――《河骨/本日夕四/灯:葦二→一》

 ――《渡し=丘道/荷=砂・粉/狐尾なし》

 ――《次:谷間“樫根”/夜二》


 外でサビーネが短く、「右」と合図。葦の端からもう二。鈴蔓は鳴らないが、足は速い。

「帳、袋へ。――出る」レオンが背で言い、イリアが札を貼る。〈押収済〉の赤。

 俺は蝋板を布で包み、胸の内袋へ。薄い方の帳はヘルミナへ。印の照合は彼女の眼が一番早い。


 扉を出た瞬間、風の向きが変わった。川上からの筋が細く切れて、葦の奥から別の匂い――酒と蜜を荒く混ぜた、鼻を下げさせる“混ぜ粉”。

「風、切り替え」

 掌を胸の前で返し、匂いの帯だけを上へ送る。クロが耳を伏せ、尻尾で俺の手首をちょんと叩いた。「いま、いい」

 若い外套が息を吸いそこね、足が半拍遅れた。年かさが肩で小さく舌打ち。鈴蔓が鳴らず、板木も鳴らず、匂いも効かない。彼らの“音”が、ここで折れる。


 棚の奥で、別の音。木靴が二足、早い。荷台の軸がきぃと鳴った。裏手の丘道から、荷車が一台、鼻先をこちらに向けている。梶棒の根に、見覚えのある金具――鎖一本で三台を同時に切り替える仕掛けだ。

「来る」レオンの声。

 サビーネが屋根からひと呼吸ぶんだけ身を起こし、合図も声も出さずに矢を一本、空に立てる。影が動きをためらった、その半拍――


 ここで折る。


 俺は棒の握りを確かめ、風の“喉”を指先に集めた。クロが胸を張り、尻尾の先をほんの少しだけ上げる。ぱち、と小さな電が走り、藍布の気配が指に残る。準備はできている。

 鈴は鳴らない。板木は斜め。匂いは上。合図は全部、こちらの手にある。――“河骨”の根を、今、抜く。



 夕影が谷底へ沈みはじめた。樫の根が複雑に張って、風の通り道がところどころで捻れている。谷名どおりの“樫根”。煙は籠もる、音は割れる、匂いは渦を巻く。

「布、厚め」ヘルミナが口当てを配る。藍布を二つ折り、内側に湿らせた灰粉を薄く。樹脂煙に強い。

 鈴の規定は〈灯二→一〉。蝋板の通りなら、谷の上で二、下で一。上の“二”は見張り小屋、下の“一”は渡しの仮台。イリアが板の隅に短く図を走らせ、レオンが指で押さえる。

「走らない。上から息を外す。……アキラ、風は“持ち上げ”。クロは鼻と、例の“ぱち”は三回まで」

「うん」相棒は真顔でうなずき、尻尾の先を小さく立てた。かわいい。けど、頼もしい。


 谷へ入る前に、音の試し。俺は掌を胸の前で返し、谷口の空気の皮を指一本ぶんだけ持ち上げる。音が上へ逃げ、草むらの虫の声だけが耳に残る。サビーネが半歩進んで、軒の影に指を二本立てた。〈二〉の合図。

 上の小屋で、鈴がちり、と一度だけ震えた。引き綱に“張り”。樹脂糸だ。

「濡らす」ヘルミナが小瓶を差し、俺は霧みたいに薄く風で飛ばす。糸が水を吸い、鈴の腹がふにゃ、と落ちる。もう鳴らない。小屋の影が気づいて顔を上げる――その半拍、サビーネの矢尻が板の縁をことりと叩く。上を見させる音。こちらは動かない。走らない。


 谷路の石は丸い。足裏で回る。クロが先に立ち、板の目や石の継ぎ目をとん、と示す。音の出ない線。俺はそこだけ踏む。

 谷の真ん中で、甘い匂いが薄く広がった。粉だ。線は細い。鼻を下げさせる“芯”。

「右へ払う」

 細い風で、線を形ごと右の砂利へ送る。砂利が匂いを食ってくれる。馬がいたら、鼻を上げて通るだろう。クロが鼻先をすこし鳴らし、「うすい」と言うように耳を倒した。いい。


 木立ちの陰で、鎖の響き。丘道で見たものより軽いが、腹に薄い油紙。

「蔓じゃない。鎖の“息”だ」レオンが低く。

「矢、一本で足りる」サビーネは弦を半引き。

 先頭の荷車の梶棒に、若いの。腕輪はない。後ろの二つに、外套の肩。灰色の輪。灰指の下っ端。火口は鎖の中ほど、巻きは細い。

「クロ」

「うん」尻尾の先で、ぱち。細い糸みたいな電が油紙の“張り”だけを舐め、火口の縁を弱らせる。火はつかない。レオンが泥に滑る前に鎖の下へ潜り、手甲で輪をこつと返す。サビーネの矢が輪の結び目をかん、と撫で、ヘルミナが藍布で油輪をぎゅ、とねじ切る。三拍。三台は、ただの三台に戻った。

「置いて帰れ」レオンの声は短い。若いのは梶棒を下ろす。外套の肩が舌打ちし、脛を狙って棒を振る。

 俺は“風”の面で棒根の重みを一指ぶん浮かせ、重心を外へ滑らす。外套は自分で足をもつれさせ、樫根の根張りに膝を打った。刃は抜かせない。音は広げない。


 上手から、ぱち――乾いた火打ち。次いで低い煙の匂い。樹脂か、蜜。

「煙樽、上」ヘルミナが布を厚く。

「灯を先に落とす」

 見張り台の“二”の灯は、板囲いに油紙の覆い。吸気口を風で逆に押し、呼吸を浅くする。じゅ、と一度鳴いて、腹の赤がしぼむ。サビーネは矢を出さない。板の縁だけを“音”で叩き、手を上へ誘う。上の影は覆いを押さえる動きが遅れる。灯は落ちた。


 その時、谷底の向こう、仮の渡し台で、一がちり。鈴蔓。走らせる気配。

「イリア、札」

「はい」柱に〈押収中/静粛〉。通りの目に理由を置く。

 俺は橋台の足元に落ちていた小石を一つ拾い、風で“音”の帯の背中を押す。鈴の高音が、谷の上へ逃げる。人の耳には届かない高さ。蔓を引いた影が首を傾げ、鈴をもう一度――鳴らない。

 クロが欄干の足へぴょん、と跳び、前足で蔓の結び目を押さえる。爪を出さない。ぺた、と肉球。可愛い仕草で、確実に止める。「だめ」


 渡しの板の下、黒い壺。口は狭い。煙壺だ。火が入れば白い甘い煙が板の下に溜まり、人の足を乱す。

「壺、抜く」

 俺は板の隙に棒をさし、てこの支点だけ借りる。ヘルミナが湿布布を壺口にかぶせ、サビーネが矢尻で紐の節をことりと外す。壺は息をせず、布の中で静かになった。

 すぐ上。葦の切れから飛針。低い角度。狙いは膝裏。

 棒の影で受け、軌道を二指。針は渡し台の留め金にち、と刺さって止まった。毒の匂いが薄い。あわてた投げだ。

「右、葦。ひとり」

「取る」サビーネの矢が根元すれすれを土に打ち、砂がぱさっと上がる。出所は潜った。追わない。ここは“根”だ。根を折る。


 小屋の床下から、薄い板。イリアが指でこん、と鳴らす。「空洞」

 引き抜くと、蝋板が二と、骨札が一。

 ――《樫根/夜二/渡し→荷分け》《次:“小間(こま)”/印=小・間》

 骨札には焼き抜きの小印。四角の中に一本線。“小間屋”の符丁。谷の下から街道沿いへ繋ぐ小さな卸しの網。

「“小間”につながる」レオンが短く言い、イリアが札に落とす。〈小間=夜二三/印“小・間”〉

 隅にもう一つ、小さな欠片。薄い金輪の一部。港で拾った偽鐘と同じ素材。ここでも“音”で人を動かす腹だったのだ。


 上の小屋で板の軋み。誰かが板木を落として騒ぎを作るつもり――来る。

「上」

 サビーネは矢をまだ使わない。矢尻で梁をこつ、と一度。上の影の肩がわずかに止まる。その間に、俺は“風”を天井に沿わせて皮一枚を持ち上げる。板は宙に浮いたまま動かず、影の手が滑って自分だけが前へ。レオンが柱の陰から出て、胸で受けて床へ優しく落とす。骨は折らない。動きだけ止める。

「武器を置け」

 男は息を整える間もなく、短剣を床に放った。クロが前足で刃先から遠い側をとん、と押す。「だめ」真面目。かわいい。


 谷の上で、風向きがふと変わった。冷えの筋。煙が戻りそうな気配。

「一度、上げる」

 俺は谷全体の“喉”を押し上げ、煙の腹を高い空へ逃がした。布の内側の匂いが薄くなる。ヘルミナが「助かる」と短く言い、樹脂壺の蓋を編み紐で固めなおす。


 その時、谷の裏道――樫根の根の間を縫う小さな獣道で、梶棒がぎっと鳴った。小さな荷車が一つ、谷の外へ鼻を向けている。楔は焼き切られている。坂の勢いで一気に抜ける気だ。

「レオン」

「押し返す」

 彼が正面から肩で受ける。俺は車輪の前に小石を一つ、風で“置く”。足裏には小さすぎるが、輪には効く。こりっと乗って、車輪が半拍遅れる。レオンの肩が押し戻しに間に合う。

 梶棒の男が怒鳴り、鈴蔓の結びを引く――が、クロがひゅっと飛んで、蔓の結び目を爪を出さずに“押す”。ぺた。鳴らない。尻尾の先がぱち、と小さく光った。

「二回目」相棒は自分で数えるように小声。

「あと一回だよ」

「うん」耳がぴん。


 渡し台の向こう、小屋の裏で革の擦れる音。逃げる背。灰の輪。下っ端ではない歩幅。

 サビーネが半歩ずれ、弦を半引きから一段だけ増す。矢は浅く、袖の布だけを樫の皮へどすと留めた。血は出ない。動きが止まる。

 近づくと、腕輪の刻みに爪の溝が一本多い。“指の親”。名は出さない。

「蝋板」レオンが言う。袖の内側から薄い封を引き抜く。蜜蝋の封に小印“間”。

 ――《小間/夜二三/蔵裏・格子/合図:灯零→一》

 〈二→一〉でなく〈零→一〉。灯を一度落としてから上げる“逆”。港でも川でも見なかった手。

「合図が変わる。零から一」

「落とさせて上げるつもり。……なら、先に“零”を作っておけばいい」レオンが顎へ手。「俺たちの“零”で」


 押収の段取りは早い。袋十、壺二、骨札一、蝋板三。鈴蔓は根から折る。板木は外へ。渡し台の板は一枚だけ外し、鈴の引き綱は湿布で“張り”を奪って柱へ巻きつけておく。再使用は難しい。

 ランベルトの小隊が谷口から入り、短槍の列が静かに道を広げる。

「受け。――負傷は?」

「なし。煙軽度。飛針かすり、処置済み」

「上等だ。搬出はこっちでやる。……少年、猫」

「うん」クロが胸を張り、尾の先でぴっと“終わり”のしるし。衛兵が笑いを噛み殺す。空気が和らぐ。


 控えを口で通し、札に落とし、押収に印を置く。夜はすでに“二”の手前。

「小間は“零→一”。蔵裏の格子」イリアが指で地図の小路を辿る。

「街の中だ。走るな。声も、小さく」サビーネが矢を収める。弦は緩めない。

 ヘルミナが藍布を新しいものに替え、俺の手のひらに薄い油を一滴。「樹脂で手が滑る。風の角度が鈍る」

「助かる」掌が軽くなる。クロが俺の袖に顔をすり、と押し付けた。「がんばる」

「あと一回だけ“ぱち”を使える」

「うん」真面目な顔。かわいい。



 谷を抜けると、街の灯が遠くに列になって見えた。市場筋の外れ、倉場の裏手に“蔵裏の格子”。小間屋の印〈小・間〉は目立たない。庇の裏、雨が当たらない場所に焼いてある。

 路地は狭く、音が跳ね返る。足音は一人分で十分。レオンだけが前に出て、俺は風の“皮”で彼の足音の背中を撫でる。音は前へ行かず、上へ逃げる。サビーネは屋根。ヘルミナは後ろ、イリアは角。クロは俺の足下、前足を揃え、耳は前。

 格子の内側、灯の呼吸が浅い。誰かが“零”を作る準備をしている。火口の油紙に、指の跡。

「合図が来る前に、こっちで“零”」

 覆いの縁に指を滑らせ、吸気口が開くより先に風で逆に押す。じゅ。灯の腹がしぼむ。中の人影が「あれ?」と顔を上げる。その半拍、サビーネが屋根の端で矢尻をことり。上を向く。

 俺は“零”のまま、息を静かに保つ。上の通りで遠い鈴。まだ本合図ではない。

 格子の影から、灰の輪の手首が一本。蔵の奥へ合図を送る姿勢――

「だめ」クロがぴょん。前足で手首の甲をぺた、と押す。爪は出さない。押すだけ。

 同時に、路地の端から、飛針。低く、速い。狙いはクロの背。

「クロ!」

 彼の背毛がぶわ、と立ち、尻尾の先がぱち。最後の一回。細い電が糸みたいに走り、飛針の影糸に触れる。糸の樹脂が一瞬だけ乾いて、針は勢いを失い、格子の縁にち、と刺さって止まった。

 俺は肩の力を抜き、息を一つ吐く。「お見事」

「おわり」相棒は自分で数を締めた顔。かわいい。けど、ほんとに助かった。


 蔵の中で人が動く。板を落として騒ぎを作る気配――“零→一”の前に人を集める常套。

「板、借りる」

 俺は風で床の埃だけをふっと上へ持ち上げ、板と板の摩擦を一声だけ減らす。落ちない。動かない。ヘルミナが側面から入り、樹脂壺を布で口止め。サビーネは窓から腕だけ差し、矢尻で紐の節をひとつ、ふたつ。音を作らず、根を切る。

 レオンが正面で短く言う。「武器を置け。逃げるなら今じゃない」

 灰の輪の二人はためらい、腕輪のない若いのはすぐ両手を上げた。クロが靴先をちょん。「みず?」

「……飲む」若いのは息を吐いた。ヘルミナが塩抜きの水を渡す。喉の音が落ち着く。


 格子の根に埋め込まれた薄板。イリアが指先で探り、引き出す。蝋板が一。骨札が一。

 ――《小間/蔵裏・格子/零→一/次=“指(し)”》

 “指”。指示の指ではなく、灰“指”の指。呼び名が、ついに正面の字になった。

 サビーネが屋根から囁く。「上で一。今は鳴らない。零が長い。向こうも迷ってる」

「今のうちに、押収と“封”」レオンが短く指示し、俺たちは動く。走らず、速く。


 押収札は赤。壺は藍布、糸は濡れ布、粉袋は十。蜜塊は二。小間の印は薄い。

 ランベルトの“受け”は早い。短槍の先が路地の影に立ち、衛兵が人を避ける壁を作る。

「小間、封。合図“零→一”の蝋板。……“指”だと?」

「はい。次の行で単語だけ」イリアが札に落とす。

 ランベルトは顔を引き締め、鈴を一打。「上(かみ)に回す。これは関所だけじゃ足りん」

 セルジオの控えに、太い字が増える。〈小間=封/次=“指”〉


 押収が進む間、クロが俺の足下に来て、前足で袖をちょいと引いた。「アキラ」

「どうした」

「きょうの“ぱち”、おわり」

「うん。十分。よくやった」頭を撫でると、相棒は胸を張り、喉をころと鳴らした。真面目な顔がふにっと崩れて、かわいい。けれど、ここからは“指”。慎重に行く。


 サビーネが屋根から降り、矢を一本ずつ拭いながら言う。「“指”は、尾を切られても走る手。逃げ道の“道具”を持ってる」

「潜り、影糸、偽の鐘。……全部、もう見た」レオンが頷く。「今度は“頭”に近い。走らず、詰める」

 セルジオの札が来る。〈指=夜更け/場所:追って〉〈走らない/声短く〉〈押収:即時印〉

 港、川、河骨、樫根、小間。尾は細り、匂いは濃くなった。

 俺は棒の握りを確かめ、クロの耳をそっと撫でる。彼は目を細め、「のむ?」と短く聞き、ヘルミナの差し出す水に舌を一度。耳がぴく。

 夜は、まだ半分。

 “指”へ、行く。



 蔵裏の格子に赤い封札を二重に掛ける。イリアが板札へ短く清書し、レオンが押収印を上から重ねた。

〈小間=封/押収:粉10・蜜塊2・樹脂壺2・影糸束〉

〈合図“零→一”=無効化/蝋板押収〉

 鈴は鳴らさない。通りの角へ一人ずつ散って、人波の“皺”をやさしく撫でる。走らない。声は短く。夜の流れは、こちらが整える。


 裏口を抜けると、路地の先で果物屋の若い衆が指先で眉をつついた。「上(かみ)から合図。関所へ“指”の文が回ったって」

「もう動くか」セルジオの帳面が届くより早い。灰“指”は、尾を切られた先で必ず“声”を使う。鈴や灯ではない、紙と足。

 レオンが頷く。「封を渡して一息。――“声”を拾いに行く。市場筋の公証小屋だ。押印前に潰される」

「屋根は私」サビーネが軒に指をかけ、ふっと影になって消える。

 ヘルミナは藍布を新しいのに替え、俺の掌へ薄い香草油を一滴。「匂いの向きが濁る。風の角度が鈍るから」

「助かる」

 クロは前足を揃え、尻尾をぴんと立てた。「ぼく、“ぱち”なし。はな、だけ」

「うん。十分働いた。鼻と足、それと“ぺた”を頼む」

「ぺた、まかせて」胸を張る。かわいい。けど、頼もしい。


 市場筋は、夜でも耳が忙しい。荷縄の軋み、遠い笑い、酔い客の喉。公証小屋の窓は半分だけ開いて、内側に火小壺。押印台の角に、封緘用の赤い樹脂棒が転がっている。

 門方からの伝令が一人、息を切らして駆け込み、書記の机へ紙束を置いた。書記が印章を探す、その隙――戸口の影で、布を顔まで上げた影が紙束へ手を伸ばす。

「だめ」クロが先に跳んだ。肉球で紙の角をぺた、と押さえる。爪は出さない。影の指先が空を掴む。

 俺は風で火小壺の“息”だけを斜めに逸らし、紙の端へ熱が寄らないように押さえる。紙を焼き捨てるつもりだったのだ。

 レオンが体を半歩差し入れ、影の肩を胸で受けて戸枠にやさしく当てる。「武器を置け」

 影は短剣ではなく、細い針束を袖から滑らせた。投げる角度。投げる前に、サビーネの矢尻が窓桟をことり。目が上へ僅かに跳ねる。その半拍で、針束は彼自身の袖口に絡んで落ちた。

 ヘルミナが口当て布を差し出し、書記に短く言う。「吸って。煙、入る」

 書記が頷き、紙束に重しを載せる。封はまだ。印は空。俺は紙の上に置かれた薄板をめくった。蝋板だ。さっきの格子と同じ手。

 ――《指:夜更/合図=灯“零”→一/公証済→“据(す)え”へ》

「“据え”?」

「据え置き場。動かす前の溜め場所ね」ヘルミナが眉を寄せる。「街中でやるには、ずいぶん乱暴」

 レオンが紙束を小屋の奥へ押し入れ、書記に低く告げる。「印は明け。夜のうちは“控え”で保管。関所と連名で封じる」

「受けました」書記の声は驚くほど落ち着いていた。夜の仕事は、彼らも慣れている。


 小屋を出ると、セルジオの控えが追いついた。

〈小間=封〉〈公証小屋:文押収/“据え”記載〉〈“指”=夜更〉

 ランベルトの副官が肩で息をしながら合流し、「北側の公証小屋にも“据え”の書き入れ」と短く報せる。指は二手。音ではなく、紙で回る。

「割る」レオンが地図をひらき、短く分担する。「俺とアキラ、クロは“据え”。サビーネは屋根上、北と西を往復で見る。ヘルミナとイリアは控え書と封札。セルジオは関所へ“夜更け封鎖”の回覧」

「了解」動きは小さいが、早い。走らず、速い。鈴は鳴らない。代わりに、紙が街を走る。


 “据え”は白壁の蔵の脇――と見せて、実は隣の空き家の床下。板の継ぎ目に薄い釘。外から見えない場所に、紐の結び目。イリアが膝をつき、指先でこん、と最小の音。空洞。

 俺は風で埃を上へ撫で上げ、鼻に来る匂いを薄くする。甘い――けど、粉より樹脂が濃い。手垢の匂いが薄い。今夜の分だけ詰めた“据え”。

 クロが床の隙間に鼻先をぴたりと沿わせ、「ここ」と尻尾で示す。爪は出さない。

 レオンが鉤で板を起こす。下には小箱が四つ。紐の結び目は裏通し――逃げる時、一度引くだけで全部を肩へ載せられる仕組みだ。

「箱、押収。……待て」

 四つのうち、ひとつだけ軽い。中は紙の束。紙端に細い金粉が点々。偽印を押す“粉刻印”。印の縁にざらつきを足して、遠目には本物に見せる手口。

「悪さが増えてきたわね」ヘルミナが舌打ちする代わりに、藍布で箱の縁を包む。「指の近くほど、まっとうな道具を汚す」

 残り三つは粉袋と蜜塊。小間で押収したのと同じ配合。俺は風で匂いの腹を上へ逃がす。夜更けの家に甘さを残さない。


 板を戻す前、床下の梁に薄い金具が一つ、打ち付けられていた。狐尾を二つ重ねた形――裏に、見慣れない刻み。

 ――《○に一》

「“零に一”。今夜の合図そのもの」イリアが繰り返す。「灯を落としてから、一。……逆手」

「先に“零”を作って、上げさせない」レオンが顎に手を当て、短く決める。「灯を全部、呼吸だけ落としておく。上げる手は、こちらの合図を待つ。待たなければ、街の目で捕る」

「合図は?」

「紙」サビーネが屋根から降り、懐から白い紙片を見せた。端に赤い目印。「屋根伝いに“零”を渡す。上げるのは一度だけ。門の鈴はゼロ。……“指”は、音の無い街を怖がる」


 段取りは短い言葉で回った。関所から“夜更け封鎖”が掲示され、各所の灯は腹だけ浅くされる。落としても真っ暗にはしない。人が怖がるから。だけど“零”。合図が来るまで、息をしない灯。

 クロは柱の影で前足を揃え、「いま、しずか」と小声。耳は前、尻尾は低くまっすぐ。

 俺は膝を折り、額と額を軽く合わせた。「この先は“ぱち”なし。鼻と足と、“ぺた”だけ」

「うん。ぺた、つよい」真剣な顔で言ってから、ちょっとだけ喉がころ、と鳴る。かわいい。


 “零”の街は、思いのほかよく聞こえた。板の軋み、革の擦れ、遠い水音。偽の鐘は鳴らない。鈴はゼロ。

 やがて、上手の細路で紙が一枚、風に逆らって滑った。サビーネが屋根で指を二本、ぱた。〈来た〉

 路地の奥、外套の影が二。紙を受けて、灯の覆いに手を伸ばす。上げる気だ――その前に、覆いの呼吸を俺たちが抑える。“零”は続く。影が苛立って、別の灯へ走る。走らせない。角ごとに、紙の白だけが滑る。灯は息をしない。

 彼らはついに足を止めた。紙を破り、路面に捨てる。破片が散る。クロが前足でその一つをぺた、と押さえた。指先に触れた赤い粉――偽印の粉だ。

「押さえ」レオンが短く言った時、通りの向こうで衛兵の槍が一本、ひかりを持った。走らない包囲。影は自分で壁を背にして、逃げ道を失う。

 指の輪を持つ男は二人とも腕を落とした。名は言わない。だが、袖の裏に挟んだ蝋板は語る。

 ――《指:“灰”/明日“薄明”/据え=川上“骨場”/合図:紙→鈴→灯》

「明けに“骨場”。河骨の本体だ」レオンが息を落とす。「今日の“河骨”は折れたが、明けに“骨場”を潰す。……“灰”が来る」

 サビーネが矢を収め、屋根の縁に腰をかけた。「音を戻すのは夜明け。鈴は一打。紙は関所で。……今夜はここまで」

 ランベルトの鈴が、一打。ゼロ。街は“平時”へ戻る準備をはじめる。人の息が戻り、犬が遠くで吠え、川の冷えが石を舐めた。


 ギルドに戻ると、ミレイユが掲示に太い線を引いた。

〈河骨=折/小間=封/据え=押収〉

〈“指”=明け“骨場”〉

 セルジオは帳面を閉じ、「半夜、全員寝ろ」と言う。一切の長広舌はなし。

 白樺亭の扉を開けると、マルタが湯を二つ置いてくれた。クロのは塩抜き。相棒は真面目な顔で一口、「おいしい」と耳を立て、次にぼすんと俺の胸に乗った。

「きょう、おわり?」

「おわり。よく“ぺた”した」

「うん。あした、“はな”つよくする」

「頼りにしてる」

 灯を落とす前、手帳に三行だけ。

・小間=封/据え=押収/“零”運用

・紙=“指”/明け“骨場”

・鈴=一→ゼロ(今夜)


 鈴がひと打ち。ゼロ。川風は冷たいが、胸の上は温かい。クロの左前足の黒い点が、とん、と小さく俺の腕に触れる。

 目を閉じる。――夜は折り返しを過ぎた。明け、“骨場”。そして、“灰”。

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